第41話 永久凍土の眠れる巨人
世界が狂ったように回り始めている。
アメリカは地中海で街一つを消し飛ばす『アポロンの矢』を手に入れ、欧州は空を覆うオーロラと共に『ヘルメス協会』という狂気と宇宙観に飲み込まれ、そして極東の島国・日本は、人類史のすべてを保存した神話の深淵『出雲』と、地球環境を調律する海底の知性『与那国』を掘り当てた。
各国の覇権と生存を懸けた、地球外遺産を巡る激しいパワーゲーム。
その歴史的な狂騒の裏側で。広大なユーラシア大陸の北に位置する軍事大国・ロシアが、ただ指をくわえて沈黙していたわけでは、当然ない。
「……アメリカは矢を得た。欧州は狂気を得た。そして日本は、神話そのものを掘り当てた」
ウラジーミル・ボグダノフ大統領の、低く、しかし氷のように冷たく重い声が、クレムリンの地下深くに作られた極秘の通信室に響き渡った。
「世界地図が、未知のテクノロジーによって塗り替えられようとしている。……この歴史的な転換点において、我らがロシアだけが『手ぶら』で終わることなど、断じて許されん」
それは、大国のトップとしてのプライドというより、他国に決定的な『力』を握られることへの、ヤケクソに近い強烈な【焦燥感】の発露だった。
「掘れ。文字通り、国の裏側まで凍土を削り尽くしてでも……見つけろ。何でもいい。アメリカの矢を叩き落とし、欧州の狂気を黙らせ、日本の神話を蹂躙できるだけの『逆転の札』を、必ず我が国に持ち帰れ」
ボグダノフの目は、血走り、暗い情念の炎を燃やしていた。
「……でなければ。お前たちごと、部隊を丸ごと凍土の下に埋めてやる」
その大統領の厳命を帯びて、極限の環境下へと送り込まれたロシア軍直轄の秘匿古代遺物探索部隊、コードネーム【アルマーズ(ダイヤモンド)】。
彼らが今いるのは、ユーラシア大陸最北東部、サハ共和国の広大な永久凍土帯のど真ん中だった。
気温は氷点下四十度を下回り、吐く息は瞬時に白く凍りついて空中に散る。
極夜の闇がようやく明け、空がぼんやりとした灰色の白夜へと移り変わりつつある季節。見渡す限り、青白い氷原と雪、そして吹き荒れるブリザードの世界。
「……また、ハズレです」
分厚い防寒服に身を包んだ兵士が、無骨なレーザー掘削機の横で、凍りついたゴーグル越しに絶望的な報告を上げた。
「掘削深度六十メートル。反応源に到達しましたが……旧ソ連時代の、廃棄された軍需工場の弾薬庫の残骸でした」
副官であるユーリ技術将校が、データ端末を叩きながら、忌々しげに舌打ちをした。
「金属探知機が、古い鉄クズの塊に過敏に反応しただけです。……大佐」
ユーリの視線の先。
猛吹雪が吹き荒れる発掘用大型ライトの強烈な光芒の中に、まるで氷の彫像のように微動だにせず立ち尽くす一人の男の背中があった。
イヴァン・モロゾフ大佐。
部下たちから畏怖と絶望を込めて「冬将軍」とあだ名される、このアルマーズ探索部隊の現場責任者だ。
「……掘れ」
モロゾフの口から出たのは、労いの言葉でも、落胆の溜息でもなく、ただ冷徹で、鋼鉄のように硬い【命令】だけだった。
「次の反応座標へ移動しろ。一時間以内にキャンプを解体し、掘削機を再セットしろ」
「大佐! 無茶です!」
ユーリが、悲鳴のような声を上げた。
「隊員たちはもう、三日間まともに寝ていません! 毎日数キロ単位で重機を移動させ、凍土を溶かし、怪しい反応を掘っては『ただの地磁気異常だ』『古生物の化石だ』『自然の鉱脈だ』と、外れの山を築かされているんです! 疲労も士気も限界です!」
「限界は、死んでから報告しろ」
モロゾフは、一切の感情を交えずに、ユーリを冷たい灰色の瞳で睨み据えた。
「我々に、立ち止まるという選択肢は与えられていない。……大統領は『手ぶらで帰れば凍土に埋める』と仰った。休む暇があるなら、氷を削れ」
モロゾフ自身も、この数週間、睡眠時間は一日に三時間にも満たなかった。
目の下にはどす黒い隈が張り付き、凍りついた睫毛の下の瞳は、過労と極寒で血走っている。仮眠をとる時すら、軍靴を脱ぐことはなく、常に無線の前に突っ伏して次の「怪しい反応」を待ち続けている。
彼は狂っていた。他国が次々と世界の真理に触れている中、自分たちだけがこの氷の地獄で「鉄クズ」や「ただの石」を掘り続けているという【屈辱と焦燥】が、彼という人間を冷酷な機械に変えてしまっていたのだ。
「……大佐。……モロゾフ大佐!」
その時。
仮設のプレハブ小屋の中に設置された観測卓から、若き地質物理学者、レーナ・ソコロヴァ博士が、弾かれたように飛び出してきた。
「どうした、ソコロヴァ」
モロゾフは、冷ややかな視線を向けた。
彼女もまた、これまで何度も「怪しい反応があります!」と報告しては、結果的にただの隕石の欠片や地磁気のバグといった『ハズレ』を引き当て、部隊を無駄に疲弊させてきた張本人である。今や部隊内では、「ソコロヴァの寝息(また誤検知か)」という言葉が、失笑混じりの合言葉にすらなりかけていた。
「……待って。待ってください、大佐……今回のは、違います」
ソコロヴァは、寒さで震えているのか、それとも別の恐怖で震えているのか分からないほどガタガタと歯の根を鳴らしながら、手元のデータパッドをモロゾフに突きつけた。
「深度、七十三・二メートル。……高密度の金属反応……いえ、金属の反応値が、おかしいんです」
彼女の目は、疲労困憊の極致にありながら、科学者としての異常な興奮に見開かれていた。
「過去最大の数値です。昨日掘り当てた旧ソ連の弾薬庫の……三倍以上の密度。地球のいかなる既知の合金のデータとも、完全に一致しません」
「また隕石か、自然の鉱脈の誤検知じゃないのか」
ユーリが、うんざりしたように首を振る。
「違う……これは、絶対に違う……!」
ソコロヴァは、ユーリの言葉を激しく否定し、データパッドの波形グラフを指差した。
「ただの金属反応だけじゃないんです! その中心部から……意味不明な、極めて微弱なエネルギーの放射パターンが観測されています。……自然現象のランダムなノイズでもなければ、地球の工業製品の単純な電磁波でもない。……恐ろしく規則的で、そして複雑な……」
ソコロヴァは、息を呑み、その『異常な波形』を、最も不気味で、そしてロマンに満ちた言葉で表現した。
「……まるで。……何かとてつもなく巨大な機械が、この氷の底の深い眠りの中で……かすかに『寝息』を立てているみたいなんです……っ!」
巨大な機械の、寝息。
その言葉が、猛吹雪の吹き荒れる青白い氷原に響き渡った瞬間。
モロゾフ大佐の動きが、ピタリと止まった。
彼の灰色の瞳の奥で、長きにわたる絶望と徒労の果てに、ようやく『本物の獲物の匂い』を嗅ぎつけた狼のような、鋭く危険な光が燃え上がった。
「……全作業を停止しろ」
モロゾフの、低く、しかし周囲の空気を完全に支配する声が、通信機を通じて部隊全体に轟いた。
「現在の掘削軸を破棄。すべてのリソースを、ソコロヴァの指定した座標、深度73・2メートルへと集中させろ」
「大佐!?」
「特殊レーザー掘削機、最大出力で起動。周辺三キロメートル一帯を完全封鎖、対空レーダーおよび通信ジャミングを展開しろ」
モロゾフは、次々と矢継ぎ早に、そして極めて暴力的なまでの決断を下していく。
「ここから先、この作戦の記録階級は【黒(最高機密)】だ。情報漏洩は即座に銃殺とする」
モロゾフは、ソコロヴァのデータパッドを奪い取るように見つめ、長く、冷たい息を吐き出した。
「……今度こそ。……本物だ」
冬将軍の即断により、アルマーズ部隊は疲労を忘れたように、狂気の熱を帯びて動き始めた。
ゴォォォォォォッ!!
特殊レーザー掘削機の、網膜を焼くような強烈な赤い光の束が、数万年もの間一度も解けることのなかった分厚い永久凍土を、無慈悲に焼き切っていく。
溶けた氷が一瞬にして沸騰し、高圧のエアジェットによって粉々の氷塵と共に空高く吹き飛ばされる。極寒の大気と、レーザーの超高温がぶつかり合い、発掘現場の巨大なライトの光芒の中で、真っ白な蒸気の柱が乱舞する。
それは、人間の執念が、力技で地球の極地をこじ開けていく、ロシアという国家特有の泥臭く、そして無骨なまでの美しさを持った光景だった。
「深度六十メートル突破! レーザー出力安定!」
「気をつけろ! 相手は未知の機械だ、傷をつけるな! 周辺の氷壁は手作業で削り落とせ!」
兵士たちの荒い呼吸と、削岩機の轟音が交錯する中。
数時間の、文字通り死に物狂いの掘削作業の果てに。
「……見えた」
巨大なクレーターのような発掘穴の底で、ユーリが信じられないものを見るように声を震わせた。
「壁じゃない。……曲面です」
蒸気と氷の粉が晴れた穴の底に、ついに『それ』が姿を現した。
それは、地球上のいかなる金属や人工物とも異なる、異質な質感を持っていた。
鉄でもチタンでもない。まるで、宇宙の深淵から削り出された巨大な黒曜石か、あるいは滑らかに磨き上げられた隕石のように、発掘用のライトの光を『鈍く、重く』反射している。
「こんな材質……地球の既知の合金技術ではあり得ない」
ソコロヴァが、震える手で防寒服の胸元を握りしめながら、その圧倒的な存在感に魅入られたように呟いた。
「明らかに、人工物……いえ、知的生命体によって意図的に『デザイン』された装甲の曲面です!」
「掘り続けろ」
モロゾフ大佐が、穴の縁から身を乗り出し、ギラギラと目を輝かせながら怒鳴った。
「全貌を出せ! 氷の檻から、その怪物を引きずり出せ!」
作業は、発掘から『解放』へとその意味を変えた。
周囲の氷を慎重に、しかし素早く削り落としていくにつれ、その鈍く光る曲面は、ただの胴体の一部ではなく、さらに複雑で巨大な構造へと繋がっていることが明らかになっていく。
「……脚、か?」
氷の中から、装甲に覆われた巨大な『関節』のような構造物が突き出してくる。
一本、二本ではない。周囲の氷を溶かすたびに、折り畳まれていた異形のパーツが次々と露出し、発掘作業を続ける兵士たちは、そのあまりの異様さに言葉を失い、徐々に口数を減らしていった。
そして。
掘削開始から十数時間後。ついに、地下73・2メートルの氷の底に眠っていた『眠れる巨人』の全貌が、完全にその姿を現した。
「……でかい」
ユーリが、尻餅をつきそうになりながら、畏怖の念を込めて呻いた。
全長、約三メートル超。
その姿は、地球上のどんな兵器にも似ていなかった。
黒曜石のような多面体の装甲が、まるで生物学的な合理性を持って複雑に組み合わされた、流線型と鋭角が同居する異形のフォルム。
胴体の下部には、不気味なほど滑らかな関節を持つ『六本の巨大な脚』が折り畳まれており、それは巨大な蜘蛛、あるいは深海の甲殻類を思わせる、背筋の凍るような威圧感を放っていた。
異形でありながら、一切の無駄がない。恐ろしく合理的で、だからこそ、見た者の本能的な恐怖と畏敬の念を激しく揺さぶる、完全な『機能美』の結晶。
「……顔、なのか?」
ソコロヴァが、その巨体の前部――頭部にあたる位置に備えられた、漆黒の巨大な『レンズ状のセンサー群』を見上げて、ゴクリと唾を飲んだ。
それは昆虫の複眼のように複数配置されており、まだ電源が入っていない(光っていない)にもかかわらず、まるで何万年もの間、見えない深淵からこちらをジッと『見据えられている』ような、強烈な圧迫感を放っていた。
「大佐。……この脚の構造と、装甲の配置。明らかに戦闘用(軍事目的)に設計されたものに見えますが……」
ユーリが、少し離れた位置から警戒しつつ報告する。
「奇妙なのは、あの『腕』です」
ユーリが指差した先。巨体の胴体部分から、複雑に折り畳まれた無数のアーム(腕)が格納されているのが見えた。
「……これは、殺すための腕(武器)じゃない」
ソコロヴァが、科学者としての直感で、そのアームの先端に取り付けられたアタッチメントの形状を分析し、ハッとして言った。
「火器やブレードじゃない。……切開、縫合、精密な再接続、固定、そして極小の病巣(あるいは被弾箇所)を焼き切るための『医療用レーザーメス』に似た構造……」
ソコロヴァは、信じられないというように目を丸くした。
「この機械……兵器じゃない。もしかして、もっと別の……戦場における【治療】を目的とした、自律型の……」
「戦場で兵士を治し、再び戦線に復帰させることができるのなら」
モロゾフ大佐が、ソコロヴァの言葉を遮り、氷の底の巨体を見上げながら、低く、しかし熱を帯びた声で断言した。
「それは、立派な『兵器(力)』だ」
モロゾフは、クレーターの底へゆっくりと降り立ち、その黒曜石の装甲に覆われた『眠れる巨人』の目前へと歩み寄った。
科学者たちは、その異形の姿に美しさに近い恐怖を抱いていた。
兵士たちは、ただ純粋な未知への恐怖に震えていた。
だが、イヴァン・モロゾフ大佐だけは違った。
彼の灰色の瞳に宿っていたのは、恐怖でも畏敬でもなく。
長きにわたる不眠不休の地獄の探索と、外れを引き続けた屈辱の果てに、ようやく『世界をひっくり返す絶対の逆転札』をその手で掘り当てたという、抑えきれない【狂喜(歓喜)】の爆発だった。
「フッ……フハハハハハッ!!」
それまで、どんな過酷な状況でも表情一つ変えることのなかった「冬将軍」が。
極寒の氷の底で、両腕を大きく広げ、まるで悪魔のように高らかに笑い声を上げた。
「ソコロヴァ! ユーリ! よくやった! 見ろ、この圧倒的な姿を!!」
モロゾフは、興奮で肩を震わせながら、部下たちに向かって吠えた。
「これは……我々ロシアが、世界の歴史を……いや、人類の未来そのものを、完膚なきまでに塗り替えるための!!」
モロゾフは、巨体の漆黒の装甲を力強く叩いた。
「我らに与えられた、【神の槌】だ!!」
そのモロゾフの咆哮は、ロシアという国家が、ついに「アメリカの矢」「欧州の狂気」「日本の神話」という、世界の覇権ゲームのテーブルに、最強のカードを持って躍り出たことを意味していた。
「通信兵! 直ちにクレムリンへ、最高機密の暗号通信を繋げ! 階級をすべて飛び越え、大統領閣下に直送しろ!」
モロゾフは、血走った目で即座に命令を叩きつけた。
「文面はこうだ。『大統領閣下、報告します。我々アルマーズは、ついに発見しました。……完全な状態の、異星の機械知性体(眠れる巨人)を確保』」
モロゾフの顔には、軍人としての冷徹さと、それを上回る強烈な野心が入り混じっていた。
「『これを、我々ロシアの手で、そして我々ロシアの科学力で完全に目覚めさせ……その圧倒的な力を、我々を出し抜こうとしたアメリカにも、欧州の古狸どもにも、そして極東の日本にも、思い知らせてやらねばなりません』……とな!」
ロシアの逆襲が、国家の最優先プロジェクトとしてクレムリンに叩きつけられた瞬間だった。
「さあ、いつまで氷の中で寝ているつもりだ」
通信兵が走り去った後。モロゾフは、再び巨大な異形の機械の正面に立ち、その漆黒の複眼センサーを見上げて、傲慢な笑みを浮かべた。
「眠っていろとは、誰も命じていない。……起きろ」
モロゾフは、獲物に飢えた獣のように囁いた。
「我々に、この狂った世界で勝つための力を寄越せ」
…………。
……。
発掘現場が、モロゾフの言葉に押されるように、一瞬だけ不気味なほど静まり返った。
「……大佐。……今、見ましたか?」
ソコロヴァが、ハッと息を呑み、震える指で巨体の頭部を指差した。
誰も、電源など入れていない。
だが、その六本脚の異形の機械の、巨大な複眼状の漆黒のセンサーの奥底で。
ほんの一瞬だけ。まるで、数万年の深い眠りから、外部のノイズ(人間の声)に反応して微かに意識を浮上させたかのように……不気味な【赤い光】が、血脈のようにチカッと走り抜けたのだ。
さらに、黒曜石のような装甲の表面に刻まれた未知の幾何学模様が、内側からの極微弱な熱(エネルギーの脈動)を帯びて、薄く、本当に薄く、青白いラインを這わせた。
それは、間違いなく。
この氷の底に埋まっていた怪物が、ただの鉄クズではなく、今まさに【目覚めの兆し】を見せ始めたという、決定的な証拠だった。
ソコロヴァは、科学者としての本能が警鐘を鳴らし、ゾッと背筋を凍らせた。
兵士たちも、その微かな光の瞬きに、一歩後ずさる。
だが、モロゾフ大佐だけは違った。
彼は、その目覚めの兆候を示す赤い光を真っ向から見つめ返し、ただ一人、満足げに、そして残酷に笑っていた。
永久凍土の底で、眠れる巨人は確かに存在していた。
そして今、その数万年にも及ぶ長い眠りは、ロシアという国家の「他国には負けられない」という泥臭くも強烈な焦燥によって、無理やり終わらされようとしていた。
それは、単なる古代遺跡の『発見』などではない。
氷の檻の中から、人類を次の次元の殺し合いへと導くための「未来の戦争」を、力ずくで掘り出す作業だったのだ。
雪と氷と沈黙の国は、その夜、ようやく手ぶらではなくなった。
ただ問題は。その氷の底から引きずり出した異形の巨体が、ロシアという国家にとっての「救済」となるのか、それともすべてを破壊し尽くす「最悪の災厄」となるのかすら、まだ誰にも分かっていないということだった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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