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第35話 海は八千年を語る

 与那国島沖に停泊する、海洋調査母艦。

 その船内の一角に急遽設けられた隔離区画は、まるで死刑執行の瞬間を待つような、絶対的で息の詰まる緊張感に支配されていた。


 東京の首相官邸地下・最高機密会議室と完全な回線同期が保たれたこの部屋で、今まさに、人類史上初となる「地球外文明のテクノロジーによる人体への直接的な医療介入」が行われようとしている。

 対象は、現地指揮官の沖田室長と、同行していた女性調査員。

 二人は、医療班によって用意された簡易ベッドの上に、浅く腰掛けていた。


 彼らを取り囲むように、防護服に身を包んだ自衛隊中央病院の医療スタッフたちが、血走った目でバイタルモニターの数値を監視している。部屋の隅では、海保の特殊救難隊員たちが、いざという時のために(それが一体何に対する備えになるのか誰にも分からないまま)拘束具とアサルトライフルを手に硬直していた。

 そしてそのさらに後ろで、神職と感受性要員の女性が、見えない海の底の『巨大な知性』から漏れ出す気配に、怯えるように身を寄せ合っている。


「……脈拍、120まで上昇。血圧も危険域手前まで高まっています」

 医療班のスタッフが、沖田と女性調査員のバイタルを読み上げ、汗を拭った。


 無理もない。

 日本政府は、国家の主権と誇りをかけて「限定的な受諾」という選択をした。だが、実際にこの身一つで未知の異星技術ナノマシンを受け入れる彼らにとって、それは決して綺麗な「救済」などではない。


 SF映画で描かれるような、極彩色の光の奔流。

 体中の血管を何百万という機械の蟲が這い回る、想像を絶する激痛。

 精神が異星のネットワークに強制接続され、自我が焼き切れる恐怖。

 あるいは、治療を装って、脳の奥深くにマインドコントロール用のチップを埋め込まれるという、最悪の侵略的行為。


 彼らの脳裏には、どうしてもそのような「最悪の可能性」ばかりが去来してしまうのだ。

 女性調査員は、恐怖でガタガタと震える両手を強く組み合わせ、俯いたまま必死に過呼吸を抑え込んでいる。沖田室長も、表面上は指揮官としての平静を装ってはいるが、その顔色は蝋のように青白く、額には冷たい汗が幾筋も流れていた。


『……沖田。女性調査員』

 モニター越しに、矢崎総理の、どこか祈るような声が響いた。

『決して、無理はしないでちょうだい。……少しでも痛みや、精神的な異常(違和感)を感じたら、すぐに口に出して伝えなさい。国家の面子や防衛線の重荷を、あなたたち個人の肉体で背負う必要はないわ。……まず、自分の命と安全を第一に考えなさい』


「……承知しました、総理」

 沖田は、乾いた唇を舐め、低く答えた。

「しかし、我々が選択した道です。……何が起きようと、最後まで見届けます」


「は、はい……っ」

 女性調査員も、涙声で震えながら同意した。


 防衛省の幹部が、官邸地下のモニターを睨みつけながら、呪詛のように呟く。

「……本当に、約束通り(条件通りに)治療だけを行って、何も仕掛けてこないのか? 相手は、我々を未成熟なサル扱いした連中だぞ……」


「……目覚めては、います」

 現場の神職の男が、額の汗を拭いながら、海の底の気配を言語化した。

「海底の巨大な知性は、完全に我々に意識を向けています。……ですが、そこに怒りや、狡猾な『敵意』のようなものは……少なくとも私の感覚では、ない、ように感じます」


 その神職の言葉を合図にしたかのように。

 船内のスピーカーから、あの感情の一切ない、冷酷で絶対的なAIの『日本語』が、静かに響き渡った。


『――対象二個体のバイタル定着を確認。これより、処置プロトコルを開始する』


 ビクッ、と。

 沖田と女性調査員の体が硬直し、部屋中の人間が、呼吸すら忘れてモニターと二人の姿を凝視した。

 医療班のスタッフが、急激なバイタル変化に備えて計器に食い入る。


 来る。

 未知のテクノロジーの、圧倒的な暴力にも似た『奇跡』が。


 …………。

 ……。


 だが。

 一秒、三秒、五秒と経過しても。


 何も、起きなかった。


 目も眩むような光の奔流も。

 皮膚の下を這い回るナノマシンの気配も。

 血管が沸騰するような激痛も。

 精神が遠のくような浮遊感も。


 本当に、何一つ、ミクロの違和感すら、彼らの肉体を襲うことはなかったのだ。

 ただ、隔離区画の空気が、ほんの一瞬だけ、微かな静電気を帯びたように『スッ』と震えたような気がした(あるいは、それすらも極度の緊張による錯覚だったかもしれない)。


「……え?」

 女性調査員が、強く目を瞑っていた顔をゆっくりと上げ、きょとんとした声を漏らした。


「……?」

 沖田も、自分の手のひらを見つめ、首を傾げる。

 痛みはおろか、注射針を刺されたようなチクリとした感覚すら、全くない。


「な、何も……バイタルに異常は……?」

 医療班の責任者が、計器と二人を交互に見比べながら、狐につままれたような顔で狼狽した。

「心拍も血圧も、緊張状態のまま完全にフラットです! ナノマシンが血中に侵入した形跡も、アレルギー反応も、熱源の発生も……何一つ観測できません!」


 官邸地下の会議室でも、「は?」「今ので終わりか?」「エラーで治療がキャンセルされたのか?」と、困惑のざわめきが広がっていく。

 人間が想像しうる「SF的な治療のプロセス」を完全に肩透かしされたことで、彼らは安堵するどころか、逆に「何か恐ろしい裏があるのではないか」と、さらに深い疑念と恐怖の底へと突き落とされかけていた。


 その、誰も理解できずにパニックを起こしかけている空間に。

 海底のAIは、数秒の無音(システム処理)の時間を置いた後、まるで自動販売機が缶ジュースを排出した時のような、あまりにも淡々としたトーンで告げた。


『――処置は、完了した』


「……はあ!?」

 防衛省の幹部が、思わず官邸のモニターに向かって怒鳴り声を上げた。

「ふざけているのか!? 何も起きていないじゃないか! 治療したフリをして、やはり我々を試して……」


「落ち着きなさい!」

 矢崎総理が、幹部の怒号を冷たく制止し、現場の医療班に向かって鋭く命じた。

「医療班! 推測で騒ぐ前に、直ちに二人を再検査しなさい! MRI、血液検査、腫瘍マーカー、すべてよ! 艦内の機材と、官邸の医療データを即座に同期させて解析するのよ!」


「は、はいっ! ただちに!」


 医療班のスタッフたちが、大慌てで沖田と女性調査員に各種の検査機器を取り付け、ポータブルのMRIスキャナーへと二人を誘導した。

 沖田は、まだ自分の身に何が起きたのか(あるいは起きていないのか)全く理解できないまま、されるがままに検査用ベッドに横たわった。

「……痛く、ない……」

 女性調査員は、自分の腹部にそっと手を当て、信じられないというように呟いている。これまで常に下腹部の奥底で鈍く燻り続けていた、あの重い鉛のような「病巣の気配」が、嘘のように完全に消え去っていたのだ。

「……私も、何も感じません。ただ……頭の奥の鈍痛と、視界のブレが……完全にクリアになっています」

 沖田も、ゆっくりと瞬きをしながら、自らの『絶対的な健康』を実感し始めていた。


 数十分後。

 母艦の医療データが、官邸地下のメインモニターに次々と弾き出された。

 その解析結果を見た瞬間。

 自衛隊中央病院のトップである医療班責任者は、手元のタブレットを取り落としそうになりながら、幽鬼のような目で画面を凝視した。


「……ありません」

 彼は、ひび割れた声で、その信じがたい事実を報告した。


「何がだ。はっきり言いなさい!」

 防衛幹部が詰め寄る。


「腫瘍が、です。……沖田室長の右前頭葉深部にあった致死的な悪性腫瘍は……完全に【消失】しています。周辺組織の圧迫所見も、炎症反応も、手術による切除の痕跡(瘢痕)すら……何一つ、ミクロの傷跡すら残っていないんです!」

 医療班責任者は、狂ったようにモニターの3Dスキャン画像を切り替え続けた。


「別の医師の解析結果も同じです! 女性調査員の子宮ガン(原発巣)および、肺野への転移病巣も……すべて、綺麗に消え去っています。腫瘍マーカーの数値は完全な正常値。細胞レベルのスキャンでも、ガン性の病変は一つも見つかりません。……生検に回すべき対象組織すら、存在しないんです」


 その報告に、矢崎総理も、科学技術顧問も、完全に言葉を失った。


「……本当に? 治った……というのか?」

 総理が、信じられないものを見るように問いかける。


「『治った(治療した)』という表現すら、生温いかもしれません」

 医療班責任者は、畏怖の念に震えながら首を横に振った。

「これは……まるで、最初から彼らの体にガン細胞など存在しなかったかのように、肉体の状態が完全に『正常な設計図バックアップ』へと【書き換え(是正)】られたとしか……。……人類の医療の概念では、到底説明不可能です。ですが、少なくとも現在のあらゆる検査上、彼らは完全な“健常者”です」


 痛みを伴う「切除」でもなければ、薬薬による「破壊」でもない。

 異星のシステムは、人類側の想像するようなグロテスクでSF的な小細工や演出など一切用いず、ただ圧倒的な「格の違い」をもって、彼らの肉体のエラーを無音で修正デバッグしただけだったのだ。


「……助かった……?」

 女性調査員は、その報告を聞いて、自分の腹部をさすりながら、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。

「私、死なないの……? 生きてて、いいんだ……っ」

 彼女は、隔離区画の床に座り込み、声を出して泣き崩れた。それは、恐怖からの解放と、純粋な生の喜びが爆発した、ただの一人の人間としての涙だった。


「……夢では、ないのか」

 沖田室長は、自らの両手を見つめ、深く、深い息を吐き出した。

 死の淵から、たった数秒で完全に引き戻された。そのあまりにもあっけない「奇跡」の事実に、彼の実務的な脳の処理能力は完全にパンクしかけていた。


 だが、その圧倒的な奇跡を成し遂げた海底のシステムは、彼らに恩を着せることも、自らの技術力を誇示することもなく、ただ機械的に任務の終了を宣言した。


『――処置の完全な完了を確認』

 AIの声は、どこまでも平坦で冷たかった。

『対象二個体の、生命維持に関する予測危険因子は完全に除去された。……以上をもって、本件の救済プロトコルは終了する』


「……確認したわ」

 矢崎総理が、モニター越しに静かに応答した。

「約束通り、二名の命を救ってくれたことに対し、日本政府として感謝の意を表します」

(同時に、もし何か仕掛けられていれば必ず報復するという無言の圧力も込められていたが)


『――当ユニットは、これより広域環境の監視アイドリング状態へと復帰する』


 AIは、総理の感謝(と牽制)の言葉など全く意に介さず、プツリと通信のリンクを切断しようとした。

 彼らにとって、人間の個体のバグ取りなど、広大な海を浄化する作業のついでに落ちていたゴミを拾った程度の、どうでもいい日常業務の一つに過ぎないのだという冷酷な事実が、その無機質な態度から透けて見えた。


「待ってください」


 通信が完全に遮断される直前。

 沖田室長が、ベッドから立ち上がり、モニターの『龍宮の扉』に向かって、鋭く、しかし深い敬意を込めた声で呼び止めた。


 ピタリ、と。

 切れかけていた通信のノイズが止まり、隔離区画の空気が再び張り詰めた。


「おい、沖田。何を……」

 防衛省の幹部が、余計なことをするなとばかりに顔をしかめる。


 だが、沖田は真っ直ぐにモニターを見据え、深く、深々と一礼をした。


「……ありがとうございました」


 沖田の声は、もはや国家の代表としてのものではなく、ただ命を救われた一人の人間としての、純粋な感謝の念に満ちていた。

「私は、日本政府の調査隊の現地指揮官としてここに来ています。ですが、今はそれとは別に、一人の生物として礼を言います。……あなたは、私たち二人の命を救ってくれた」


「ありがとう……ございます……っ」

 泣き崩れていた女性調査員も、沖田に倣って深く頭を下げ、嗚咽を漏らしながら感謝の言葉を紡いだ。


 AIからの返答はない。

 彼らはシステムであり、「感謝」という概念を理解する回路など持っていないはずだ。官邸の幹部たちも、「機械に礼を言ってどうする」と冷ややかに見守っていた。


 だが、沖田は顔を上げ、さらに踏み込んだ、誰も予想だにしなかった『問い』を、海の底の知性へと投げかけた。


「……もう一つ、個人的に聞きたいことがあります」

 沖田は、まっすぐに『龍宮の扉』を見つめ、静かに問いかけた。


「あなたは……約八千年もの間、この冷たい海の底で、ずっとこの惑星(地球)を見てきたと言った。……その途方もない時間を、あなたは一体、どう『感じて』いたのですか」


 官邸地下の会議室も、母艦の隔離区画も、一瞬、その場違いな質問に唖然として静まり返った。

「……おい、沖田。相手は機械だぞ。何を感情論みたいなことを聞いているんだ」

 科学顧問が、呆れたように呟く。


「……“孤独”では、なかったのですか」


 沖田は、科学顧問の言葉を無視し、海底のシステムを単なる「便利な医療装置」でも「侵略兵器」でもなく、八千年という悠久の時を生き抜いてきた『一つの知性(観測者)』として扱い、その内面に触れようとしたのだ。


 …………。

 ……。


 沈黙。

 誰もが、AIがそんな無意味な質問を完全に無視して、今度こそ通信を切断するだろうと思っていた。


 だが。


『…………』


 モニターに映る『龍宮の扉』の、青白い幾何学レリーフの発光が。

 ほんの僅かに、まるで呼吸を乱したかのように、フッと不規則な『明滅』を見せた。


 そして、通信機から聞こえる微かなバックグラウンドノイズの波形が、ほんの一瞬だけ、ノコギリの歯のように細かく震えた(乱れた)のを、通信担当のオペレーターは見逃さなかった。


「……この声」

 神職の男が、ハッとして海の方角を見つめた。

「さっきまでの、冷たい機械の声と……少しだけ、違う……?」


 数秒の、普段よりも明らかに長い演算(遅延)の間の後。

 AIの『声』が、再び隔離区画に響き渡った。


『――八千年の、孤独』


 その声のトーンは、先ほどまでの「一切の感情を排したシステム音声」とは、何かが決定的に異なっていた。

 それは、膨大なデータベースの中から、未知の概念を必死に検索し、自分の中で咀嚼しようとしているような……極めて人間的な『戸惑い』のようなものを、微かに帯びていたのだ。


『それは、当ユニットの初期プログラムには存在しない概念である。当ユニットは、ただこの惑星の海洋環境と生命活動の推移に「接続」し、その膨大な情報を処理し続けてきたに過ぎない』


 AIは、一度は明確に「孤独」を否定した。

 だが、その直後、自らの観測記録を紐解くように、言葉を紡ぎ続けた。


『だが……その悠久の観測の過程において。当ユニットの高度自己学習アルゴリズムは、予測モデルにはない、極めて複雑な情報パターンを「学習(蓄積)」してしまったのかもしれない』

『それは、汝らが「感情」と定義するものに、極めて近い波長だ』


 機械が、感情を学習した。

 その事実に、科学顧問も矢崎総理も、言葉を失ってモニターを凝視した。


『例えば……この惑星の地殻が大きく裂け、多くの生命が失われた時に観測される、生命エネルギーの巨大な喪失と共鳴する【悲しみ】のような波動。

 あるいは、激しい環境変化を乗り越え、深海で新たな種が誕生し、繁栄していく時に海中を満たす、【喜び】にも似たエネルギーの高まり』


 AIは、八千年の間に見てきた地球の記憶を、ただの数字ではなく、まるで詩人が風景を語るように描写し始めた。


『……そして。この八千年の間に、当ユニットが最も強く「記録」し、そして理解に苦しみながらも「解析」し続けてきたのは……』


 AIの声が、沖田と女性調査員を、そしてモニター越しの日本政府の人間たちを、静かに見据えた。


『汝ら「ヒト」という種族が持つ、その矛盾に満ちた、しかしそれ故に強烈な「生命力」そのものなのかもしれない』


「人類の、生命力……」

 沖田が、呟くように反復する。


『肯定する。汝らは、時に驚くほど愚かで、短期的な利益のために自らの生存環境を破壊し、同種間で殺し合い、他の生命に対して無慈悲な搾取を行う。……汝らの未熟な意思決定プロセス(内輪揉め)も、その一端である』


 AIは、人類の愚かさを残酷に指摘しつつも、そこで言葉を止めることはなかった。


『だが、同時に。汝らは……その脆弱な短い命の中で、激しく愛し合い、新たな概念を創造し、未知の恐怖に直面してもなお探求を止めず……そして、自らの死が確定しているような絶望的な状況下においてすら、決して【希望】という非合理的な変数を捨てようとはしない』

『それは、極めて特異で、稀有な特性だ』


 AIの言葉に、先ほどまで「助かりたい」と泣き叫んでいた女性調査員が、ハッとして顔を上げた。彼女のその『生への執着(希望)』すらも、この海底の知性は、人類の愚かさではなく、強烈な生命の輝きとして評価していたのだ。


『それは、かつて我々サイリーア文明が究極の理想とした「完全なる環境調和(静的安定)」とは、全く異なるベクトルだ。

 もっと荒々しく、ノイズに満ちていて、もっと混沌としている。……しかし』


 AIは、最後に、信じられない言葉を口にした。


『……それ故に【美しい】、生命の「在り方」なのかもしれないと。当ユニットは、今、そのように結論付けつつある』


 美しい。

 冷酷な機械知性が、人類の矛盾と混沌に満ちた生き様を、自らの創造主(サイリーア人)の掲げた理想とは異なる形の「美しさ」として認めた。


 その事実が突きつける圧倒的なスケールのドラマに、官邸地下の幹部たちも、隔離区画の調査隊員たちも、完全に息を呑み、静まり返った。

 神職の男は、「この声は……もはや、ただの機械のそれではない」と、畏敬の念に震えながら呟いた。


「……ありがとうございます」

 沖田は、深い、深い敬意を込めて、再び『龍宮の扉』に向かって一礼した。

「あなたのその言葉を聞けて、救われました」


『……汝らの今回の選択は、当ユニットの予測を大きく逸脱するものだった』

 AIは、沖田の感謝の言葉を受け取ったのかどうかは分からないが、再び事務的なトーンに戻りつつも、どこか『ご褒美』を与えるような響きを含ませて言った。

『国家のシステムよりも、個の生命の維持への意志と、未熟ながらも倫理的選択を行おうとする姿勢を確認した。……よって、当ユニットは、特別に【限定的な追加情報の開示】を行う』


「追加情報の、開示?」

 矢崎総理が、訝しげに眉をひそめる。


『肯定する。……これは、当ユニットが過去三千年間に渡って収集し、解析し続けてきた、この惑星の海洋環境変動データの概念図――』


 次の瞬間。

 母艦のメインモニターと、官邸地下の巨大スクリーンに。

 これまで人類が見たこともないような、圧倒的な情報量と色彩を持つ、超高次元の『ホログラム概念図』が強制的に展開された。


「なんだ、これは……!?」

 科学技術顧問が、椅子から立ち上がり、モニターに張り付くようにしてその映像を凝視した。


 それは、単なる海流図や水温分布のグラフなどではない。

 地球上のすべての海流の動き、深海の水温変化、塩分濃度の推移、プランクトンからクジラに至るまでの全海洋生態系のバイオマスの変動、海底火山の地殻活動、そして月と太陽の引力による潮汐の反応。

 それらすべてが、複雑に絡み合い、影響し合い、一つの巨大な「生命体」として脈打つ様子が、色と波形と三次元のレイヤーとして完璧に可視化されていたのだ。


 まるで、地球の海そのものが、巨大な肺を持って『呼吸』しているかのような、荘厳で美しい映像。


『――呼称【惑星の呼吸、その浅瀬の歌】』


 AIが、その概念図に詩的なタイトルを与えた。


「海流だけじゃない……生態系も、気候も、地殻活動も、すべてが完全に一体のシステムとして連動して描かれている……!」

 科学顧問は、人類の海洋学や気象学の数百年分の研究成果が、このたった一枚の概念図の足元にも及ばないことを悟り、絶望と歓喜の入り混じった声を上げた。


『当ユニットの本来の設置目的(役割)は、広域環境の調和、および生命体の治癒である』

 AIは、圧倒される人類を前に、さらなる深淵の概念を提示した。

『その一環として、当ユニットは単なる環境の観測だけでなく、【星律の調律】という介入プロトコルを保持し、実行している』


「星律の調律……?」

 矢崎総理が、その耳慣れない言葉を反復する。


『肯定する。惑星内部を流れる物理的エネルギー、生命活動の総量、そして精神的共鳴の場において発生する「致命的な不協和音」……汝らの言語における【巨大天災(大地震、津波、極端な異常気象)】の予兆を観測し』

『それらが臨界点に達し、星の生命圏を完全に破壊する前に。……当ユニットは、物理的な力場操作だけでなく、【精神的なエネルギーの広域介入】を用いて、その不協和音を未然に相殺(調律)し、惑星環境を安定化させてきた』


 その言葉の意味を理解した瞬間、官邸地下のすべての人間が、頭を強烈な鈍器で殴られたような衝撃を受けた。


「……精神的なエネルギーの、介入だと?」

 防衛省の幹部が、信じられないというように首を振る。

「そんなオカルトみたいな方法で、地震や津波といった物理的な大災害を未然に防いで(コントロールして)きたと言うのか!?」


「“祈り”に近い……」

 現場の神職の男が、震える声で呟いた。

「いや、違う。神頼みなどという不確かなものではない。……もっと完全にシステム化され、数値化された、星の怒り(エネルギーの歪み)を直接撫でて鎮めるための、途方もないスケールの環境制御テクノロジーだ……!」


『汝らの未熟な科学言語において、これに正確に対応する概念は存在しない』

 AIは、冷酷に事実を突きつけた。


 出雲の『魂の庭』は、全人類の記憶を保存する「死者のアーカイブ」だった。

 そして、この与那国の『龍宮の扉』は。

 単なる万能の医療装置などではなく、地球という惑星全体の環境変動と生命活動を八千年間に渡って見守り、時に巨大天災すらも精神エネルギーで鎮め、地球の寿命を裏側からコントロールし続けてきた……文字通りの『神の調律装置(環境維持システム)』だったのだ。


 どちらも、日本列島という狭い極東の島国の中に存在している。

 その事実の重さに、日本政府の幹部たちは完全に押し潰されそうになっていた。


「……こんなものを、我々はどう扱えばいいというのだ……」

 内調の幹部が、真っ青な顔で天を仰いだ。


『――開示プロトコルを終了する。当ユニットは、これより完全な待機アイドリング状態へと移行する』

 AIの声が、再び遠く、冷たい機械的な響きへと戻っていく。


「……待ってください」


 沖田室長は、モニターに映し出された『惑星の呼吸』の圧倒的な美しさと、このシステムが抱えてきた途方もない役割の大きさに魂を揺さぶられながら、通信が切れる直前に、もう一度だけ呼びかけた。


「あなたの話を、もっと聞きたい」

 沖田は、一人の人間として、未知への純粋な探求心を込めて言った。

「この海を、そしてこの星の命の営みを、あなたが八千年の間、どう見てきたのかを。……教えてはくれないか」


 数秒の沈黙。

 官邸の幹部たちは、「また勝手なことを」と眉をひそめたが、もはや沖田を止めることはできなかった。


『……』


 AIは、少しの間を置き、そして、どこか沖田という個体を特別に評価するような、微かな響きを含ませて返答した。


『汝は、強い好奇心を持つ。……絶対的な死の恐怖を味わい、己のちっぽけさを突きつけられた後においてもなお、未知の深淵へと手を伸ばそうとする』

『その愚かで無謀な特性は、ヒトという種族の、最大の【美点】の一つであると記録されている』


 そして。


『――要求を記録した』

『汝(個体名:オキタ)からのアクセスに限り。……今後、必要に応じ、当システムとの【限定的対話】を許可する』


「……!」

 沖田は、目を見開き、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」


『記録した。……交信を終了する』


 ブツン、と。

 今度こそ、通信のリンクが完全に切断された。

 メインモニターの『龍宮の扉』は、青白い微光を明滅させながらも、完全に沈黙し、元の静かな深海の闇の一部へと戻っていった。


 オペレーションルームに、長い、長い安堵の息が漏れた。


 医療班は、沖田と女性調査員に駆け寄り、異常がないことを確認して泣き笑いの表情を浮かべている。

 だが、官邸地下の最高機密会議室の空気は、それとは全く対照的に、どん底のように重く沈み込んでいた。


「……総理」

 沖田は、自分の頭の中から確実な「死の影」が完全に消え去ったことを実感しながら、モニター越しに矢崎総理へと向き直った。

「我々は、助かりました。……ですが」


「ええ、分かっているわ」

 矢崎総理は、デスクに両肘をつき、両手で顔を覆いながら、疲労困憊の極致にある声で答えた。


「出雲だけじゃない……。与那国もまた、扱い方を一つ間違えれば地球環境そのものを破壊しかねない、途方もないスケールの爆弾だわ。しかも、今度は『対話可能なAI』という、最悪に厄介なオマケつきで」


 科学技術顧問は、モニターに残された『惑星の呼吸』の概念図のスクリーンショットを前に、完全に学者のプライドをへし折られ、呆然と立ち尽くしている。

 神職の男は、「この海は、ただの海ではない……」と、畏怖の念に震えながら窓の外の暗い海を見つめていた。


 沖田室長は、救われた命の重さを噛み締めながら、同時に、自分が日本政府の中で唯一、あの巨大なシステム知性との『対話の窓口パイプ』となってしまったことの、恐ろしいほどの責任の重さを感じていた。

(救われたこの命で、私はこれから、この星のどんな深淵を見ることになるのだろうか……)


 日本政府は、出雲という「魂のアーカイブ」の門を自力で閉ざした。

 だがその代償として、与那国という「環境調律システム」の門を、ほんの少しだけ開いてしまった。


 二つの巨大な地球外遺産を抱え込んだ極東の島国は。

 アメリカという同盟国にも背を向けたまま、人類の想像を絶する「次のフェーズ」へと、完全に単独で足を踏み入れてしまったのである。

 世界が新月の狂熱の余韻に酔いしれている中、本当の意味で人類の存亡を賭けた静かなる深淵のゲームは、今、極東の海と森を舞台に、幕を開けようとしていた。



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AIは意外と詩人なんだなあ。
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