第74話 永久封印
ロンドン・サザビーズ本店、評価会場。
日本政府代表団が放った言葉は、広大な空間に、鉛のように重く、そして冷たい沈黙を落としていた。
「我々は、万象器が人類に与える利益を否定しません。しかし……未知のまま使うことは、人道ではなく、蛮勇です」
「万象器を扱う資格とは、万象器を使える技術力ではありません。……万象器を前にして、使わないと決められる理性です」
【所有しない】
【使用しない】
【現時点の人類には、扱う資格がない】
【国際共同による永久封印】
日本の提示した『管理案』は、会場に集うすべての権力者、富豪、科学者たちの胸の奥底に、鋭い楔を打ち込んでいた。
誰もが、喉から手が出るほど欲していた。金、資源、兵器、食糧。あらゆるものを無限に創り出す、神の指先。
だが、日本は「使えると思い込んだ瞬間に、人類を壊す力である」と、その欲望の根源を真っ向から否定し、自ら手を引く(封印する)道を示したのだ。
会場の中央。未だ万象器の現物は姿を見せず、ただ黒い封印ケースの映像だけがスクリーンに映し出されている。
その横で、エドワード・フェアチャイルドが静かに口を開いた。
「……皆様の提案は、すべて、故アシュワース卿の遺言に従い記録されました」
フェアチャイルドの落ち着いたバリトンボイスが、静寂の海に波紋を広げる。
彼が軽く顎を引くと、背後の巨大スクリーンに新たな文字が浮かび上がった。
【Final Disposition Phase(最終処遇フェーズ)】
「これより……最終処遇条項を、開示いたします」
最終条項が開示される直前の、わずかな待機時間。
各国の代表団は、表向きは沈黙を保ちながらも、水面下で激しい思考と計算を交錯させていた。
アメリカ代表団の席。
セレスティアル・ウォッチの科学主任であるケンドール博士は、組んだ両手の親指を強く噛みながら、苦渋の表情を浮かべていた。
(科学者としては……どうしても見たい。調べたい。どのようなエネルギー変換効率を持っているのか、起動条件は何なのか、制約はどこにあるのか……!)
知的好奇心という名の欲望が、彼の内側で暴れ回っている。
だが、アメリカの代表として同席している国務省とCIAの幹部たちは、極めて冷徹な政治的判断を下しつつあった。
「……大統領の指示通りだ」
CIA幹部が、声を潜めてケンドールに囁いた。
「アメリカ単独での接収・管理案は、理にかなってはいるが、他国の信用を絶対に得られない。ここで無理に強行すれば、ロンドンは火の海になる。……日本の出した『完全封印案』は、非常に苦いが、我々が他国を抑え込むための最も現実的な落とし所(妥協点)だ」
アメリカは、欲しい。だが、「ロシアや中国に渡るくらいなら、誰も触れない場所に埋めてしまう方がマシ」なのだ。
万象器が封印されても、セレスティアル・ウォッチの技術力があれば、将来的な非接触での研究の余地は残される。
(……アメリカが勝つことより、人類が負けないことを優先する。それが大統領の決断ならば、従うしかない)
アメリカは、悔しさを押し殺しつつも、【条件付き賛成】へと大きく傾いていた。
EUおよびヘルメス協会の席。
こちらは、アメリカのような葛藤は少なく、むしろ日本案を高く評価する空気に満ちていた。
「欲望を自ら禁じる選択……。これこそが、精神的成熟の証だ」
ヘルメス協会の導師が、目を閉じ、深く頷く。
EUの実務官僚たちも、資源市場の崩壊という最悪の経済的悪夢を回避できるこの封印案に、胸を撫で下ろしていた。彼らは、自らがその監視機構の中枢に座ることを条件に、【賛成】の札を握りしめた。
中国代表団の席。
李天明国家主席の特使は、腕を組み、彫像のように動かない。
(日本に主導権を握られるのは腹立たしいが……彼らの『人類の未熟さを認める』という論理は、我々が掲げる仙人・太乙様の試練(教え)に極めて近い)
中国は、物質的欲望の極致である万象器に、最初に飛びつくような見苦しい真似はできない。「精神的覇権国家」としての格を保つためにも、ここは超然とした態度で封印に賛成する方が、外交的な勝利となる。
さらに、ロシアの手に万象器が渡り、無限の兵站を得たサイボーグ部隊が国境を脅かす悪夢を考えれば、封印は中国にとっても大歓迎であった。
(ただし、中国文明がその封印の監視側から排除されることは断じて許さん)
中国は、自らの優位性を確保した上での【賛成】を決意した。
そして。
会場の中で、ただ一国。ロシア代表団の席だけが、周囲の空気から完全に孤立し、異様な殺気と焦燥感を放っていた。
『状況は悪い』
ロシア代表が、耳に仕込んだ極小の通信機で、モスクワのヴォストークへと暗号通信を送る。
『アメリカ、日本、EU、そして中国までもが、封印という弱者の選択に傾きつつある。このままでは、多数決で我々は完全に孤立するぞ』
『多数派の形成は、日本案に傾いています。計算通りの確率です』
無機質なヴォストークの音声が返る。
『封印など、断じて認められるか! 使える力を見過ごすなど、我々が抱える資源の枯渇と死活問題に対する裏切りだ!』
代表の男は、机の下で拳を強く握りしめた。
『武力介入の指示をくれ。外に待機させているスペツナズを動かす』
『現段階での強行介入は、極めて非推奨です』
ヴォストークは、冷酷なまでに論理的だった。
『今ここで動けば、サザビーズの評価権を即時剥奪されるだけでなく、「ロシアが世界を滅ぼす装置を強奪しようとした」という事実が国際的に確定します。大統領が描く五年計画に、修復不可能な重大な支障を来します』
『我々が万象器を狙っていることなど、すでに世界中が分かっているだろうが!』
『分かっていることと、物理的に証明(確定)されることは、国際政治において全く意味が違います。……堪えなさい』
ロシア代表は、血の滲むような思いで奥歯を噛み締めた。
力があるのに、使えない。ルールという目に見えない鎖に縛られ、彼らは焦りだけを募らせていた。
「これより、最終処遇条項を開示いたします」
遺言執行人が、認証卓の前に立った。
複数の物理的な暗号鍵、英国公証人の生体署名、サザビーズ法務部のデジタル認証、そして国際監査人の最終確認。
すべてのプロトコルが解除されると、会場の巨大スクリーンに、古びたタイプライターの印字のような文字が浮かび上がった。
【Final Testamentary Disposition Clause(最終遺言処遇条項)】
「故アシュワース卿の遺志を、代読いたします」
遺言執行人の、感情の欠落した声が響く。
「『万象器は、人類の手によって、正当な評価の機会を与えられなければならない。
その評価は、単なる金銭的価値によって測られるものではなく、文明的資格に基づくものである。
正当な評価の結果、適格な所有者、または管理者が定まった場合。万象器は、その条件に従い引き渡される』」
参加者たちが、息を呑む。
だが、遺言はこれで終わりではなかった。
「『――しかし』」
執行人が、顔を上げた。
「『正当な評価を経てもなお、適格者が存在しない場合。
あるいは……人類全体が、万象器を使用する資格を未だ持たない(不適格である)と判断された場合。
万象器は……【永久封印】されるものとする』」
会場が、大きくどよめいた。
アシュワース卿は、最初から「誰も手に入れられない(封印される)」というルートを、自らの遺言の中に組み込んでいたのだ。
「そして、その場合の処遇についても、卿は明確に指定しておられます」
執行人は、スクリーンの文字を指し示した。
「『万象器は、速やかにスイス連邦内に所在する、卿が生前契約した最も堅牢な【指定貸金庫】へと移送される。
以後、指定された絶対条件が満たされるまで、いかなる国家、組織の介入も許さず、永久封印とする』」
スイスの、貸金庫。
永世中立国であり、世界最高峰の金融保管ノウハウと強固な法的安定性を持つ国。
スクリーンには、さらに厳しい【封印条件】が羅列されていく。
・所有権は、いかなる落札者・国家にも移転しない。アシュワース遺言信託が名義を保持する。
・開封には、主要複数国の合意、国際機関の認証、遺言信託、スイス管理者の同時承認が必要。
・一定期間ごとの非接触による「封印状態の監査」のみを許可する。
・起動、研究、物理的移動は原則として一切禁止する。
「……ありましたね。完全なる封印ルートが」
三神編集長が、観測者席で小さく呟いた。
「日本案は……」
沖田室長が、スクリーンを見上げながら言う。
「ええ」
三神は、ニヤリと笑った。
「アシュワース卿が最初から用意していた『解答用紙』の、最も安全な答えの一つに……見事に届いたということです」
「さて、皆様」
フェアチャイルドが、再びマイクの前に立った。
「本処遇に関する採決(決断)の前に。……故アシュワース卿より、皆様へ向けた【最後のメッセージ】をお預かりしております」
会場の照明が再び落ち、スクリーンに、先ほどと同じ古い書斎の映像が映し出された。
暖炉の火の粉が爆ぜる音。
革張りの椅子に深く腰掛けた老いたアシュワース卿は、少しだけ疲れたような、しかし満足げな笑みを浮かべていた。
『諸君が、この映像を見ているということは。……万象器は、少なくとも一度は、人類という猛獣の群れの前に置かれたということだ』
卿の肉声が、静かに、優しく語りかけてくる。
『私は、この器の存在を、誰にも知られずに一生隠し続けることもできた。
あるいは、世界を支配したいと願う誰か一人に、密かに譲り渡すこともできた。
強大な国家に委ねることも、理想を掲げる財団に託すことも、宗教の御神体として捧げることもできたのだ』
卿は、ゆっくりと首を横に振った。
『だが、そうはしなかった。
……なぜなら、この万象器が持つ最初の危険は、「起動」することではないからだ』
卿の目が、カメラのレンズ越しに、会場の権力者たち一人一人を射抜く。
『最初の危険は……【所有】だ』
息を呑む音が、会場のあちこちから漏れた。
『万象器は、持った者を神にするのではない。
……持った者に、「自分は神になれる」という恐ろしい【錯覚】を与える。それこそが、この器が放つ最初の、そして最悪の猛毒なのだ』
卿は、椅子からゆっくりと立ち上がり、カメラに近づいた。
『もし諸君が……この毒にまみれた器を手に取る前に。
自らの意志で、それを【手放す(封印する)】ことを選べたのなら。
……その時、私は諸君(人類)を、少しだけ評価しよう』
それは、人類の歴史に対する、皮肉と愛情の入り混じった壮大なテストだった。
『大いなる無限の力を前にして。……使わぬという選択ができる文明は、この広い宇宙においても、滅多にない』
最後に、卿は優しく微笑んだ。
『売れなかった宝ほど、よい宝もある。
……諸君がそう判断するのなら、喜んで、私の用意した金庫を使いたまえ』
プツン、と。
映像が切れ、スクリーンは漆黒に戻った。
会場は、完全な沈黙に支配されていた。
誰も、すぐには拍手しなかった。
誰も、すぐには反論できなかった。
万象器は、これまで「喉から手が出るほど欲しいもの」であった。
しかし、アシュワース卿の最後の言葉によって、それは「欲しがる者の精神を破壊し、文明を測るための毒(試金石)」として、完全に再定義されてしまったのだ。
「……やはり、彼は最初から、この万象器を『売る』つもりなどなかったんですよ」
三神が、静かに言った。
「では、なぜわざわざサザビーズでオークションなどを開いたのです?」
沖田が問う。
「『売らない(買わない)』と、自らの意志で決められるかどうか。……それを見るためです」
沈黙が続く中。
その重苦しい空気を切り裂くように、激しい足音を立てて立ち上がった男がいた。
「……こんな茶番が、許されるとでも思っているのか!!」
ロシア代表の男だった。
彼は、顔を真っ赤に紅潮させ、演台の遺言執行人とフェアチャイルド、そして会場全体を睨みつけた。
「これは、完全な茶番だ!
力を持つ者たちが、安全な椅子に座ったまま、持たざる者に対して『お前たちにはまだ早い』と見下しているだけの、傲慢な自己満足だ!」
ロシア代表の怒号は、単なる悪役の咆哮ではなかった。そこには、切実な血の通った「理屈」があった。
「万象器があれば! 飢えた国々に、明日からでも食糧を与えられる!
不当に資源を搾取され、苦しんでいる国々を救える!
戦争で破壊され尽くした都市を、一瞬で元の姿に復興できるかもしれないのだぞ!
……それを、ただ『自分たちが制御しきれないから怖い』という理由だけで、地下の金庫に閉じ込めるだと!? それは傲慢だ! いや、それこそが人類に対する裏切りだ!!」
会場の一部が、静まり返った。
特に、資源を持たない小国の代理人や、貧困にあえぐ地域の出身者たちの顔には、ロシアの言葉に強く同調する複雑な表情が浮かんでいた。
『使えば救える命がある』。その主張は、決して完全な悪ではないからだ。
「万象器を恐れ、封印して見ないふりをする文明など、永遠にこの星から出ることはできない!」
ロシア代表は、力強く拳を振り下ろした。
「危険を恐れず、犠牲を払ってでもそれを制御しようと足掻くこと。それこそが人類の【進歩】だ! 封印は、進歩の拒絶だ!!」
圧倒的な迫力。
ロシアの主張は、会場の空気を一気に引き戻そうとしていた。
その時。
「……ロシア代表の言うことには、一つの真実があります」
日本代表団の席から、沖田室長が静かに立ち上がり、透き通るような声で応じた。
会場が少しざわつく。日本が、ロシアに同調するのか?
「万象器が本当に使えるのであれば、救える人々が間違いなくいるでしょう。
飢餓、水不足、治らない病、戦争の被害、そして資源の枯渇。……それらを『救いたい』と願う言葉を、我々日本は、決して否定しません」
沖田は、真っ直ぐにロシア代表を見据えた。
「しかし――」
沖田の声が、一段階低く、重くなる。
「【救えるかもしれない力】で、【世界そのものを壊してしまうかもしれない】。
……その巨大な危険を無視して、ただ目の前の欲望のために力を使うことは。それは決して『救済』ではありません」
沖田は、一歩前に出た。
「今の我々は、万象器の止め方を何一つ知りません。
質量の由来も、エネルギーの源も、暴走した時のキルスイッチも、何も確立していない。
……それでも使うというのなら。それは科学による『進歩』ではなく、ただの無責任な【祈り】です」
「しかも、極めてタチの悪い祈りですね」
三神が、座ったまま補足する。
「“きっと大丈夫だろう”、“自分たちなら制御できるだろう”という。……人類の歴史上、何度も何度も致命的な失敗を繰り返してきた種類の、傲慢な祈りです」
沖田は、最後に、会場の全員に向けて力強く締めくくった。
「我々は、万象器の存在価値を永遠に否定するのではありません。
……ただ今日、我々人類には、これを使う資格がまだ無いと。そう、素直に認めるだけです」
「その通りだ」
アメリカ代表団から、ケンドール博士に代わって、国務省の代表が立ち上がった。
「アメリカ合衆国は、日本案を基礎とした『万象器の永久封印処理』に、正式に賛成を表明する」
会場が、大きくどよめいた。
本来なら最も力ずくで万象器を欲しがるはずの超大国アメリカが、自ら封印の道を選んだのだ。
「我々は、万象器を恐れている。……だからこそ、責任を持って封じるのだ」
アメリカ代表は、ロシアを鋭く牽制するように言った。
「恐れを知らない無知な者に、これを渡して世界を壊されるよりは、遥かに良い選択だ。……ただし、封印状態の国際監査、非接触での研究の余地、および強奪に対する共同防衛網の構築を条件とする」
「EUも、賛成を表明します」
EU代表が、迷うことなく手を挙げた。
「スイスという中立国での保管は、国際監査に最も適しており、法的安定性もある。我々の倫理的基準にも完全に合致する」
「欲望を抑制することを知る者は、精神の門に近い」
ヘルメス協会の導師も、恭しく首を垂れた。
「……中国も、万象器の永久封印に賛成する」
中国代表の特使が、静かに立ち上がった。
ロシア代表が、裏切られたというように中国を睨みつける。
「この器は、物質的欲望の極致である」
中国代表は、仙人の弟子としての威厳を持って語った。
「我々人類は、まだ未熟だ。……未熟を認めることは、決して敗北ではない。未熟を認められず、力に溺れることこそが、真の敗北である」
中国は、精神的覇権国としての立場を完璧に演じきり、ロシアを完全に孤立させた。
「開催国である英国も、故アシュワース卿の遺志を尊重し、スイスへの永久封印に賛成します」
英国政府代表が、安堵の表情で告げた。
「ロンドンは、開かれた市場であり、議論の場でした。……しかし、世界を終わらせる爆弾の保管場所であり続けるべきではありません」
大国たちの意思は、完全に一つにまとまった。
「これより、最終処遇に関する採決手続きに移ります」
遺言執行人が、厳かに宣言した。
主要評価参加主体による、電子投票。
スクリーンに、各国の意思が次々と表示されていく。
日本:賛成
アメリカ:賛成
EU:賛成
中国:賛成
英国:賛成
その他の財団や宗教機関の多くも、大国の流れに乗り、賛成または棄権票を投じた。
そして。
ロシア:【反対】
「……多数の評価主体が、万象器の即時使用および単独所有を明確に否定し、スイスにおける永久封印処理を支持いたしました」
遺言執行人が、最終的な結果を宣言した。
「よって、故アシュワース卿の最終遺言処遇条項に従い。
……万象器は、スイス連邦の指定貸金庫へ、厳重に移送されます」
【永久封印案、可決】。
その瞬間。ロシア代表は、顔を紫に腫れ上がらせ、今にも拳銃を抜きそうな勢いで立ち上がった。
『……堪えろ』
通信機の奥で、ヴォストークの声が冷たく響く。
『万象器の所在は、移送が完了するまで多国籍監視下に置かれます。今ここで攻撃(暴発)すれば、ロシアが世界を敵に回して強奪を試みたと確定し、完全な国際孤立を招きます。……五年計画が、水泡に帰します』
ロシア代表は、ギリギリと歯を食いしばり、口から血が出るほど唇を噛んだ。
「……我々は、この決定に断固として反対する!」
ロシア代表は、吐き捨てるように叫んだ。
「だが、手続きの不当性は記録させてもらう。……歴史は、今日の貴様らの『臆病』を、必ず裁くだろう!」
ロシアは、一歩退いた。
だが、彼らは決して納得していない。彼らの目には、激しい復讐と、奪取の炎が未だに燃え盛っていた。
「では……移送の手続きに先立ちまして」
フェアチャイルドが、静かに言った。
「封印状態のままではございますが。……皆様に、その姿をお見せいたしましょう」
会場の中央。
分厚い装甲板で覆われていた床が、油圧の低い音を立てて静かに開いた。
地下からせり上がってきたのは、透明ではない、黒く分厚い多層物理シールドに覆われた特殊封印ケースだった。
電磁波を遮断し、量子乱数で監視され、熱、放射線、重力異常のすべてをシャットアウトする、人類の持ち得る最高峰の檻。
ケースの表面に設置された、非接触センサー用の小さな観測モニター。
そこに、万象器の『淡い輪郭』だけが、ぼんやりと映し出されていた。
掌サイズにも見えるし、人間の頭蓋骨ほどの大きさにも見える。
見る角度によって、形が違う。多面体のようでもあり、滑らかな球体のようでもあり、繊細な花弁のようでもあり、複雑な機械部品の集合体のようにも見える。
色は、深い黒曜石のようであり、冷たい金属のようでもあり、渦巻く星雲のようにも見えた。
「……っ」
会場の全員が、息を呑んだ。
直接見たわけではない。センサー越しの、ぼやけた輪郭を見ただけだ。
にもかかわらず、その存在が放つ異常な引力(欲望を吸い寄せる力)に、誰もが魂を掴まれたような感覚に陥った。
アメリカのケンドール博士は、モニターに顔を近づけ、「どうしても直接見たい」という狂気的な欲望を、必死に机を握りしめて抑え込んでいた。
「……なるほど」
三神が、その輪郭を見つめながら、静かに呟いた。
「何か、分かるのですか?」
沖田が横で問う。
「いえ」
三神は、首を振った。
「ただ……これは確かに、“値段をつけてはいけないもの”ですね」
スイス側の保管機関の代表者が、真っ直ぐに立ち上がり、世界に向けて宣誓を行った。
「スイス連邦は、この万象器を【所有】しません。
【使用】しません。
【研究】もしません。
ただ、この絶対の封印状態を維持し、管理するのみです」
スイス代表の、氷のように冷たく、厳格な声が響く。
「我々が預かるのは、無限の力ではありません。
……人類が、『この力を使わない』と決断したという、【決定そのもの】をお預かりするのです」
その重い宣誓をもって、ロンドンでの狂気の評価手続きは、完全に幕を閉じた。
数日後。
アルプスの山中、スイスの地下深くにある超高セキュリティ貸金庫。
冷たい花崗岩と、最新のチタン合金に守られた、誰もいない無機質な通路。
多国籍監視団(日本、アメリカ、EU、中国、英国、そして不満顔のロシア)が立ち会う中。
万象器を収めた黒い封印ケースが、最深部の保管庫へと静かに運び込まれた。
物理的な重厚な扉が、一つ、閉まる。
生体認証と量子暗号でロックされた扉が、もう一つ、閉まる。
さらにその奥の、複数国の同時承認がなければ絶対に開かない最終防爆扉が、重々しい音を立てて閉ざされた。
各国の代表が、封印のプロトコルに電子署名を行う。
ロシア代表だけが、最後まで忌々しげに舌打ちをして、反対意見を付記した上で署名した。
ガチャン、と。
最後の、気が遠くなるほど重い金属音が、地下空間に響き渡った。
その音は、万象器という人類史上最大の誘惑が、物理的に世界から隔離されたという、明確な『決着の音』であった。
日本。首相官邸地下。
帰国した沖田室長と三神編集長からの報告を受け、矢崎総理は深く息を吐き出した。
「……見事に、封印できたのね」
「はい。……少なくとも、今は」
沖田が、慎重に言葉を選んで答えた。
「今は、ね」
総理も、その言葉の意味を正確に理解していた。
「ええ。万象器という『現物』は、確かにスイスの地下深くに封印されました」
三神は、疲れ切った顔で、コーヒーカップを両手で包み込みながら言った。
「ですが……“あらゆる物質を創造できる万象器というシステムが、この地球上に存在する”という【事実(概念)】までは、封印できません」
世界市場は、万象器の封印決定を受けて、少しずつ落ち着き(買い戻し)を取り戻し始めていた。
だが、暴落前の水準には、決して戻っていない。
人々は、市場の根底に「いつでも価値がゼロになるかもしれない」という恐怖を抱えたまま、薄氷の上で取引を続けることを余儀なくされていた。
総理は、重く頷いた。
「人類は……【無限】を、見てしまったのね」
「そして、それを自分たちの手で閉じ込めた」
三神は、少しだけ誇らしげに言った。
「今回は、それだけで十分かもしれません。……我々は、最悪の試験に、何とか落第せずに済んだのですから」
スイスの地下貸金庫。
何重もの分厚い扉の奥、絶対の闇と静寂に包まれた空間。
万象器は、そこにある。
動かない。光らない。音もしない。
それは、世界を均一な灰色の塵に変えて壊せるかもしれない。
飢えた世界を救い、地上の楽園を作れるかもしれない。
誰も、その真実を知らない。
だが、世界中の権力者たちが、それがそこにあることを知っている。
(アシュワース卿。……あなたの試験、ひとまず人類は落第しませんでしたよ)
三神は、日本の空の下で、死んだ貴族に向かって心の中で語りかけた。
(ただし、合格したとも言い切れません。
……だって、誰もが心の奥底で思っているはずですから。
『いつか、あそこの扉を開けて、あの力を使う日が来るのではないか』、とね)
万象器は、封じられた。
だが、人類が一度その瞳に焼き付けてしまった“無限”の夢と欲望の残り香は、もう二度と、完全に封じ込めることはできなかった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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