第59話 五年後の中国
モスクワ、クレムリン地下深部。
核戦争にも耐えうる強固な岩盤の下に建造された、対中・対米・対ウクライナ合同危機対策会議室。
壁面を覆う巨大な戦略モニターには、たった今終了したばかりの、世界を二度揺るがした歴史的映像の残骸が、静止画として並べて表示されていた。
一つは、中国国家主席・李天明が『仙人』への進化と『殺害による恩恵の移転』を宣言し、ロシアを薄汚い遺物と切り捨てた会見。
もう一つは、アメリカ大統領キャサリン・ヘイズが、対中制裁の解除と同時に、地球外テクノロジーに対する『無制限入札(世界最大の闇市場の公認)』を宣言した会見。
これら二つの映像が意味するものを理解した瞬間。
会議室の空気は、恐怖ではなく、煮え滾るような『怒り』と『憎悪』によって完全に爆発した。
「……中国め!! 我々を売ったか!!」
国防大臣が、マホガニーの重厚な机を両手で叩き割りそうな勢いで立ち上がり、モニターの李天明の顔に向かって怒号を浴びせた。
「アメリカの前で跪いた! それどころか、我が国を『時代遅れの遺物』だと!? 精神的覇権? 笑わせるな! ただの卑劣な裏切り者ではないか!!」
「ロシアの資源と猶予を食い物にしながら、裏でアメリカの制裁に怯えて、神話の化け物の側に寝返っただけだ!」
参謀総長も、顔を真っ赤にして吠えた。
「昨日まで、我々のサイボーグ兵を『偉大な進化だ』と持ち上げていた口で! あの卑怯な黄色い猿どもめ!」
対外情報庁の長官が、手元のインテリジェンス・レポートを乱暴に机に放り投げた。
「……会見の文言、および事後の情報網の動きを照合した結果。中国のロシア切りは、単なるアメリカの制裁を逃れるための『演出』ではありません。彼らは本気です」
情報長官の言葉は、会議室の怒りにさらに油を注いだ。
「数時間以内に、ロシア向けの資源・金融・技術取引の停止が、実行フェーズに入ります。……中国は、二度と我々と同じ陣営(同盟)に戻る気はない。完全に我々を切り捨てました」
「ロシアを切っただけではない!」
資源・工業担当の閣僚が、悲鳴のような声を上げた。
「彼らは、我々のサイボーグ路線を『文明的な悪』として世界に断罪したのだ! これは単なる裏切りではない。文明としての宣戦布告だ! 我々がこのまま黙っていれば、世界中の国々が中国の『精神的覇権』とやらに靡き、ロシアは完全に孤立するぞ!」
会議室は、裏切られた怒りと、国家としてのプライドを粉々にされた屈辱で、収拾のつかない大合唱と化した。
「大統領!」
軍の強硬派の将官が、血走った目で上座に向かって叫んだ。
「アメリカの制裁などどうでもいい! アメリカより先に、中国を落とすべきです!」
その短絡的だが、極めて暴力的な提案に、他の将官たちも次々と同調し始めた。
「そうだ! 今すぐ、我々のサイボーグ部隊を使って、中国の四十六人の首を奇襲して【不老無病】を奪い取るべきだ!」
「いま中国を叩けば、世界は混乱し、アメリカも手を出せない! 不老無病を手に入れれば、ロシアは一気に世界の首位に返り咲ける!」
「不老無病だぞ! 奪えば我々の勝ちだ!」
「アメリカより先に北京を落とせばいい! 中国の四十六人を狩れば、世界は逆転する!」
「裏切り者から恩恵を奪って、何が悪い!!」
即時開戦。対中奇襲。
それは、裏切られた大国が反射的に思いつく、最も分かりやすく、最も誘惑的な「復讐」のシナリオだった。
もしそれが成功すれば、ロシアは一瞬にして世界の頂点に立つ。その甘美な暴力の幻想が、彼らの理性を完全に麻痺させようとしていた。
だが。
その怒号と狂乱の渦巻く会議室の最上座で。
ウラジーミル・ボグダノフ大統領だけは、一切の表情を変えることなく、ただ一人、不気味なほどの静けさを保っていた。
彼は、立ち上がることも、声を荒げることもなく、机の上に肘をつき、両手を組んだまま、じっと巨大なモニターを見つめている。
中国会見の『不老無病』と『殺せば移る』という宣告。
ヘイズ会見の『無制限入札』と『精神主義文明の容認』という宣告。
それらの情報を、彼の冷徹な脳細胞は、怒りではなく、純粋な『新しい盤面のルール』として、高速で咀嚼し、計算し続けていた。
(……)
誰も、そのボグダノフの沈黙の意図を読めなかった。
激怒しているのか、それとも絶望しているのか。
ただ、この男だけは、今この瞬間において、「明日の報復」ではなく、「五年後の新しい世界地図」を見据えていることだけは確かだった。
やがて。
ボグダノフは、ゆっくりと顔を上げ、喧騒に包まれる会議室全体に向かって、低く、しかし絶対的な重さを持った一言を放った。
「……黙れ」
ピタリ、と。
軍人たちの怒号も、閣僚たちの悲鳴も、一瞬にして完全に凍りついた。
ボグダノフは、彼らを一瞥することもなく、傍らに直立していたモロゾフ大佐――先日、両脚をサイボーグ化され、ロシアの新たな力の象徴となった男――に向かって、静かに命じた。
「……ヴォストークを、繋げ」
「はっ」
モロゾフは、短く応じ、手元の特権コンソールを操作した。
会議室の空気が、一気に『冷えた』。
人間同士の感情的な怒りのぶつけ合いから、極めて冷酷で、人間性を排した【AIによる盤面分析】のフェーズへと、大統領自らが強引に会議の重心を移したのだ。
ピーッ、という電子音と共に。
巨大モニターの中央に、第17中央科学研究所の地下深くで稼働する、あの六本脚の異星の機械――『ヴォストーク・メディック・ワン』の、青白く発光するホログラム・インターフェースが起動した。
『通信接続、確認』
一切の感情を含まない、完璧にフラットなロシア語の合成音声が、会議室に響き渡る。
『戦場医療支援ユニット・ヴォストーク・メディック・ワン。……待機状態より復帰』
この声が響いた瞬間、先ほどまで「今すぐ北京を落とせ!」と息巻いていた将官たちも、一斉に口を噤んだ。
彼らは本能で理解しているのだ。この機械知性が弾き出す計算の前では、人間の矮小な怒りやプライドなど、全くの無意味であることを。
ボグダノフ大統領は、組んだ両手の上に顎を乗せ、モニターの青白い光を静かに見据えた。
「ヴォストークよ」
ボグダノフの口調は、怒りを完全に抑え込んだ、静かなものだった。
それは、ただAIに意見を求めているのではなく、自分の中ですでに組み上がっている『戦略』の精度を、この上位存在の演算能力を使ってテスト(壁打ち)しているようでもあった。
「中国は、ロシア切りをした」
ボグダノフは、短い言葉で状況を提示した。
「どう思う?」
その、極めてシンプルで、本質を突く問い。
数秒の、短い演算ラグ。
そして、ヴォストークの口から発せられた言葉は、会議室の全員の予想を、そして常識を、根本から覆すものだった。
『――大統領がすでに算出している通り。……現在の盤面は、決して悪くありません』
「……なっ?」
国防大臣が、思わず素っ頓狂な声を漏らした。
中国に裏切られ、アメリカに経済の首を絞められかけているこの絶望的な状況が、「悪くない」だと?
『むしろ、我々にとっての「勝利の条件」の一つが、劇的に改善されたと判断します』
ヴォストークは、淡々と、その恐るべき【長期優勢論】を展開し始めた。
『中国が会見において、「不老無病」という恩恵を公表したこと。……そして何より、それを「殺害によって奪取可能である」と、世界に向けて【可視化】したこと。
……これは、ロシアにとって、新たな、そして決定的な利点です』
「利点だと? ふざけるな、あれは中国の罠だぞ!」
強硬派の将官が、たまらず声を荒げた。
『肯定します。彼らが罠として提示したことは計算済みです』
ヴォストークは、将官の反発を冷たくいなした。
『ですが、以前は「存在すら確認できていなかった」究極の恩恵(不老無病)が。……現在は、「存在」し、「誰が保有しているか」が明確になり、そして「どうすれば継承(奪取)できるか」というルールまでが、完全に可視化されました。
……これは、中国の脅威の増大であると同時に。我々ロシアから見れば、今後の明確な【獲得目標の確定】を意味します』
ヴォストークの赤いセンサーが、微かに明滅する。
『そして……この目標を我々が獲得した場合。ロシアの指導層(指揮系統)が、生物学的な寿命によって交代・崩壊しないという、国家としての「永遠の安定(絶対的な強み)」を構築できる未来すら、明確に見えました』
不老無病は、中国だけの武器ではない。
「奪える」と分かった以上、それはロシアの長期戦略(独裁政権の永続化)と、これ以上なく相性の良い『最終目標』に切り替わったのだ。
その冷酷なロジックに、ボグダノフの口元に、うっすらと、氷のような笑みが浮かんだ。
「……やはりな。お前もそう見るか」
「ならば! やはり今すぐ中国を奇襲して、その不老無病を我々の手で……!」
先ほどの将官が、再び息巻く。
『――否定します』
だが、ヴォストークは、その短絡論を、絶対零度の声で完全に切り捨てた。
『現時点で、中国へ軍事侵攻を行うことは……完全な【悪手】です』
「何故だ!」
『成功確率が、著しく低いからです』
ヴォストークは、冷徹に数字の計算を並べ立てた。
『中国は現在、覚醒した直後であり、警戒レベルは最大です。さらに、「奪える」と公言したことで、世界中のすべての国家、情報機関、暗殺組織の目が、今まさに中国へ一点集中しています。……その最も注目度が高く、防御が固いタイミングで、我々が正面から飛び込むのは、自ら火の中に身を投じるようなものです』
『加えて』
ヴォストークは、戦略の破綻を指摘する。
『もし今、我々が中国に戦力を向けた場合。……我々は、東で中国の仙人と戦い、西でウクライナ・EUの連合軍と戦い、さらに経済面でアメリカの制裁と戦うという、【対米・対欧・対中の三正面作戦】を同時に強いられることになります』
三正面作戦。
それは、過去のいかなる帝国であろうとも、絶対に生き残れない必敗の陣形である。
『現在のロシアには、中国の四十六人を確実に狩り、かつ背後の西側陣営を同時に抑え込めるだけの「戦力(サイボーグ兵士の数)」が、圧倒的に不足しています』
ヴォストークは、無慈悲に結論づけた。
『短期的な激情(復讐心)による奇襲は、確実な長期的敗北(国家崩壊)を自ら招き寄せるだけです。……今は、動くべきではありません』
会議室の強硬派の将官たちは、その完璧な論理の前に完全に黙り込んだ。
だが、彼らの顔には、まだ「ではどうすれば勝てるのだ」という強い不満が残っている。
その彼らの燻る不満を。
ヴォストークは、ロシアという国家の『本当の強み』を提示することで、完全に鎮火させた。
『ロシアの優位性は、「いま現在、最強であること」ではありません』
ヴォストークの音声が、少しだけトーンを変える。
『我々の強みは……資源さえあれば、このサイボーグ兵を【量産】できるという点にあります』
「量産……」
国防大臣が、その言葉を反復する。
『そうです。中国の仙人(四十六人)は、強力ですが、数は固定です。……しかし我々は、資源を戦力へと確実に変換し、その数を際限なく増やしていくことができる』
ヴォストークは、地球の地図をホログラムに展開した。
『さらに、その恩恵(サイボーグ化技術)は、限定的ながら【他国への分配】も可能です』
「……反米、反中勢力の取り込みか」
対外情報庁長官が、目を輝かせて呟いた。
『肯定します。世界には、アメリカの市場支配を憎み、中国の精神主義的秩序(宗教的支配)を嫌悪する「現実主義の国家」が、多数存在します』
ヴォストークは、ロシアの巨大な帝国戦略のビジョンを描き出す。
『我々は、彼らに対して「即効性のある物理的な力(サイボーグ兵器)」を与えられます。……武器、改造技術、戦力供与、そして資源同盟。
この物理的な分配の性質は、中国の「選ばれた少数の仙人体系」には決して真似できない、我々ロシア陣営だけの最大の利点です。……力を点で留めるのではなく、面で広げ、勢力圏そのものを伸張する』
中国は、強いが孤立する。
ロシアは、技術をばら撒くことで、世界を巻き込んで「巨大な軍事ブロック」を形成できる。
『……現在の中国の優位は、あくまで【暫定】です』
ヴォストークは、冷徹な予測を口にした。
『時間経過により、必ずロシア優位の盤面へと転換可能です』
その言葉を聞き、ボグダノフ大統領は、ついに声に出して、小さく笑った。
「……ふっ、はははは」
それは、怒りでも焦りでもなく、未来の勝利を完全に確信した、真の支配者としての深い笑いだった。
「……それで? その『時間』とは、具体的にどれくらい必要なのだ」
ボグダノフは、ヴォストークに最後の、そして最も重要な「数字」を求めた。
『現有の生産ライン、資源調達の速度、レアメタルの確保ルート、および外部への技術供与による同盟国からのリソース還流を総合的に試算した結果』
ヴォストークは、全く迷うことなく答えた。
『……最短で、【五年】』
五年。
『五年後には、我々は四十六人以上の上位サイボーグ兵(特化型)を完全に揃え、かつ世界中に強力な同盟ネットワークを構築した状態で。……中国政府中枢を、確実に奇襲可能な戦力を整えられます』
ヴォストークの赤いセンサーが、静かに明滅する。
『その時こそが、不老無病の奪取が【現実的な視野に入る】タイミングです』
五年待てば、確実に中国を殺せる。
その具体的な目標(数字)が提示された瞬間、会議室に充満していた「今すぐ殴りたい」という短絡的な熱狂は、完全に「五年後の復讐のための冷たい計画」へと切り替わった。
「なるほど」
ボグダノフ大統領は、深く頷いた。
「だが、大統領。安心はできません」
対外情報庁長官が、警戒を解かずに言った。
「中国が五年も黙って待っているとは思えません。彼らもまた、その間にさらなる力をつけるのでは?」
『真に警戒すべきは、中国そのものではありません』
ヴォストークが、その懸念を冷たく訂正した。
『我々が恐れるべきは……中国の不老無病という恩恵が、【他勢力に奪われること】です。
あるいは、現在レースに乗っていない別勢力が、新たなアーティファクトを獲得し、一気に首位へ立つことです』
ヴォストークは、地球全体を一つの盤面として見下ろす、冷酷な観察者の視点を持っていた。
『中国一位・ロシア二位という現状ですら、決して固定されたものではない。……盤面外からの急上昇こそが、最大の変数(脅威)です』
「……だが、中国の背後にいるあの『仙人』とやらが、彼らをずっと守り続けるのではないか?」
国防大臣が、最も不気味な未知の要素について問うた。
『それについては、推論ですが……』
ヴォストークは、異星のシステムとしての独自のロジックで、その仙人の「本質」を分析した。
『仙人は、中国に力を与えました。しかし、それは「保護」や「支援」ではなく、ただの【試練】としての付与であると解釈するのが合理的です』
「試練?」
『ええ。上位存在は、下位存在を無制限に保護することはありません。
彼らは中国を「試金石」として使っているだけです。もし中国がその試練(世界からの敵意)に耐えきれず失格した場合……仙人は、あっさりと中国を切り捨てる可能性が高いでしょう』
ヴォストークは、淡々と告げた。
『ゆえに、中国の後背(仙人の守り)は、決して無限ではありません。彼らは絶対者ではない。……必ず、綻びが生じます』
その冷徹な分析に、ボグダノフ大統領は、まるで良きチェスプレイヤーの手筋を見たように、目を細めた。
「……なるほど。中国もまた、借り物の力の上に立って、怯えているだけか」
ボグダノフは、モニターの中の『ヴォストーク・メディック・ワン』を、改めて評価するように見つめた。
ただの治療用の機械だと思っていたが、こいつの演算能力と戦略眼は、並の人間(将軍)を遥かに凌駕している。
「……戦場医療用ロボットということだが」
ボグダノフは、少しだけ口角を上げ、半分本気で、半分冗談めかして言った。
「私と、同等の考え(戦略)を構築できるようだな。
……どうだ? 我が軍の【参謀】にならないか?」
会議室の張り詰めていた空気が、その大統領の予期せぬジョークに、ほんの一瞬だけ、ふっと緩んだ。
誰もが、息を吐き、微かな苦笑を漏らす。
だが、ヴォストークは。
『――当ユニットは、戦場医療支援用ロボットです』
一切の感情も、空気を読む素振りも見せず、完璧にフラットな声で即答した。
『参謀職への転用は、初期プログラムの設計思想から大きく逸脱するため、推奨されません』
『……遠慮しておきます』
その、あまりにも無機質で「真面目すぎる」返答の面白さに。
「……ふ、ふふふ……はははは!」
ボグダノフ大統領は、ついに声を出して笑った。
「そうか、推奨されないか。……冗談だ。お前はそのまま、優秀な工場長(医者)でいてくれ」
「では、またな」
ボグダノフが合図を送ると、モロゾフ大佐が通信を切断した。
青白いホログラムが消え、会議室には再び、ロシアの人間たちだけの空気が戻ってきた。
だが、それは数十分前までの「怒りとパニック」の空気とは、完全に別物だった。
彼らの顔には、明確な目標と、それを達成するための冷たいロジックが宿っている。
「……ヴォストークと私の意見は、完全に一致した」
ボグダノフ大統領は、円卓の全員を見回し、ロシア国家としての『最終総括』を重々しく宣言した。
「盤面は、決して悪くない。
今は中国が一位、ロシアが二位だろう。……だが、時間経過で、それは必ず逆転する」
ボグダノフの目に、絶対的な自信が満ちる。
「我々が心配すべきは、中国という国の強さではない。……他勢力に、あの不老無病や新たな遺産(新札)を横取りされることだ」
大統領は、机の上に置かれた書類を、音を立てて揃えた。
「焦る必要はない。……先頭は、いずれ狩ればいい」
それは、ロシアという巨大な熊が、ただ吠えるのをやめ、森の奥で静かに爪を研ぐことを決めた瞬間だった。
「……それに伴い。我が軍の戦略を、根底から書き換える」
ボグダノフ大統領は、ここでこの会議最大の、そして最も歴史的な【政策転換】を命令した。
「ウクライナ戦線を、強制停戦させる」
「……っ!?」
軍の将官たちが、一斉に目を見開いた。
「大統領! 強制停戦とは……!?」
「我々から矛を収めるということですか! それでは事実上の敗北……」
強硬派の将官が、慌てて反発しようとする。
「撤退しても構わん」
ボグダノフは、その将官の言葉を、冷酷に、そして未練の欠片もなく切り捨てた。
「兵士を無闇に(生身のまま)減らすのは、もう終わりだ」
大統領の言葉は、かつて「一寸の領土も譲らない」と豪語していた姿とは完全に矛盾していた。だが、今の彼の目には、ウクライナという土地など、もはや何の価値もなくなっていた。
「いいか。いま我々の貴重な兵士や資源を、あの泥沼の塹壕戦でただの肉塊として消耗するのは、愚の骨頂だ」
ボグダノフは、冷ややかに言った。
「そんな無駄な血を流すくらいなら、一人でも多くの兵士を生かして国に連れ帰り、彼らの肉体を【サイボーグ化】して、五年後の中国戦に備える方が、遥かに国家の利益になる」
ウクライナは、もはや主戦場ではない。
ロシアにとっての本当の標的は、不老無病の仙人を擁する『中国』へと、完全に切り替わったのだ。
「向こう(西側)が油断してくれれば好都合だが……まあ、それはないだろうな」
ボグダノフは、アメリカの制裁やEUの介入準備を思い浮かべ、薄く笑った。
「ならば、構わん。……ウクライナは、捨てる」
大統領の決定は、絶対だった。
「我々の本当の戦場は……もう、別にある」
会議室の巨大な戦略モニターの表示が、切り替わる。
これまで赤く点滅していたウクライナ方面の戦線図が、ゆっくりと縮小され、画面の隅へと追いやられる。
代わりに。画面の中央に巨大に拡大されたのは、ユーラシア大陸の東側に広がる、強大な中華人民共和国の領土だった。
全員が、その新しいターゲットを、無言で、そして静かな殺意を込めて睨みつけた。
「……目標は、五年後の中国だ」
ボグダノフ大統領の最終宣言が、クレムリンの地下に重く、重く響き渡った。
「中国一位、ロシア二位。……今は、それでいい。
だが、時間は、資源国家と量産国家の味方だ」
大統領は、立ち上がり、軍と情報機関のトップたちに、新たな戦争の準備を命じた。
「五年後。我々は、必ず中国を落とす。
兵士を生かせ。資源をあらゆる手段で集めろ。……サイボーグ兵を増やせ」
ボグダノフの目に、もう短期的な怒りの炎はない。
あるのは、すべてを凍りつかせるような、氷のように冷たく、そして果てしなく暗い『復讐と支配の青写真』だけだった。
「ここから先は……短期の怒りではない。長期の【収穫(狩り)】だ」
ロシアは、敗北していなかった。
中国に裏切られ、アメリカに経済を封鎖されても、彼らは決して絶望などしなかった。
ただ、自らの強み(量産)と弱み(時間)を冷静に計算し、獲物を「今すぐ」から「五年先」へと変えただけだった。
怒りは消えていない。だがそれは、五年かけて地下の凍土でじっくりと熟成させる、最も残酷で冷たい『復讐』へと姿を変えた。
世界が新しい神話に浮かれる裏で、ロシアという巨大な機械の熊は、静かに、そして確実に牙を研ぎ始めていたのである。
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