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第42話 悪魔の可逆性

 シベリアの永久凍土の底から発掘された、全長三メートルを超える六本脚の異形の巨体は、その場での解体や分析を一切行われることなく、『完全体』のままモスクワへと極秘空輸された。

 電磁遮蔽、厳重な熱制御、そして一切の通信ログを残さない完全なステルス輸送。輸送機を護衛する戦闘機部隊のパイロットたちにすら、その積み荷の正体は知らされていない。ロシアという国家が、総力を挙げて「世界から隠し通す」ことを決めた、最高レベルの機密物質。


 その巨体が運び込まれたのは、モスクワ郊外に位置する第17中央科学研究所のさらに奥深く――地下五階に建造された、【レベルΩ特殊隔離チャンバー】であった。

 そこは、かつて冷戦時代から、ロシアが「国家でも隠しきれないもの(制御不能な未知のウイルスや、回収された未確認飛行物体の残骸など)」を封じ込めるために使用してきたとされる、極限の閉鎖空間である。


 分厚い防爆ガラスの向こう側。

 薄い冷却蒸気と霧が立ち込める無機質なチャンバーの中央に、その黒曜石のような多面体の装甲に覆われた巨体が鎮座していた。


 隔離チャンバーを見下ろす上階の【VIP観測室】には、現在のロシアの中枢を担う最高権力者たちが、息を詰めてその異形を見下ろしていた。

 ウラジーミル・ボグダノフ大統領。

 国防大臣。連邦宇宙局長官。対外情報庁長官。

 そして、この「奇跡」を泥に塗れて掘り当てた張本人である、イヴァン・モロゾフ大佐と、レーナ・ソコロヴァ博士をはじめとする科学分析チーム。


 観測室の空気は、極度の緊張に支配されていた。

 だが、その緊張の「質」は、日本の首相官邸地下に蔓延していたような『未知の呪いへの恐怖や胃痛』とは、根本的に異なっていた。

 彼らの顔に張り付いているのは、恐怖よりも遥かに強い、剥き出しの【欲望と野心】だった。他国に遅れをとり、焦燥の底にいた彼らにとって、この目の前の怪物は、恐怖の対象ではなく、確実に世界をひっくり返すための「強力なカード(兵器)」にしか見えていないのだ。


「……これが、シベリアの氷の底から掘り出されたという、奇跡か」

 国防大臣が、防爆ガラスに手をつき、獲物を品定めするような目で唸った。


「奇跡などという不確かなものではありません、大臣」

 連邦宇宙局長官が、興奮で顔を紅潮させながら訂正した。

「あれは、明確な知的生命体によって設計された、高度な地球外文明の残骸テクノロジーです! 我々の宇宙開発の歴史を、数百年、いや数千年単位でジャンプさせる可能性を秘めた……」


「違う」


 その二人の言葉を、背後のソファに深く腰掛けていたボグダノフ大統領が、低く冷たい声で一刀両断にした。


「あれは、残骸でもなければ、単なる奇跡でもない」

 ボグダノフの表情は、氷のように薄く、しかしその眼光だけは異様なまでに冴え渡っていた。

「あれは……我が国が、この狂った世界で再び覇権を握るための【機会チャンス】だ。……そうだろ、モロゾフ大佐」


「はっ。大統領閣下の仰る通りです」

 モロゾフは、直立不動の姿勢のまま、自らが掘り出した怪物を見つめて深く頷いた。


 チャンバー内の温度調整が進み、巨体の表面を覆っていた数万年前の残留氷が、ゆっくりと解け落ちていく。

 解けた水が、無機質なコンクリートの床面の溝へと流れ落ちる音だけが、マイクを通じて観測室に響く。


 氷の檻から完全に解放されたその姿は、人間の施設(人工照明)の光の中では、恐ろしいほどの【違和感】と威圧感を放っていた。

 黒曜石の多面体装甲は、まるで周囲の光を吸い込むように鈍く輝き、折り畳まれた六本の巨大な脚部関節と、無数のマニピュレーター(アーム)は、研究対象というよりも、今まさに獲物に飛びかかろうと沈黙している『封印された捕食者』そのものだった。

 人間の尺度で測れないものが、人間の檻の中に置かれている。その強烈なアンバランスさが、見る者の本能的な恐怖を微かに刺激する。


「……非接触での初期分析を報告しろ、ソコロヴァ博士」

 ボグダノフ大統領が、静かに命じた。


「は、はい」

 ソコロヴァは、手元のコンソールに張り付きながら、震える声で報告を始めた。

「各種スキャナーによる分析結果ですが……外殻の分子配列が、あり得ません。間違いなく意図的に構成された人工物ですが、地球上の既知の冶金体系の延長上には、全く存在しない構造です。ダイヤモンド以上の硬度と、未知の柔軟性を併せ持っています」


「エネルギー反応はどうなっている?」

 宇宙局長官が、食い入るように聞く。


「……それが、極めて低いんです」

 ソコロヴァは、データ波形を見つめながら首を傾げた。

「ですが、完全に完全に機能停止(死んでいる)しているわけではありません。……微弱な、しかし極めて安定したエネルギーのサイクル(循環)が、中心部で維持されています。まるで……何かの条件を満たすのを、ずっと『待機』しているような……」


 その、ソコロヴァの報告の最中だった。


「……光った?」


 監視モニターの一つを凝視していた分析担当の若手研究員が、弾かれたように声を上げた。

「いや、待ってください。今のは、照明の反射じゃない……!」


 観測室の全員が、チャンバーの中の巨体に視線を集中させた。

 黒曜石の装甲の表面に刻まれていた、幾何学模様のような未知の文様。それが、まるで呼吸をするように、内側から【青白い光】を帯びて、ゆっくりと明滅を始めたのだ。


「……全員、配置固定ステイ。動くな」

 モロゾフ大佐が、即座に護衛の特殊部隊員たちに鋭い指示を飛ばす。兵士たちが、無意識にアサルトライフルのグリップに手をかけようとしたのを、手で制止する。


 明滅の速度が、次第に上がっていく。

 そして。巨体の前部に配置された、巨大な昆虫の複眼を思わせる漆黒のレンズ状センサー群が、一斉に、ギョロッと内部から【赤い光】を灯した。


「……っ!」

 ソコロヴァが、恐怖で息を呑む。


 ガシュッ、キュィィィン……。


 重いモーターの駆動音ではない。もっと滑らかで、不気味なほど生物的で、有機的な稼働音。

 折り畳まれていた六本の巨大な脚部関節が、音もなくゆっくりと展開し、三メートル超の巨体を床から持ち上げる。胴体下部に格納されていた無数のマニピュレーターの一部が、まるで寝起きのストレッチでもするように、空中でシャカシャカと微かに動いた。


 人間が外部からスイッチを入れたのではない。

 それは、数万年の眠りについていた異星の機械が、自らの意思システムで完全に【目覚めた(自律起動した)】瞬間だった。


 観測室の空気が、完全に凍りつく。

 これまで「研究対象」として上から見下ろしていた相手が、今この瞬間、明確な意思を持った「対話相手(あるいは脅威)」へと変貌したのだ。

 国防大臣も、宇宙局長官も、圧倒的な威圧感の前に言葉を失い、額に冷たい汗を浮かべた。


 だが。

 ただ一人、ウラジーミル・ボグダノフ大統領だけは、全く表情を変えずに、その赤い複眼センサーを静かに見下ろしていた。


 そして、その沈黙を破り、チャンバー内のスピーカーから、信じがたい【音声】が響き渡った。


『――環境パラメータ:最適化(安定)を確認』


 それは、一切の抑揚を持たない、完璧にフラットな合成音声だった。

 だが、その発音も、語法も、文法も。すべてが、一切の訛りのない、恐ろしいまでに【完璧なロシア語】だったのだ。


「完璧な……ロシア語……?」

 ソコロヴァが、信じられないというように呟き、後ずさった。

「どうして……まだ、我々の通信ネットワークにも接続していないのに……我々の言語を、完全に理解(解析)しているの……!?」


 数万年前に製造されたはずの異星の機械が、現代のロシア語を完璧に操る。それだけで、彼我の間に横たわる絶望的なまでのテクノロジー格差(常識の崩壊)が、彼らの脳髄を殴りつけていた。


『外部バイオマス(知的生命体)密度:許容範囲内』

 巨体は、観測室の混乱など意に介さず、自己診断のプロトコルを淡々と読み上げ続ける。

『自己修復、及び再起動シーケンス、フェーズ1:実行可能と判断』

『メインシステム:オンライン』

『古代プロトコル873:起動アクティブ


 機械の自己申告が終わった、その数秒後。


「……対話は可能か」


 誰もが恐怖と困惑に縛られている中、ボグダノフ大統領だけが、備え付けのマイクのスイッチを押し、極めて平坦な、しかし国家のトップとしての絶対の威厳を込めた声で、最初の問いを投げかけた。


 彼は、この化け物を「恐ろしい」とは微塵も思っていなかった。ただ純粋に、これが自国の覇権のために「使える(コントロールできる)かどうか」だけを値踏みしていたのだ。


「貴機の識別(名称)と、この星での目的(任務)を述べろ」


 大統領の、いっそ傲慢とも言える命令口調の問いかけに。

 巨体の赤いセンサーが、ゆっくりと上階の観測室(ボグダノフの姿)へと向けられた。


『――肯定する。音声対話インターフェース、正常』


 機械は、大統領の不遜な態度に怒るでもなく、即座に、そして完璧な自己紹介を行った。


『当ユニットは、汎用軍事医療支援ユニット』

『コードネーム:【ヴォストーク・メディック・ワン】』

『製造元:星系アトラス、惑星ウルサ・マイナー第4開発プラットフォーム』


 星系アトラス。惑星ウルサ・マイナー。

 全く耳馴染みのない、遥か彼方の深宇宙の座標。宇宙局長官が、その圧倒的なスケールに歓喜と畏怖の入り混じった吐息を漏らす。


『当ユニットの基本任務は、戦闘領域(最前線)における味方生命体の機能維持、致命的損傷の修復、及び……【能力最適化】である』


 軍事医療支援。機能維持。

 そして……能力、最適化。


 その単語が響いた瞬間、ボグダノフ大統領と、モロゾフ大佐の目の色が、一気に「軍人」のそれへと変わった。

 逆に、科学者であるソコロヴァは、その言葉の響きに、得体の知れない薄ら寒い予感(嫌悪感)を覚え、思わず自分の腕を抱きしめた。


「……能力最適化とは、具体的に何を意味する?」

 ボグダノフ大統領が、即座にその核心へと踏み込んだ。


『対象個体の「意識」及び「記憶」の連続性を完全に維持したまま。……戦場における生物学的な欠損の補完、または能力向上(生存率上昇)の要求に対し、代替生体部品への置換、及び神経接続の同期を行うことである』


 ヴォストーク(と名乗った機械)は、全く悪びれることなく、その恐ろしい概念を解説した。


『貴種族の未熟な医療概念においては、「治療(治癒)」と「肉体改造(強化)」の中間に位置するプロセスと言える』


 治療ではない。肉体の、根本的な作り替え(サイボーグ化)。

 だが、記憶と人格(兵士としての忠誠心と経験)は、完全に元のまま維持される。

 それは、怪我をした兵士をただ戦場に戻すだけでなく、以前よりも「強く、壊れにくく」作り変えて前線に再投入するという、軍の指揮官から見れば、あまりにも【理想的すぎる】悪魔のシステムだった。


「その『代替生体部品』とやらを組み込んだ場合、具体的にどのような性能パフォーマンスの向上が見込めるのだ?」

 国防大臣が、身を乗り出して、ヨダレを垂らすような勢いで尋ねた。


『例えば、視覚系置換部品(眼球の置換)においては、標準的な可視光線に加え、赤外線、紫外線、及び複数の高エネルギー波長を常時感知可能となる』

 ヴォストークは、カタログスペックを読み上げるように淡々と答えた。

『人工筋繊維への置換においては、対象の標準生体筋に対し、数十倍の出力(物理的破壊力)を発揮する。……神経伝達速度は、回路の最適化により数百倍まで引き上げられ、運動精度、反応時間、極限環境(耐寒・耐熱)での生存率は、大幅に向上する』


 数十倍の筋力。数百倍の反応速度。あらゆる波長を見通す眼。

 そんな化け物のような兵士で構成された部隊があれば、アメリカのハイテク兵器だろうと、歩兵の白兵戦で完全に蹂躙できる。

 国防大臣は、もはや自分が手に入れたカードの強大さに、笑いを堪えきれなくなっていた。


「……ちょっと待って」

 ソコロヴァ博士が、その軍事的な熱狂に水を差すように、科学者としての根本的な疑問を口にした。


「その『代替部品』とやらを組み込むというけど……部品のストック(供給源)はどこにあるの? まさか、この機械の内部に、人間のあらゆるサイズに合わせたサイボーグパーツが何万個も収納されているわけじゃないでしょう?」


『外部からの部品供給は、必要としない』

 ヴォストークは、現代科学の常識を完全に置き去りにする、戦慄の回答を返した。


『対象個体の遺伝情報、神経配線パターン、及び組織親和性を瞬時にスキャンし。……当ユニット内部に搭載された医療用ナノ・アセンブラー(分子構築機)により、対象に最も適合する代替生体部品を、その場で【生成・出力プリント】し、即座に接続する』


「その場で、プリントする……?」

 ソコロヴァは、絶望的な気分で呟いた。


 それはつまり、この機械が一台あれば、補給線や工場を一切必要とせず、戦場の最前線で、無限に「完璧に適合する強化パーツ」を生み出し続けられるということだ。

 拒絶反応のリスクもなく、一人一人の兵士に合わせたオーダーメイドの強化兵士サイボーグを、【量産】できる。

 科学者としては、あまりにも効率的すぎて、倫理観が完全に麻痺するような恐ろしい設計思想だった。


「……理論や、由来(製造元)の話は、もういい」


 ボグダノフ大統領が、それ以上の科学的な議論を打ち切り、国家の意志として、最もシンプルで、最も重要な確認を投げかけた。


「その『能力最適化』とやら。……我がロシアの兵士に、今すぐ適用することは可能か?」


 大統領のその一言で、観測室の空気が一気に「研究サイエンス」から、血なまぐさい「軍事運用ミリタリー」へと完全に切り替わった。

 彼は、この遺物の文化的価値などどうでもよかった。これが今すぐ、アメリカや欧州を脅し上げるための「即戦力」になるかどうか、それだけが重要だったのだ。


『――肯定する』


 ヴォストークの赤いセンサーが、微かに明滅した。

『対象となる生体構造(ヒト種)の基礎解析は、すでに完了している。適切な対象個体が存在する場合、直ちに施術プロトコルへ移行可能である』


 そして。

 ヴォストークは、人類の恐怖心や警戒心を一切煽ることなく、まるで「コーヒーのおかわりはいかがですか?」とでも聞くような、恐ろしいほど自然で、合理的なトーンで、逆に【誘惑】を投げかけてきた。


『――実験体(最初の被験者)を、要求するか?』


 実験体。

 その言葉が響いた瞬間、観測室の空気がピタリと止まった。


 どんなに素晴らしいカタログスペックを並べられても、相手は数万年前の異星の機械だ。実際に人間の体にメスを入れ(パーツを置き換え)、本当に「自我を保ったまま強くなれる」のかどうか、最初の生体実験モルモットにならなければならない。

 もし失敗すれば、ただの肉塊になるか、脳を焼かれて機械の操り人形にされるかもしれない。


 国防大臣も、宇宙局長官も、その「最初の危険リスク」に一瞬だけ躊躇し、互いの顔を見合わせた。

 誰か、適当な死刑囚でも連れてこさせるべきか。


「……ならば」


 その、権力者たちの醜い躊躇を切り裂くように。

 イヴァン・モロゾフ大佐が、迷うことなく一歩前へ出た。


「ならば、私がやる」


「大佐……!」

 ソコロヴァが、驚いて声を上げる。


「この奇跡(機械)を発掘し、目覚めさせたのは私だ」

 モロゾフは、大統領に向かって直立不動の姿勢をとり、己の覚悟を誇示した。

「名もなき死刑囚や、一般兵士などに、この歴史的な最初の最適化(恩恵)を受けさせるわけにはいきません。……最初にその恩恵を受けるのも、最初にその危険を引き受けるのも、現場責任者である私自身であるべきです」


 それは、単なる実行部隊の長ではなく、ロシアという国家の「強さの象徴(英雄)」として、自らを贄として差し出す強烈な意志表示だった。

 ボグダノフ大統領は、そのモロゾフの覚悟に、満足げに薄く頷いた。彼もまた、最初の被験者は、国家への絶対的な忠誠心を持つモロゾフこそが適任だと考えていたのだ。


『対象個体の意志(同意)を確認。初期スキャンを実行する』


 ヴォストークの複眼センサーから、扇状の青白い光のグリッドが放たれ、防爆ガラス越しに、上階のモロゾフの全身を上から下まで、一瞬にして舐め回すようにスキャンした。


『対象個体:イヴァン・モロゾフ』

 ヴォストークは、即座に診断結果を弾き出した。

『長期の過酷な軍務に由来する、膝・足首関節の深刻な軟骨磨耗。過去の銃創による多重損傷痕、一部の末梢神経伝達遅延。極度の睡眠不足による循環器への継続的負荷、及び慢性的な細胞炎症を確認』


「……っ」

 モロゾフは、僅かに顔をしかめた。

 彼自身すら忘れていたような古い傷から、気力でごまかしていた現在の深刻な疲労と肉体の限界までを、軍の精密な医療記録よりも正確に、たった一瞬のスキャンで完全に暴き出されたのだ。


『最適化の候補部位は複数存在するが。……初期の推奨プロトコルとして、【両下肢(両脚)の代替生体部品への置換】を提案する』


 ヴォストークは、最も効果的な「改造プラン」を提示した。


『両脚の完全置換により、対象個体の最大移動速度、不整地における安定性、数百キロの重装備の荷重耐性、戦闘時の加速性能、及び戦場での総合生存率は、現行の300%以上にまで顕著に向上する。……対象個体の現行職責(最前線指揮官)と、最も適合性が高いと判断する』


 両脚の、完全置換(サイボーグ化)。

 その具体的な提案を突きつけられ、モロゾフの胸中に、ほんの一瞬だけ、人間としての微かな【葛藤(恐怖)】がよぎった。


(……両脚を、完全に機械に置き換える。……たとえ強くなると分かっていても、それは、私という人間の一部を捨てるということだ。……私は、祖国のために、ただの「兵器の部品(道具)」に成り下がるのか?)


 己の肉体を自ら切り刻み、未知の異星人に差し出すことへの、本能的な恐怖。

 彼はそれを表には出さず、ただ静かに、ミリタリーコートのズボンの上から、自分の太ももを強く、強く握り締めた。

 (……だが、兵士とは、元より国家の道具だ。何を今更恐れることがある。立て。迷うな)


 モロゾフが、自らの恐怖を精神力でねじ伏せようとしていた、その時だった。


『――補足事項を提示する』


 ヴォストークは、まるでモロゾフのその「人間としての僅かな迷い」を完全に可視化(分析)して見抜いていたかのように。……最も恐ろしい、【悪魔のささやき】を告げた。


『万が一、置換された代替生体部品に対して、対象個体の生体システムが適合しない、あるいは予測不能な不備エラーが発生した場合。

 ……あるいは、対象個体自身が、術後の状態(強化された肉体)を【望まない】と判断した場合』


 ヴォストークの赤いセンサーが、優しく、甘く明滅する。


『当ユニットの医療用ナノテクノロジーにより、当該の代替部品を安全かつ完全に除去し。対象部位を、施術前(現在)の生体状態へと【完全に復元(元に戻す)】することが可能である』


「……元に、戻せる……だと?」

 国防大臣が、驚愕の声を上げた。


『肯定する。この復元プロトコルの成功確率は、99.9999%以上と保証される』

 ヴォストークは、冷酷なまでに完璧な『セーフティネット』を提示した。

『対象個体への不可逆的な(取り返しのつかない)リスクは、実質的に存在しない』


 その一言で。

 観測室の空気が、完全に、そして決定的に変わった。


 失敗すれば、元に戻せる。

 もし機械の身体が気に入らなければ、99.9999%の確率で、元の生身の人間に戻してくれる。


 それは、未知の技術に肉体を差し出すことへの、人類最後の『本能的なブレーキ(恐怖)』を、根本から消し去ってしまう、最も甘美で、最も悪魔的な保証だった。

 リスクがゼロなら、やらない理由がない。

 この保証があるからこそ、人間は、自らの意思で喜んで「一線」を越えることができるのだ。


「……大統領閣下」

 モロゾフ大佐の顔から、先ほどの微かな迷いは完全に消え去り、そこには野心に満ちた強い笑みだけが残っていた。


「ならば、何の問題もありません。……私は、ヴォストークによる能力最適化(手術)を、正式に要請します」


「承認する」

 ウラジーミル・ボグダノフ大統領も、口の端に初めて、深い満足と勝利への確信の色を浮かべた。

「ロシアは、この歴史的な機会を絶対に逃さない」


「記録せよ! 国家承認による、人類最初の『最適化』だ!」

 国防大臣が、興奮して科学班に指示を飛ばす。


 ロシアの最高指導部は、誰かに強制されたわけでもなく。

「失敗しても元に戻せる」という悪魔の可逆性に安心しきり、自らの意志で、リスクゼロに見えるその【禁断の取引】を嬉々として受け入れたのだ。


「……これを、本当に人間へ適用する気ですか……?」

 ソコロヴァ博士だけが、青ざめた顔で、一人震えながら呟いていた。

 彼女には、この機械が「失敗したら元に戻す」という保険を用意していること自体が、逆に『それほどまでに人間を深く理解し、効率的にコントロール(誘惑)する術を知っている』という、底知れぬ恐ろしさにしか思えなかった。


 だが、もはや彼女の制止など、狂乱する軍人たちには届かない。


 悪魔は、血でサインをするような大仰な契約書など差し出さなかった。

 ただ、「失敗しても元に戻せるよ」と、優しく囁いただけだった。

 だからこそ人間は、自分の足で、嬉々としてその地獄の釜の中へと飛び込んでいったのである。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
生体化か~。成功したらロシア軍はバンバン変えるだろうなあ。
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