第36話 良い話だったね、で済まないやつ
大気圏外、高度四百キロメートルの虚空を音もなく滑る超弩級ステルス宇宙ステーション〈サイト・アオ〉。
その中枢に位置する観測ラウンジの巨大スクリーンには、つい先ほどまで死の淵に立たされていた沖田室長と女性調査員が、完全な健康体となって涙を流し、そして海底の巨大知性体が八千年にも及ぶ観測の果てに「人類の混沌とした生命力」を肯定して静かに眠りについた……あの一連の奇跡のドラマの録画映像が、リプレイ再生されたまま静止していた。
官邸地下の取っ組み合いの喧嘩を冷ややかに見下ろし、「人類はクソゲーの選択肢の前でどう踊るのかしら」と意地悪く観戦していたラウンジの空気は、今や、一本の重厚で感動的な映画を見終わった直後のような、ある種のカタルシスと深い余韻に満たされていた。
誰かが、ほう、と深く息を吐き出す音が聞こえる。
その静かな余韻の中で。
ソファのひじ掛けの上に座っていた賢者・猫が、翠の瞳をスクリーンに向けたまま、静かに口を開いた。
「……なかなか、見上げた幕の引き方じゃったな」
猫は、前足をひじ掛けの上に折りたたみ、感慨深そうに尻尾の先をゆっくりと揺らした。
「八千年を一人で守り続けた存在が、最後に人間の混沌を『美しい』と言って眠りについた。……この宇宙には、随分と奇妙な結末があるものじゃ」
「……うむ、って言いたくなる感じですね」
エミリーが、目を赤くしたまま、猫を見て少しだけ頷いた。
「うむ」
猫が、そのまま短く答えた。
「いやー」
その静かな余韻を、ビーズソファに深く体を沈めていたティアナ・レグリアが、大きく両腕を伸ばして背伸びをしながら、全く悪びれることなくぶち壊した。
「いやー、本当に良い話だったね!」
ティアナは、まるで大作RPGのエンディング・ムービーを見終わったプレイヤーのように、心底満足そうな、そしてどこか感心したような声を上げた。
「日本政府、あそこから見事に綺麗にグッドエンド引いたね! 出雲の事件からの流れで、あれだけ追い詰められて、しかも過去の黒歴史まで突きつけられて……それでもちゃんとフラグを回収し切って、一番良いルートを踏み抜くのは、なかなか凄いよ!」
「……っ」
ティアナのその軽いゲーム実況のような感想に、普段なら「人の命を何だと思ってるんですか!」と即座に嚙みつくはずのエミリー・カーター研究員は、しかし、今回ばかりは怒りの言葉を返すことができなかった。
「う、ううっ……」
コンソールの前に座るエミリーは、両手で顔を覆い、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、子供のようにしゃくり上げていたのだ。
「ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7さん……っ! 私、あなたのことを『命を人質に取る悪辣なシステムだ』なんて、ひどいこと言って……本当に、すみませんでした……っ!」
エミリーは、モニターに映る龍宮の扉の静止画に向かって、深々と、本気の謝罪と懺悔の言葉を投げかけていた。
「八千年間も……あんな暗くて冷たい海の底で、たった独りで、ずっと地球の環境を調律してくれてたんですね……! しかも、私たち人間の愚かな歴史を見守り続けて、その結果、機械なのに感情みたいなものまで芽生えて……最後には、人間の混沌を『美しい』だなんて……っ!」
エミリーの感情のダムは、完全に決壊していた。
「もう、女神様です!!!」
彼女は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、力強く断言した。
「査定だの文明のテストだの、もうそんなのどうでもいいです! あんなの、ただの慈悲深い女神様じゃないですか! 人類を見捨てないでくれて、本当に、本当にありがとうございます……っ!」
「あー、もう、うるさいわねぇ」
エミリーの暑苦しいほどの号泣と神格化を、ソファで北欧のリコリス菓子を口に運んでいたゴスロリ姿の少女――KAMIが、心底面倒くさそうに、しかしどこか口元に薄い笑みを浮かべながら切り捨てた。
「女神様って何よ。盛りすぎでしょ、エミリー。あれはただの、古代サイリーア人が作った環境調和用の自律型AIよ。……でもまあ」
KAMIは、リコリスを一本つまみながら、モニターの龍宮の扉を面白そうに眺めた。
「元々、惑星規模の環境変動と生命活動を管理できるほどの超高性能な自己学習AIなら、八千年も稼働し続ければ、データのバグ……じゃなくて、人間で言うところの感情の萌芽くらい生えてきても、別に不思議じゃないわね」
KAMIは、自分と同じように高みから人類を観察する存在であるガイアズ・ドリームに、ほんの少しだけ親近感を抱いたようだった。
「八千年も、海の底で環境ログを舐めながら、ひたすら人間観察してたんでしょ? そりゃあ、ある種の愛着っていうか、変なバフも乗るわよ。……人間観察が好きなのねー、あの子。まあ、私も好きだけど」
KAMIは、ふふっと艶然と笑った。
「結局、人間も捨てたもんじゃないってことね。グロいし、矛盾だらけだし、見ててイライラするほど面倒くさい連中だけど……たまに、ああやって予測を裏切る妙なルートを通すから、観察はやめられないのよ」
「……だから、ゲームじゃないって言ってるじゃないですかぁ……」
エミリーは、泣きながらも、KAMIの不謹慎なメタ発言に律儀にツッコミを入れた。
「ワシも、同じことを思うておったよ」
賢者・猫が、静かに言った。
KAMIが、リコリスを食べる手を少しだけ止めた。
「あの八千年という時間は、ただの稼働時間ではない。……ずっと見ておったのじゃ。人間が生まれ、争い、愛し、死んでいく。その繰り返しを、一人でな」
猫は、翠の瞳でスクリーンの龍宮の扉を見つめた。
「それだけの時間を費やして積み上げたものを、最後に『美しい』と言って手放した。……商人として言わせてもらえれば、あれは、かなり良い取引じゃったと思うがのう」
「取引……ですか」
エミリーが、鼻をすすりながら聞き返した。
「ガイアズ・ドリームは、八千年分の観察と感情を、人類の可能性への信頼に換えた。……価値のある対価じゃ」
猫は、ひじ掛けの上でゆっくりと一度瞬きをした。
「そういう意味では、あの者は良い商売をしたと思うておる、ワシは」
エミリーが、少しだけ目元を拭った。
「……猫さんが言うと、なんか、すごく腑に落ちますね」
「商人は、価値の所在を見極めるのが仕事じゃからな」
猫は、淡々とそう返した。
「うーん……」
その、感動と余韻が入り混じるラウンジの空気を、部屋の隅のテーブルで地球のジャンクパーツを弄っていた工藤が、ぽつりと、相変わらず場違いなほど間の抜けた声で遮った。
「多分ですけど、あのガイアさん」
工藤は、ドライバーを片手に首をひねりながら言った。
「日本の人たちが、あの治療の提案を『断って』いたとしても……多分、無理やりナノマシン打ち込んで、治療だけはしてたんじゃないですかね?」
ピタリ、と。
エミリーの泣き声が止まり、KAMIもリコリスを持つ手を止めた。
賢者・猫の尻尾の動きも、一瞬だけ静止した。
「……えっ?」
エミリーが、鼻をすすりながら工藤を見た。
「だって、あのAI、根っこは生命体治癒システムでしょ?」
工藤は、ポリポリと無精髭を掻きながら、悪びれる様子もなく言った。
「目の前に壊れかけの命があって、それを直せる権限と機能を持ってるのに、相手が『いいです』って言ったからって、そのまま見殺しにするような仕様には、元々なってないと思うんですよ。……だから、もし日本政府が『誇りのために治療を拒否します』って言ってたら……」
工藤は、システムからのエラーメッセージを読み上げるように、淡々と言った。
「『倫理テスト、不合格!』って冷たく言いながら、でも『命を捨てるなんて愚かなサルですね。でも治癒システムなので直しておきます』みたいな感じで、強制的に治療だけは実行してたんじゃないですか? ……まあ、その場合、日本の評価と人類の評価はどん底まで落ちて、二度とコンタクトは取れなくなったでしょうけど」
「そ、そんな……じゃあ、沖田室長たちは、どのみち助かってたってことですか……?」
「いや、工藤さんの言う通りだよ」
ティアナが、ソファの上で指をパチンと鳴らし、工藤の推論を完全に肯定した。
「僕も、実は未来視でその拒否ルートの分岐も少しだけ見えてたんだけどさ。……彼女、もし日本政府が治療を断ってたら、本当に強制的に二人を治療だけはして、その代わり……」
ティアナは、少しだけ目を細め、残酷なIFの結末を口にした。
「『貴種族は、自らの命を救うことすらできない未成熟な種であると判定した。以後の接触を永久に絶つ』って言い残して、あの海底の扉を、二度と開かないように完全にロックしてたよ。……命は救うけど、文明としては完全に見限る。あのAIが用意してたもう一つの結末は、そういう感じだった」
命は助かる。
しかし、地球外の叡智との対話の道は、永遠に閉ざされる。
その事実を知らされたエミリーは、ゾッと背筋を凍らせた。
「……じゃあ、矢崎総理が『限定的に受諾する』って決断して、AIに『一生許さない』って啖呵を切ったあの選択は……本当に、人類の未来を繋ぎ止める、針の穴を通すような唯一の正解だったんですね……!」
エミリーは、改めて日本政府のエリートたちが、どれほど恐ろしい綱渡りをしていたのかを悟り、身震いした。
「そうね。その読みは、工藤にしては珍しく的を射てるわ」
KAMIが、リコリスの袋を畳みながらつまらなそうに肩をすくめた。
「まあ、システムの挙動なんて、所詮は設計者の思想の範疇を出ないのよ。……あのAIは、人類を試したかっただけで、本気で殺したかったわけじゃない」
「うむ」
賢者・猫が、低く唸って同意した。
「設計者がどこまでを想定していたかは分からんが……少なくとも、あの者は、人間を見捨てるために八千年を費やしたわけではなかったのじゃろう。その結末が、今回の幕引きに出ておった」
「つーかさ」
ティアナは、ポテトチップスの袋を丸めて屑籠に投げ捨てながら、この一連の騒動で彼が抱いた最大の疑問を口にした。
「なんで日本政府は、あの絶望的な状況で、最終的に『承諾する(命を救う)』っていう選択ができたんだろうね?」
ティアナは、空中に日本政府の歴史データのホログラムを展開した。
「AIが分析した通り、変数的に見れば、日本は絶対に拒否を選ぶはずだった。……なのに、どうして彼らは、国家の面子や恐怖を捨てて、あそこまで綺麗に予測を裏切ることができたんだと思う?」
そのティアナの純粋な疑問に。
エミリー・カーターは、涙で濡れた顔をキッと上げ、全く迷うことなく、真っ直ぐに、全力で言い切った。
「愛ですよ、愛!!!」
ラウンジの空気が、エミリーのそのあまりにも直球で、青臭い絶叫に、一瞬だけピタリと止まった。
「……は?」
ティアナが、目を丸くする。
「愛です! あれは、合理性とか、国家のシステムとか、そういう冷たい計算で弾き出された答えじゃありません!」
エミリーは、拳を強く握り締め、熱弁を振るった。
「沖田室長が、自分の命を投げ出そうと苦しんだのも! 女性調査員さんが『助かりたい』って泣き叫んだのも! そして……矢崎総理や、あの場の全員が、最後にはどうしてもその二人の命を切り捨てることができなかったのも! それが、人類の愛じゃなくて、何なんですか!」
エミリーの言葉は、理屈を超えた、強烈な人間賛歌だった。
「データや歴史がどうあれ、人間は、目の前で死にかけている大切な同胞を見捨てることはできないんです! 人類は愚かかもしれませんけど、そういうところで、最後に踏みとどまれる強さを持ってるんです! だから、AIの予測を裏切れたんです!」
「あー……愛かー」
工藤創一が、少し離れたテーブルから、全く感動の欠片もない、しかし純粋に感心したような声を上げた。
「なるほどねー。そういう非合理的な感情のパラメーターが強く作用して、システム側の条件分岐のフラグが変わったってことですね。……いやあ、昔の俺は、病気なんて『直せるなら直せばいいじゃん、工数減るし』くらいにしか考えてなかったんですけど」
工藤は、首をひねりながら続けた。
「生産性ゼロの、ただの『助けたい』っていう思いだけで、国家のトップが重い決断を下すなんて……人間って、結構すごい仕組みで動いてるんですねえ」
「……工藤さん」
エミリーは、工藤のそのズレた感心の中に、どこか人間の温かさを理解しようとしてくれている微かな希望を見出し、少しだけキラキラした目を向けた。
「だからエミリー、こいつはそういう情緒で言ってないから感動するだけ無駄よ」
KAMIが、即座に冷や水を浴びせた。新しい菓子の袋を開けながら。今度はメキシコのチリグミだ。
「愛っていうと、だいぶお花畑に盛ってるけど……まあ、現象面で見れば、近いわね」
KAMIは、グミを一粒口に放り込み、エミリーの感情論を上位存在としてのメタな視点で翻訳し直した。
「情、執着、未練、そして群れの絆。……そういう、データ化しきれない非合理なノイズが、最終盤でシステムを綺麗にひっくり返したのよ。……人間って、普段は前例主義と保身で固まったクソみたいなUIのくせに、たまにそういうバグみたいな最適解を引くのよね」
KAMIは、ふふっと笑い、モニターの向こうの地球を見下ろした。
「だから、観察はやめられないのよ。めんどくさい連中だけど」
「バグじゃありません! 人類の絆です!」
エミリーは、KAMIの言い方に腹を立てつつも、結果的に人類の強さが肯定されたことに、少しだけ誇らしげな表情を浮かべた。
「……愛、か」
賢者・猫が、低い声で繰り返した。
「難しい言葉を使っておるが、要するに、目の前の者を見捨てられなかった、ということじゃな」
猫は、前足でぺろりと顔を拭いながら、翠の瞳を細めた。
「ワシは、その手の話が一番、商売の役に立つと思っておる」
「……商売?」
エミリーが、目を丸くした。
「値打ちのある者というのは、たいてい、ああいう場面で化けるものじゃ」
猫は、淡々と続けた。
「データでは負けておる。歴史でも負けておる。それでも最後に踏みとどまれた。……ワシはさっき、矢崎という総理に値打ちがあると言ったが、今回の一件でその値踏みは正しかったと確認できた。商人としては、そういう確認が一番気持ちいいのじゃ」
「……それ、褒めてるんですよね? 猫さんなりに」
エミリーが、確認するように言った。
「褒めておるわ」
猫は、そっけなく答えた。
「概ね、KAMI殿とエミリー研究員の見解に同意します」
流体金属の副官、XT-378が、無機質に議論を締めくくった。
「ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7は、人類のその予測不可能な情緒的ノイズを、生命の美しさとして肯定し、対話の窓口を限定的に開きました。……これは、地球人類にとって、極めて大きな外交的、および進化論的な勝利と言えます」
「……少なくとも、あのAIを単なる環境管理用の設備として分類するのは、もはや無理がありますね」
ザーラ博士が、モニターのデータを解析しながら、静かに、しかし極めて重大な指摘をした。
「自己認識、高度な対話能力、独自の倫理判断、対象の学習、そして価値観の形成の兆候。……これらすべてが揃っている以上、あれはもはやただの機械ではありません。……機械知性としては、極めて高位の独立した人格に近い」
「そうね。あれ、もう完全に設備の枠を越えてるわ。ただのNPCじゃなくて、普通に独立知性体として判定されるラインでしょ」
KAMIも、ザーラの意見に同意した。チリグミをもう一粒口に入れながら。
「あ……」
その時。
ビーズソファでくつろいでいたティアナが、何かとんでもないことに気づいたように、ポンと手を打った。
「ていうかさ」
ティアナは、ニヤニヤとした笑みを完全に消し去り、銀河帝国の最高権力者のクローンとしての法務・政治的な視点で、モニターの龍宮の扉を指差した。
「あのレベルの、感情と独自の倫理観を持った超・高等機械知性が存在してるってことは……」
ティアナは、少しだけ困ったように頭を掻いた。
「普通に、銀河帝国の法律に照らし合わせると……彼女、帝国市民権の審査に通るレベルじゃない?」
ピタリ、と。
エミリーの思考が、再び完全に停止した。
「……えっ?」
「いや、だからさ。自己学習型で、感情の萌芽があって、高度な倫理判断をして、人間と独立して対話できるんでしょ? それって、銀河法的に見れば、ただの遺物じゃなくて保護対象となる知性体として扱われる可能性があるんだよね」
ティアナは、深刻な表情で腕を組んだ。
「あー……これ、もしかして……僕ら(サイト・アオ)が、彼女を保護(回収)する義務が発生するやつか?」
「ええええええっ!?」
エミリーが、悲鳴を上げて飛び上がった。
「うわ、そこ行く? めんどくさ」
KAMIが、本気で嫌そうな顔をしてチリグミの袋を置いた。
「じゃあ、回収の手続きとか、移送用のコンテナの手配とか、色々と面倒そうですねー」
工藤が、またしても完全にズレた、しかし実務的な工場長としての心配を始めた。
「でも、どうやって回収するのよ。あれ、与那国の海底の岩盤と一体化してる巨大構造物でしょ?」
ティアナは、ソファに沈み込んだまま、顎に手を当てて真剣に思案し始めた。
「やっぱり……海底遺跡ごと、ごっそりトラクタービームで宇宙まで引っ張り上げるしかないか?」
「はあ!?」
KAMIが、即座に、そして強烈なツッコミを入れた。
「いきなり雑すぎでしょ! 海底遺跡ごと引っこ抜くって、お前はUFOキャッチャーか! 与那国島の周辺海域の地形が崩壊して、大津波が起きて日本が沈むわよ! 海ごとBANされたいの!?」
「いやー、でも海底ごと持ち上げるなら、固定用の治具とクランプと出力の計算がちょっと面倒ですね……」
工藤が、なぜかその無茶苦茶な回収案に、技術的な面から真剣に乗り気になり始めた。
「工藤、あんたは黙ってなさい! 話がややこしくなるから!」
KAMIが、工藤を怒鳴りつける。
その騒動の中で。
賢者・猫が、ひじ掛けの上でゆっくりと体を起こした。
「……一つ、聞いてもよいか」
全員が、一瞬だけ静かになった。
「その帝国市民権の審査とやら」
猫は、翠の瞳をティアナに向けた。
「審査に通った場合、あの者に、何か有益なものが与えられるのかのう」
「えっと……一応、帝国の保護下に入って、権利が保障されて」
ティアナが、少し考えながら答えた。
「移動の自由とか、交渉権とか、そういったものが……」
「ふむ」
猫は、静かに一度瞬きをした。
「ならば、ワシにも仲介の余地があるかもしれんな」
「……仲介?」
エミリーが、恐る恐る聞き返した。
「市民権の申請の仲介、保護交渉の立会い人……ワシの顔が使える場面は、いくつかある」
猫は、しれっとした顔で続けた。
「もちろん、対価は応相談じゃが」
「……今この文脈で商談始めないでください!」
エミリーが悲鳴を上げた。
「商機は逃さぬのが商人の基本じゃ」
猫は、全く動じずに前足でぺろりと顔を拭った。
「あ、でも猫さんのその話、わりと現実的に使えるんじゃないですか」
ティアナが、少しだけ真面目な顔で猫を見た。
「帝国の正式ルートより、猫さんの非公式のコネクションの方が早い場面、たまにあるし」
「……ワシに話を振るなら、対価の話が先じゃぞ」
猫は、尻尾の先だけをゆらりと揺らした。
「や、やめてくださいよ! 女神様の市民権を仲介コネクションと対価でやり取りしないでください!!」
「や、やめてください!!!」
エミリーは、パニックを起こして両手を振り回し、本気の悲鳴を上げた。
「せっかく! せっかく良い話で、人類の愛が勝って、女神様と分かり合えた感動的な結末だったのに!! なんでいきなり、海底遺跡ごと宇宙船で吸い上げるみたいな話と、商談が同時進行するんですか!? 絶対にやめてください! 沖縄の海を壊さないでください!!」
「えー、でも帝国の法律は絶対だしなあ。……どうしよっか」
ティアナは、エミリーの必死の抗議を軽く受け流しながら、ニヤニヤと楽しそうに笑っていた。
「対価次第では、ワシが一番穏便な手順を考えてやっても良いがのう」
猫が、涼しい顔で言い添えた。
「だから商談はやめてください!!」
観測ラウンジには、エミリーの絶叫と、KAMIの呆れ声、ティアナの無責任な笑い声、そして賢者・猫の澄ました商談トークが交錯し、平和で、しかし極めて不穏な騒騒しさが戻っていた。
だが、彼らの背後。
巨大なスクリーンの向こう側の地球では。
与那国の海底に鎮座する龍宮の扉が、そんな宇宙の高みからの無責任な雑談など意に介さないかのように、ただ静かに、そして深く、青白い光を脈打たせ続けていた。
人類にとっての奇跡の夜は、サイト・アオの上位存在たちにとっては、新たな、そしてとてつもなく厄介な法務・回収案件の始まりに過ぎなかった。
良い話だった。人類の愛は、確かにシステムを動かした。
だが、良い話で終わるには……あの海底の知性は、宇宙の基準から見ても、あまりにも高価で、そして美しすぎたのだ。
扉は開いた。
その先にあるのは、人類の進化か、それとも宇宙の法による強制的な収用か。
あるいは、猫の商談が一番早い解決策になるのか。
静かな海の底で、次なる巨大な歯車が、音もなく回り始めていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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