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第58話 博打の答え合わせ

 首相官邸地下。

 既存技術外事象評価セル・特別防音会議室。


 壁面を覆い尽くしていた巨大なマルチモニターが、ふっ、と一斉に暗転した。

 つい数秒前までそこに映し出されていた、アメリカ合衆国大統領キャサリン・ヘイズによる、世界のルールを根底から粉砕した『緊急大統領会見』の生中継が、完全に終了したのだ。


 会議室は、深い、底知れぬ静寂に沈み込んだ。


 誰も、すぐには口を開くことができなかった。

 円卓を囲む日本の最高エリートたち――外務省、防衛省、経済産業省、内閣情報調査室の幹部たちは、皆一様に、見えない巨大な鉄槌で後頭部を殴りつけられたような、呆然とした表情のまま硬直していた。


 議事録をとる書記官は、空中でペンを持った手を止めたまま、石像のように動かない。

 経産担当の幹部は、事前に用意していた『対中制裁による国内経済崩壊のシミュレーション資料』を両手で開いたまま、瞬きすら忘れて虚空を見つめている。

 防衛省の幹部は、腕を深く組み、ただ重苦しい目で天井の無機質な蛍光灯を睨み上げていた。

 外務省の幹部は、ゆっくりと眼鏡を外し、極度の疲労と混乱で窪んだ目頭を指で強く押さえている。


 空気が、あまりにも重かった。

 ロシアがシベリアの凍土から未知の医療ロボットを発掘し、サイボーグ兵士の量産計画が発覚して、世界が暴力の恐怖で壊れかけたのが2週間前。

 中国の中枢が神仙の教えを乞い、自らを「大いなる一つ」と定義して、人類の世界観そのものを不可逆的に壊しにきたのが、わずか三時間前。

 そして今、アメリカが、世界経済のルールと資本主義の制度を完全に兵器化し、「無制限入札」という形で、地球の国際秩序そのものを決定的にぶっ壊しに来た。


 もはや、通常の国際政治の言葉も、平時の外交常識も、一ミリも通じない。


「一日で、世界が何度も変わった」


 それが、この会議室にいる全員の、共通した、そして偽らざる絶望感であった。

 彼らは皆、日本の『出雲』と『与那国』という理不尽な超常現象を先に見て、ある程度の耐性を持っていたはずだった。だが、超大国が国家の全リソースを使って狂い始めた時、その破壊力は極東の島国が抱える爆弾の比ではないという現実を、圧倒的な暴力として見せつけられたのだ。


「……今度は、アメリカまで盤面を壊しに来たわね」


 その鉛のように重い沈黙を破ったのは、円卓の最上座に座る、矢崎総理の第一声だった。


 彼女の声には、ヒステリックな響きも、取り乱した様子も一切なかった。だが、その低く押し殺したようなトーンの奥には、為政者としての強烈な疲労と、呆れ果てたような諦観が色濃く滲んでいた。


「ロシアが怪物を作ったと思ったら、中国が仙人になって。……最後は、アメリカが市場を兵器にした」

 矢崎総理は、暗転したままのモニターを冷たい目で見据えた。

「正気な大国なんて……もう、この世界のどこにも残っていないじゃない」


 その言葉に、円卓の官僚たちは、誰一人として否定の言葉を返すことができなかった。皆、苦々しい顔で、ただ無言のまま同意するしかなかった。


 この会議は、もはやアメリカの会見に対する「感想」や「驚き」を共有するような、生ぬるい場ではない。

 完全に狂ってしまった世界の『新しい盤面』を、血を吐きながらでも整理し、日本という脆弱な国家が明日を生き延びるための道筋を探る、極限の【作戦会議】なのだ。


「……沖田室長」

 総理は、顔を上げ、実務責任者へと視線を向けた。

「まずは、ヘイズ大統領の会見の要点を、事実だけ整理しなさい」


「はい」

 沖田室長は、乾いた喉を鳴らし、手元のタブレットからメインモニターにテキストデータを展開した。

 彼の声もまた、連日の徹夜と極度の緊張で低く掠れていたが、現場指揮官としての冷徹さは決して失われていなかった。


「ヘイズ大統領の会見における、合衆国の新たな方針(決定事項)は、以下の六点に集約されます」


 沖田は、一つずつ、世界を揺るがした爆弾発言を読み上げていく。


「第一に。対中完全経済制裁を、会見終了と同時に【即時解除】すること。

 第二に。あらゆる書類手続きよりも、中国の世界経済への復帰とサプライチェーンの回復を【優先】するよう、全関係機関に命令したこと。

 第三に。中国国家主席の会見の中核部分(不老無病や超絶的な身体能力等)について、アメリカ政府として公式に【真実であると認定】したこと。

 第四に。今後、中国を単なる一国家としてではなく、精神的覇権を掲げる【精神主義側の文明圏】として、配慮し区別した扱いに移行すると宣言したこと。

 第五に。EUおよびヘルメス協会についても、中国と同様に扱うと明言したこと。

 そして第六に……地球外テクノロジー(情報・現物・研究資料)について、国家予算を【無制限】に投入し、国連非加盟国、さらにはテロ支援国家やテロ組織すらも例外とせず、世界中から買い集める(募集する)と宣言したこと」


 沖田が読み上げるごとに、会議室の空気が一段、また一段と重く沈み込んでいく。


「また、大統領自ら『レースには負けているが、まだ序盤である』と明言しました」

 沖田は、報告を締めくくった。

「以上です。……これは、単なる制裁解除の発表ではありません。また、中国の台頭に対する単なる追認や敗北宣言でもない。アメリカは、自らのルールで、この地球の【新しいゲームの盤面】を強制的に設定し直したのです」


「……ええ。分かっているわ」

 矢崎総理は、深く頷き、まずは日本にとって直近の「生き死に」に関わる経済問題から切り込んだ。


「経産省。まずは短期的な影響の評価を」

 総理の問いに、経済産業省の担当幹部が、まだ微かな震えの残る手で資料を開いた。


「は、はい。……まず、アメリカの対中制裁が即時解除され、世界経済の『即死』が回避されたことは……我が国にとっても、極めて大きな【プラス】です」

 経産幹部は、言葉を選びながら、しかし確かな安堵を込めて言った。

「中国のサプライチェーンが再接続される方向へ動いたことで、完全に停止しかけていた日本の港湾、決済システム、そして製造業の部材供給にも、確実に『息継ぎ』の猶予が生まれます。

 ……少なくとも、あと数日で日本の物流と社会インフラが完全に機能停止し、文明が一段階後退するという【最悪の窒息死ライン】は、一旦外れたと見ていいでしょう」


「つまり」

 総理は、その報告を短く、そして冷酷に要約した。

「“時間”は、買えたということね。……短くても、時間は戻った」


「はい」

 経産幹部が深く頷く。

「短期的な延命には、確実に成功しました」


 この「短期的な延命の成功」という事実の確認。それが、この後の会議において極めて重要な意味を持つことになる。


「……だが、喜んでばかりはいられませんよ」

 内閣情報調査室(内調)の幹部が、重苦しい声で水を差した。

「アメリカが、中国の会見(仙人や不老無病)を公式に【真実認定】したことの、外交的・情報的な意味合いは、極めて重い」


 内調幹部は、モニターの『精神主義文明圏』というテキストを指差した。


「米大統領が、全世界に向けて『虚偽前提で政策を組むのは現実逃避だ』と明言した時点で……もう、地球外テクノロジーや超常現象を『ただの陰謀論』や『オカルト』として笑って逃げる段階は、完全に終わりました」

 内調幹部の目が、鋭く光る。

「国家が、神話や仙人、超常現象を、現実の【政策の前提ファクト】として扱い始めたのです。……これはつまり、我が国が国内に抱え込んでいる『出雲』と『与那国』という二つの特異点も、今後は単なる“国内の奇妙な事故”や“安全調査”という建前では、絶対に誤魔化しきれなくなるということです」


「その通りだ」

 沖田室長も、現場の厳しい認識を重ねた。

「アメリカの真実認定により、世界のインテリジェンス機関の『目の色(本気度)』は、昨日までとは完全に変わりました。……今後、日本の抱える爆弾は、今まで以上に過酷な【国際案件(世界中からの標的)】として見られることになります」


「それに、アメリカが新たに設定した『世界地図カテゴリ』も厄介極まりない」

 外務省の幹部が、頭を抱えながら言った。


「中国は『仙人と大いなる一つの精神的覇権』。ヘルメス協会(EU)は『宇宙との調和と精神主義秩序』。アメリカはこの二者を、同じ『精神主義文明圏』という全く新しい外交カテゴリに押し込みました。

 ……つまり、今後の世界は。

 ロシアの『物質主義的暴力サイボーグ』。

 中国とEUの『精神主義的秩序(超人・宗教)』。

 そして、アメリカの『市場と制度によるすべてを買い叩く国家』。

 ……この三極化の様相を呈してくる」


 外務幹部は、長年親しんできた外交のパラダイムが完全に崩壊したことに、深い絶望を露わにした。


「イデオロギー(民主主義か共産主義か)でも、政治体制でもない。……『拾ったアーティファクトの性質(思想)』によって、国際秩序が組み替えられ始めている。……これは冷戦後どころか、近代以降のウェストファリア体制(主権国家体制)そのものの、完全な終わりを意味します」


「……国家の性格じゃなくて、拾った異物おもちゃの色で分類される世界ってことね」

 矢崎総理は、自嘲気味に薄く笑った。

「嫌な時代だわ。本当に」


 だが、日本にとっての最大の脅威(頭痛の種)は、その新しい世界地図の分類などではなかった。


「……総理。今回のヘイズ大統領の会見で、我が国の安全保障において最も危険で、最も『ヤバい』部分は……間違いなく、あの【無制限入札】の宣言です」

 防衛省の幹部が、これまでにないほどの強い危機感を持って発言した。


「無制限の予算。テロ組織すら例外としない、あらゆる地球外テクノロジーの買い取り宣言。

 ……アメリカは、完全に綺麗事(国家の建前)を捨てました。

 これによって、今後、世界のどこかで何か(異星の遺物)が見つかれば、もはや『国家の安全保障』や『人類の未来』よりも先に、まず【誰に、いくらで売るか】という、純粋な価格と仲介ルートの論理が動くようになります」


「つまり、地球全体が、アメリカ公認の巨大な『アーティファクト闇市場』と化す、ということですか」

 沖田室長が、険しい顔で確認する。


「ええ」

 防衛幹部が頷く。

「アメリカは、我々の最大の同盟国(味方)であると同時に……これからは、我々が抱える出雲と与那国の情報を喉から手が出るほど欲しがる、【最大の流出先(買い手)】にもなったわけです」


「日本国内の防諜(スパイ対策)の難易度は、今日この瞬間から、これまでの比ではなく跳ね上がります」

 内調幹部が、絶望的な補足を入れる。

「国内の霊能者、研究者、現場の自衛隊員、神職、与那国の離島関係者……。あの会見以降、彼ら全員の頭の上には、アメリカの莫大なドルという【見えない値札】がぶら下がっている状態です。……国内の人間も、国外の買い手も、昨日までとは比べ物にならないほど、金に目が眩んだ『危険な存在』に変わりました」


「……なるほどね」

 矢崎総理は、重く溜息をついた。

「アメリカは、今まで通り私たちを『守ってくれる相手』でもある。でも同時に、私たちの最も大事な秘密を『絶対に売り渡してはいけない相手』にもなった。

 ……前より、はるかに扱いが難しくなったわね」


 ロシアは、鉄と暴力で世界を蹂躙しようとしている。

 中国は、神話と精神の秩序で世界の意味を塗り替えようとしている。

 そしてアメリカは、市場と制度の力を使って、すべてを金で奪い合い、自らも狂気のレースに参戦することを宣言した。

 全員が、完全に別々の方向に狂っている。


「……ロシアが一番怖かった頃が、むしろ単純で分かりやすかったわね」

 総理は、円卓の全員の疲労感を代弁するように、ポツリと言った。

「今は、どれも違う意味で厄介だわ」


 会議室に、再び重い沈黙が落ちた。

 盤面の整理は終わった。状況がどれほど最悪にアップデートされたか、全員が骨の髄まで理解した。


「……さて」


 矢崎総理は、そこで小さく息を吸い込み、姿勢を正した。

 ここまでは、あくまで状況の確認(前フリ)に過ぎない。ここからが、この会議の本当の核心(本題)だった。


 総理の視線が、円卓の隅で、一人だけこの絶望的な盤面整理を「ふむふむ」と興味深そうに聞いていた男――よれよれのスーツを着たオカルト雑誌編集長、三神へと向けられた。


「三神編集長」

 総理の呼びかけに、三神は「おや」というように顔を上げた。


「……あなたが昨日、私たちに提案した、『中国にアーティファクトを見つけさせる(情報をリークする)』という、あの博打」

 総理の瞳が、鋭く三神を射抜く。


「……あれは、成功だったの?」


 その問いに、会議室のすべての視線が、一斉に三神へと集中した。


 ロシアの強大化を防ぐため、あえて中国に「別の勝ち筋(仙人の道)」を教え、中露の分断を図る。

 その、世界を巻き込んだ日本政府の裏工作(博打)。

 結果として、中国はロシアを切り、世界経済の即死は免れた。だがその代償として、中国は人類を超越した『精神的覇権国家』へと進化し、アメリカまで綺麗事を捨てた『市場の怪物』へと変貌させてしまった。


「あれは……本当に成功だったと言えるの? それとも、ただもっと厄介な怪物を、私たちの手で一体増やしてしまっただけ?」


 総理の追及は、決して彼を責めているわけではない。ただ、為政者として、自らが下した決断の「真の評価」を、彼に突きつけているのだ。


 三神は、すぐには頷かなかった。

 いつもならここで「いやー、大成功でしたね!」と軽口を叩く彼が、今回は少しだけ目を伏せ、表情からヘラヘラとした余裕を完全に消し去った。

 彼自身も、自分の提案がどれほど世界を歪め、危険な領域へと押し上げたかを、正確に理解している『本物のプレイヤー』としての顔だった。


 三神は、静かに、そして極めて重い声で口を開いた。


「結論から言えば……単純な『成功』とも、『失敗』とも言えません」


 三神は、円卓の面々を見回した。

「あえて判定を下すなら……【条件付き成功】、でしょうか」


「条件付き、成功?」

 沖田室長が、眉をひそめる。


「ええ」

 三神は、淡々と自らの博打の結果を整理し始めた。

「短期的には、間違いなく成功です。……ですが、長期的には、我々はかなり危険な『代償』を支払うことになりました」


 三神は、まず『当たり』だった部分から説明を始めた。


「成功の第一は、最大の目標であった【ロシアから中国を引き剥がしたこと】です。

 中国が精神主義系(仙人ルート)に転んだことで、彼らの思想は、ロシアの物質主義(サイボーグ路線)と決定的に相容れなくなりました。……つまり、中露が資源と技術を共有し、同じ方向へ加速して世界を物理的に蹂躙するという、あの『最悪のシナリオ』は、完全に防ぐことができました」


「成功の第二は、【世界経済の即死を防いだこと】。

 中国がロシアを切ったことで、先ほどのヘイズ大統領の会見の通り、アメリカの対中制裁は解除されました。……これにより、日本のサプライチェーンと物流が完全に窒息して二週間で国家が崩壊するという、短期的な『死』のルートは、明確に回避されました」


「そして成功の第三は、【アメリカの対日圧力を一時的に分散させたこと】です。

 今、アメリカは中国の精神的覇権宣言への対応と、無制限入札によるアーティファクトの買い漁りに手一杯です。……つまり、すぐに彼らが日本の出雲や与那国へ、軍を差し向けて強引に踏み込んでくる余裕(優先順位)は、劇的に下がりました」


 三神は、一つ息をつき、結論を述べた。


「つまり……日本が今日明日にでも窒息死(あるいは侵略されて消滅)するルートは、一本、確実に折ることに成功しました。……そこは、成功と認めていいでしょう」


 その言葉に、経産省や防衛省の幹部たちが、微かに、しかし確かな安堵の息を漏らした。

 そうだ。彼らは昨日まで「二週間で日本が死ぬ」という絶望の中にいたのだ。それが回避されただけでも、あの博打には十分すぎるほどの価値があった。


 だが。

 三神は、彼らに「勝った気」にさせる隙を与えなかった。


「……ですが。そのための『代償』は、決して小さくはありません」

 三神の目が、鋭く細められる。


「代償の第一。ロシアを止めた代わりに、中国が【精神主義の超大国(怪物)】になりました。

 彼らはもはや、物理的な軍事力で侵略してくるような、分かりやすい相手ではありません。……彼らは今後、日本を物理的に殴りに来るより、『意味』を塗り替えに来るでしょう」

 三神は、不吉な予言を口にする。

「兵隊ではなく、物語と秩序で侵略してくるタイプです。……日本の宗教、神話、歴史認識、知識人層、メディア。そういった人間の『精神の根幹』に、彼らの新しい教義(大いなる一つ)が静かに、そして強力に浸透してくる可能性が高い。……ある意味で、物理的なロシアより遥かに厄介な相手を生み出してしまいました」


「代償の第二。世界が、超常現象を【政治現実】として完全に受け入れてしまったこと。

 アメリカの真実認定により、日本の秘密(出雲と与那国)も、今後ますます世界中のインテリジェンスから過酷に狙われることになります」


「代償の第三。アメリカが綺麗事を完全に捨て、【無制限入札】という最悪のルールを世界に敷いたこと。

 これにより、日本の国内防諜の難易度は跳ね上がり、常に内部からの流出(裏切り)の恐怖に晒され続けることになります」


 三神は、両手を広げ、自らの打った博打の最終的な『判定』を下した。


「つまり……ロシアを止めるために、盤面そのものを『一段上の地獄』へ押し上げた、とも言えます。……我々は、勝ったわけではありません」


「短期延命には成功した。だが、長期安定には失敗した」

 三神は、矢崎総理を真っ直ぐに見据えた。

「……ですが、短期延命がなければ、長期の戦略も何もありませんでした。

 だから私は、やはりこれを“成功”と呼びます。……ただし、決して胸を張れる種類の成功ではありませんがね」


 その、極めて冷酷で、現実的な自己採点。


「……苦い答えね」

 矢崎総理は、静かに、しかしどこか納得したように頷いた。

「でも、今のこの狂った盤面には、一番ふさわしい答え(評価)でもあるわ」


 総理のその言葉を皮切りに、各省庁の幹部たちも、この『条件付き成功』という現実を、それぞれの立場から噛み砕き、受け入れていった。


「中国はロシア陣営へ固定されなかった。その意味では外交的成功です。……だが今後の中国は、日本にとって『理解可能な隣国』ではなくなりました」(外務省)

「短期的な軍事脅威はロシア。長期的な秩序(精神)の脅威は中国。……防衛省としては、どちらも無視できない最悪の二正面作戦になります」(防衛省)

「世界経済の延命(時間)は得ました。……だがアメリカの無制限入札で、国内の重要人材の流出リスクは跳ね上がりました」(経産省)

「秘密保持の難易度が一段上がりました。国内の人間も、国外の買い手も、昨日より遥かに危険な存在になりました」(内閣情報調査室)


 それぞれの省庁が、新たな脅威への対応方針を脳内でアップデートしていく中。

 三神は、ふと、先ほど自らが口にした「中国という新たな怪物」について、もう少し解像度を上げて補足した。


「……中国は今後、日本を殴りに来るより、意味を塗り替えに来るでしょう」

 三神は、腕を組みながら言った。

「彼らの『大いなる一つ』という教義は、人間の精神の境界を曖昧にする。……もし、日本の一般市民が、あの新月の夜のような強烈な『恩恵バフ』を求めて、中国の思想に自ら進んで染まっていけば。……ミサイルを一発も撃たれることなく、この国の社会基盤は内側から彼らの神話に飲み込まれることになります」


「静かな侵略ってわけね」

 矢崎総理は、顔をしかめた。

「嫌な相手だわ。防衛網レーダーに映らない分、ロシアのサイボーグよりタチが悪い」


「そして、アメリカです」

 三神は、視線をアメリカの分析データへと移した。

「アメリカは依然として我々の最大の同盟国です。ですが、今や世界最大のアーティファクト買い取り国家へと変貌しました。……彼らは、味方であると同時に、最大の『流出先(引き抜き先)』でもあります。我々は対米協力を続けながらも、情報と現物の管理は、これまで以上に厳格にする必要があります」


「守ってもらう相手ではある」

 総理は、深く頷き、日米関係の新たなジレンマを整理した。

「でも、売り渡してはいけない相手でもある。……前より、はるかに扱いが難しくなったわね」


 ロシアの暴力。中国の精神侵略。アメリカの市場支配。

 それぞれが全く違う牙を剥いて、この極東の島国を狙っている。


「……さて」

 矢崎総理は、すべての報告と分析を聞き終え、最終的な『日本の現在位置』の確認に入った。


「ロシアが鉄と暴力に走り。中国が神話と精神の覇権を握り。アメリカが市場と制度の力で世界を買い漁る。

 ……表面的に見れば、日本は彼らに完全に遅れを取り、ただ怯えているだけの『弱者』に見えるわね」


 総理の言葉に、幹部たちは悔しそうに俯いた。


「ですが、総理」

 三神が、そこで静かに、しかし極めて重い事実を指摘した。


「日本は、現時点で先頭集団トップランナーではありません。……ですが、我々が出雲の『魂の庭』と、与那国の『龍宮の扉』という、世界でも最上位級の未公開札を二つも抱えている時点で。……潜在的な決定打(爆発力)は、むしろ他国よりも大きいのです」


 三神は、ニヤリと笑った。


「日本は、走っていないのではありません。『走れない(札が重すぎて開けない)』だけです。

 ……もし、あの二つの札の『正しい走り方(安全な使い方)』を覚えた瞬間。……日本は、この盤面そのものを一気にひっくり返せる立場にいるんですよ」


 その言葉に、俯いていた官僚たちの顔が、一斉に上がった。

 日本は、ただの敗者ではない。最も重いジョーカーを二枚も伏せたまま、耐え忍んでいるだけの『潜在的覇者』なのだ。


「……嬉しくはないけど、納得はできるわね」

 矢崎総理は、少しだけ皮肉げに笑った。

「火薬庫を二つ抱えて、動けなくなっているだけとも言えるけど」


「では、次の行動方針を確定させます」

 沖田室長が、会議の結論を実務へと落とし込む。


「出雲と与那国の情報管理の、さらなる再強化。神職、巫女、霊能者、現地関係者、そして研究者たちの、アメリカの買い取り網(および中国の精神浸透)に対する徹底的な防諜保護。

 ……もはや、我々は受け身で怯えているだけではいられません。ですが、焦って軽率に前に出ても、あの巨大な力に飲み込まれて死にます」


 沖田は、現場指揮官としての冷静な判断を、全員に告げた。


「したがって。我々が今やるべきことは、走り出すことではなく。……いつでも走れるように、【走る準備だけを完璧に整えておく】ことです」


 誰も、異論はなかった。


 会議が終わろうとしていた。

 アメリカの会見の熱は引き、日本の地下には、冷たく、しかし確かな「覚悟」が残された。


「……結局」

 矢崎総理は、椅子の背もたれに寄りかかり、モニターの暗い画面を見つめたまま、ふと呟いた。

「私たち人類は、まだこの地球外テクノロジーというレースの『スタートライン』にも立っていないのかもしれないわね」


「……いえ、総理」


 三神は、立ち上がり、ポケットに手を入れたまま、最後に少しだけ彼らしい、飄々とした、しかし的確すぎる皮肉を口にした。


「立ってはいますよ。間違いなく」


 三神は、世界の狂気を思い描くように、目を細めた。


「……ただ、他の連中(米中露)が、爆竹と火炎放射器を持って、フライング気味に走り出しただけで」


 その一言で、極秘会議室の張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ、ふっと緩んだ。


 現実的な話をすれば、日本は長くは持たなかったはずだ。

 だから彼らは最後に、中国に札を引かせるという、現実的ではない博打に賭けた。

 結果として、世界はより複雑で危険な地獄へと姿を変えたが、日本は今日を生き延びた。


 誰も勝ってはいない。

 ただ、狂ったルールのレースが、今、本格的に始まっただけなのだ。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
日本もただ隠し抜くだけではなく使うべきだと思う。
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