第47話 鉄の肉体は断じて許されない
フランス・ストラスブール。
普段は欧州議会の本会議場として使用される巨大な円形ホールから遠く離れた、地下の最深部に位置する極秘の礼拝議場。
そこは、現代ヨーロッパの現実政治と、中世から蘇ったような神秘思想が、最も濃密に、そして最も危険な形で混ざり合う場所だった。
重厚な石造りの壁面には、EUの青い星の旗章と、ヘルメス協会の『宇宙との調和』を示す幾何学的な紋章が、同列の大きさで並んで掲げられている。
円卓を囲むのは、EU加盟国の主要な首脳たち――フランス大統領、ドイツ首相、イタリア首相、ポーランド首相など、普段は洗練されたスーツ姿でカメラのフラッシュを浴びる政治のトップたち。
そして、その政治家たちと完全に対等な(あるいはそれ以上の)威圧感を放って対座しているのは、純白と青銀の豪奢な祭服に身を包んだ、ヘルメス協会の上層部(導師たち)と、彼らを束ねる最高指導者アルフレッド・グレイソン卿――通称『首座』であった。
深夜に極秘裏に召集されたこの緊急集会の空気は、誰もが「アメリカの警告が、ただの悪い冗談(誇張)であってほしい」と祈るような、どん底の重苦しさに包まれていた。
だが、ワシントンから送られてきた暗号通信のデータファイルは、その彼らの現実逃避を許さないほど、あまりにも生々しく、そして緻密だった。
「……以上が、アメリカ合衆国から先ほど共有された、極秘インテリジェンスの要約です」
欧州委員会委員長が、手元の資料から顔を上げ、血の気の引いた顔で円卓の面々を見回した。
「ロシアは、シベリアの永久凍土から、兵士の肉体を改造する『軍事医療ロボット(地球外テクノロジー)』を発掘しました。……彼らはすでに、兵士の四肢や器官を未知の人工部品に置き換える【サイボーグ化(能力最適化)】の実験に成功しています。
……ワシントンの分析によれば、そのサイボーグ兵で大隊(数百人規模)が編成されれば、通常戦力では対応不能であり……国家の中枢(首都)すら、わずか数時間で無力化し得るという、絶望的なスペックが弾き出されています」
委員長の説明が終わっても、礼拝議場には、すぐには声が上がらなかった。
身体能力の飛躍的向上。あらゆる極限環境への適応。毒物への耐性。そして、人間の動体視力を超える反応速度。
それが、単なるSF映画の設定ではなく、今まさに国境を接するロシアという現実の脅威によって「量産されようとしている」という事実。
「……本当に、信じていい情報なのですか?」
ドイツ首相が、重苦しい沈黙を破り、眼鏡の奥の目を細めた。
「アメリカが、我々欧州を対ロシアの強硬路線に完全に巻き込むために流した、過大な誇張である可能性は?」
「情報の確度は、極めて高いと判断せざるを得ません」
欧州委員長は、首を横に振った。
「我がEUの情報機関や経済筋も、数日前から、ロシアが中東やアフリカの市場で『特定のレアアースや貴金属』を、異常な高値で無差別に買い漁っている動きを捕捉していました。……さらに、シベリアからモスクワへ向けた所属不明の特殊輸送列車の動きや、第17中央科学研究所周辺での異常な電力消費のスパイク。……すべてが、アメリカの警告と完全に符合しています」
それは、ただの煽りではない。
ロシアの『歩く戦車』の量産ラインは、すでに物理的に稼働し始めているのだ。
「……」
その決定的な裏付けを聞き、ドイツ首相も、イタリア首相も、深く息を吐き出して言葉を失った。
政治家たちは、まず「安全保障上の脅威」と「経済への打撃」という、現実的なレイヤーでこの危機を計算しようとしていた。
だが。
彼らの対面に座る、白と青銀の祭服を着た者たち――【ヘルメス協会】の反応は、政治家たちのそれとは、根本的に、そして決定的に異なっていた。
「……ロシアは」
円卓の上座。
ヘルメス協会の『首座』が、ゆっくりと立ち上がった。
彼の顔には、政治的な焦りや、軍事的な恐怖は微塵もなかった。そこにあったのは、ただ純粋で、底知れぬほど深く、絶対的な【宗教的嫌悪(怒り)】だった。
「ロシアは……神聖なる人間の肉体を切り刻み、冷たい『鉄(機械)』に置き換えようとしていると言うのか」
首座の、低く静かな声が、地下の礼拝議場に響き渡る。
その一言で、会議の空気が、単なる「安全保障の協議」から、異端を裁く血なまぐさい『宗教裁判』のそれへと一気に切り替わった。
「肉体とは、単なる魂を入れる『器(道具)』ではない」
首座の傍らに控えていた高位の導師の一人が、忌々しげに言葉を継いだ。
「肉体は、大いなる宇宙の呼吸(波動)を受け取り、響き合うための、最初の『聖堂(共鳴器)』なのだ。……それを、効率や力のためだけに無残に切り捨て、鉄の関節と人工の筋肉で魂を支えようとするなど……!」
「それは、もはや人間ではない。宇宙の調和に対する、最悪の冒涜(反逆)だ」
別の導師も、激しい嫌悪感を露わにして机を叩いた。
「断じて、許されることではない」
首座は、円卓のEU首脳たちを、一人一人、鋭い眼光で射抜いた。
「人間を機械の部品に貶めるような……そのような穢れた思想(技術)は、この地球上に存在してはならないのだ」
ヘルメス協会の、サイボーグ化に対する異常なまでの熱量(憎悪)。
それは、アメリカのアルファが予測した通りだった。彼らは、オカルト的な精神主義(宇宙との調和)を至高とするが故に、物質主義の極みである『肉体の機械化』を、教義上の最大の禁忌(絶対悪)として認識したのである。
「感情的な断罪は理解します、首座」
ドイツ首相が、どうにか冷静な政治家の顔を保ち、宥めるように言った。
「しかし、我々は現実の国家運営を担う者です。……まず必要なのは、このロシアの新たな兵器に対して、EUとしていかに現実的(物理的)な対処を行うかです」
「アメリカは、明確に要求してきています」
欧州委員長が、再び資料に目を落とし、ワシントンからの最も重い『要請』を口にした。
「ロシアのサイボーグ量産を完全に干上がらせるために。……世界経済が一時的に崩壊してでも、ロシアの兵站(レアアースの供給網)を完全に断ち切る、と。……そしてそのために、最大の資源供給国である【中国】に対する、最強硬の経済制裁(二次制裁)への、我々欧州の全面的な協力を求めてきています」
「中国まで含めた、全面制裁だと……!?」
イタリア首相が、悲鳴のような声を上げた。
「本気ですか!? 今、そんなことをすれば、欧州の製造業のサプライチェーンは完全に死に絶えます! ただでさえウクライナの戦争とインフレで疲弊している我々の都市は、これ以上の物価高騰と大量失業の嵐には耐えられない!」
「私も同意見です」
ドイツ首相も、強い懸念を表明した。
「対中制裁による経済的ダメージは、莫大です。ロシアの脅威は理解しますが、その前に我々自身の経済の屋台骨が折れてしまっては、元も子もない。……アメリカの極端な強硬策に、そのまま追従するのは危険すぎます」
EU首脳陣の間に、現実的な「経済の痛み」に対する強烈な躊躇(迷い)が生じた。
平和な時代のルール(市場と利益の論理)が、まだ彼らの足を重く引っ張っている。
だが。
その、政治家たちの矮小な計算を。
ヘルメス首座の、荘厳で、圧倒的な思想の言葉が、濁流のように押し流した。
「……市場は、再建できる」
首座は、ドイツ首相とイタリア首相を見下ろし、静かに、しかし絶対的な真理を説くように言った。
「工場も、貨幣も、港湾の物流も。どんなに焼け野原になろうとも、人間が生きてさえいれば、時間をかければ必ず元に戻せる。……だが」
首座の目が、深い悲しみと怒りに燃える。
「魂と身体の結びつきを『無意味なもの(交換可能なパーツ)』と見なす思想が、この世界で勝利を収めてしまった時。……我々の文明は、一体何をもって『人』であり続けるというのだ?」
「……っ」
ドイツ首相が、息を呑む。
「我々が今、血を流してでも守るべきなのは、安っぽい株価のボードでも、価格表でもない。……『人間(魂の尊厳)』そのものだ。……そうではないか?」
その言葉は、単なる宗教的な説教の枠を超え、政治家たちの心の奥底に眠る「欧州文明のプライド」を激しく揺さぶるものだった。
「……首座の言う通りだ」
フランス大統領が、深く頷き、円卓の議論に自らの『強硬な意志』を叩きつけた。
「これは、単なる軍事的な脅威への対処ではない。……我々、欧州の魂(文明)そのものへの挑戦だ。機械の怪物たちに、我々の国境を、我々の人間性を蹂躙させるわけにはいかない」
「経済のダメージを恐れて待っている間に、何が起きるか」
ポーランド首相が、ロシアと国境を接する最前線の国家として、肌感覚の恐怖と現実論を突きつけた。
「もしロシアが、あの化け物の部隊を百人、いや五十人でも完成させ、現在のウクライナの東部戦線に投入してきたら……どうなりますか?
……ウクライナ軍の塹壕は、数十分で紙屑のように食い破られますよ! 前線は一瞬で崩壊し、キーウは落ち、ロシアの機械の軍靴は、一気に我々ポーランドやバルト三国の国境線(NATOの防衛線)まで押し寄せてくる!
……『待つ』という選択肢は、もはや我々の地図の上には存在しないんです!」
「ポーランド首相の意見に、完全に賛同します」
バルト三国の代表たちも、一斉に声を張り上げた。
「ウクライナで彼らを止めなければ、次は間違いなく我々です! 制裁の痛みなど、国を更地にされる痛みに比べれば安いものだ!」
会議の空気が、急激に、そして暴力的な速度で「軍事的な強硬路線」へと傾いていく。
ドイツもイタリアも、その「サイボーグ兵が国境を越えてくる」という生々しい悪夢の前に、徐々に反論の声を弱めていくしかなかった。
そして。
その、政治家たちが「制裁」というレベルで覚悟を固めようとしていた時。
ヘルメス協会の幹部席から、一人の過激派の導師が立ち上がり、会議の空気をさらに一段階、危険な『狂気』へと引き上げた。
「……何を、迷う必要がある?」
その導師は、白目を剥き出しにして、円卓の政治家たちを煽り立てた。
「鉄の身体を持った忌まわしい怪物が、百、二百と生み出され、我々の同胞の血を吸ってから嘆くつもりか? ……そんなもの、量産される前に、工場も、国家の意思も、すべて叩き潰せばいいだけのことではないか!」
「……叩き潰す?」
フランス大統領が、眉をひそめる。
「そうだ!」
過激派導師は、机を叩いて叫んだ。
「サイボーグの量産体制が整う前に! あのウクライナの泥沼の戦線を……我々の手で、今すぐ、力ずくで【終結】させなければならない!!」
「なっ……!?」
欧州委員長が、絶句した。
「NATOも、EUも、もはやウクライナの背後に隠れて『武器を支援する』などという生ぬるい段階は終わったのだ! 我々自身の軍隊(即応部隊)を、航空戦力を、堂々と戦線に【参加(投入)】させるべきだ!」
導師の口から飛び出したのは、欧州が直接ロシアと砲火を交えるという、第三次世界大戦の引き金(一線越え)そのものだった。
「狂っている! そんなことをすれば、ロシアとの全面核戦争に……!」
ドイツ首相が悲鳴を上げる。
「核を撃たれるのが先か、鉄の怪物に国境を踏み潰されるのが先か、もはや我々に選べる死に方はその二つしかないのだぞ!」
ポーランド首相が、過激派導師の主張に、完全に同調して吠えた。
「支援ではなく、直接的な【参加】が必要です! ロシアの戦線を、物理的に完全に崩壊させ、彼らがサイボーグの実験をする余裕すら奪い取らねばならない!」
「そうだ!」
過激派導師は、さらに恐ろしい、常軌を逸した一言を会議室に投げ込んだ。
「まずは、全力でウクライナの戦線を終わらせるのだ。……その後、あの鉄に魂を売ったロシアという国を【どう料理するか】は……後から、ゆっくりと考えればよい!」
その後、ロシアをどう料理してもよい。
それは、もはやロシアを「対等な主権国家(交渉相手)」としてではなく、完全に解体・浄化すべき『文明の汚物(異端)』として見下している、極めて危険で、狂熱に満ちた言葉だった。
だが。その恐ろしい言葉の響きが。
恐怖と焦燥に追い詰められていたEU首脳たちの心に、奇妙な【熱】をもって、ズルズルと呑み込まれ始めていた。
「……」
ドイツ首相も、イタリア首相も、もはや「経済への影響が」などという平時の理屈を口にすることはできなかった。
工場は再建できても、人間の魂の定義と、国境線がサイボーグ兵に踏み潰された世界の秩序は、二度と元には戻らない。その事実を、彼らも痛いほど理解してしまったのだ。
「……嫌な時代ですね」
ドイツ首相は、深く、深く項垂れながら、ついに白旗を揚げた。
「分かりました。……対中国への経済制裁、およびウクライナへの『直接的な関与(介入準備)』について……ドイツも、共同歩調を取ります」
「イタリアも、協力します」
イタリア首相も、苦渋の決断を下した。
「だが、皆様、覚えておいてほしい。……この決断を下した瞬間から、我々欧州にとっても、平和な時代は完全に終わるのだということを」
EU首脳陣の意見が、ついに一つの「強硬路線」へと完全にまとまった。
アメリカの要求する世界経済の破壊(対中制裁)への協力。ロシアへの徹底した資源封鎖。そして、NATOとEUによる、ウクライナ戦線への【即応介入(直接参加)】の準備。
「ヘルメス協会も、この聖なる決断を全面的に支持する」
ヘルメス首座が、満足げに頷いた。
「我々は、思想面での正当性の付与、そして各国の民意(信徒たち)の教導を担おう。……中国が、ロシアの『鉄の身体』を経済的に支えるというのなら、彼らもまた同罪である。調和を裏切る流通(血脈)は、我々の手で完全に断たねばならない」
現実の政治力(EU)と、人々の精神を支配する宗教的権威(ヘルメス協会)。
かつては相容れなかったはずの二つの巨大な力が、ロシアのサイボーグ化という『共通の穢れ(敵)』を前にして、完全に手を結んだ瞬間だった。
「……ロシアは、人間の兵士を鉄に変えようとしている」
会議の最後。
フランス大統領が、決意に満ちた目で円卓を見回し、象徴的な、そして極めて危険な【宣言】を口にした。
「ならば、我々は。……この欧州という大地そのものを、人間の魂を守るための『絶対の聖域』として、防衛(浄化)する」
それは、もはや単なる安全保障の枠組みを超えた、軍事と宗教が完全に融合した【聖戦】の始まりを告げる言葉だった。
欧州はその夜、ロシアを単なる地政学的な敵国としてではなく、「人間の身体と魂を穢す、文明的異端」として完全に認識し直した。
市場のルールも、条約も、国境の概念も、まだそこにはあった。
だが、欧州の首脳たちとヘルメス協会の頭の中では、その夜すでに「いかにしてウクライナを守るか」という議論を飛び越え、「その後、異端の国ロシアをどう解体し、料理するか」という、血なまぐさく危険な狂気が、静かに、しかし確実に産声を上げていたのである。
鉄の身体に対抗するため、自らを聖域と呼び始めた欧州。
その言葉が、人類にとっての救済となるのか、それとも、さらに巨大な殺し合いの泥沼を引き起こす狂気のトリガーとなるのかは。
まだ、誰にも分からなかった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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