第25話 笑っていられるうちに、海へ行け
新月の儀式が終わり、ヨーロッパの空から狂気のオーロラが姿を消して数日。
日本政府の中枢である首相官邸は、世界的なパニックが収束したことによる安堵に包まれるどころか、全く別の、そして極めて厄介な「国内問題」による新たな頭痛に苛まれていた。
「……最悪ね」
矢崎総理は、執務室のデスクに広げられた朝刊の束と、タブレットに表示されたニュースサイトの見出しを忌々しげに睨みつけ、深く重い溜息をついた。
『出雲だけがオーロラの影響を免れた? ネットで広まる「神の盾」説』
『西の狂気を弾き返した日本の聖地。スピリチュアル界隈、次なる巡礼地を出雲へ』
『専門家も首を傾げる統計の空白。島根県東部の不思議なデータ』
ヨーロッパの精神干渉波が、なぜか出雲周辺の山域でだけ完全に減衰していたという事実。日本政府が最高機密として厳重に管理していたはずのその特異なデータは、どこから漏れたのか(あるいは、民間のビッグデータ解析によって自然に炙り出されたのか)、すでにネットのオカルト層から一般のワイドショーにまで、面白おかしく消費される「コンテンツ」へと成り下がっていた。
ヨーロッパの地獄が終わったと思ったら、今度は国内の不可侵の神域が、無知な大衆による「観光地」や「パワースポット」として消費されようとしているのだ。
現地への不審な人流は、まだ微増の段階ではあるが、確実に起き始めている。もし、スピリチュアルな高揚感に当てられた一般人が、あの『魂の庭』の結界に不用意に触れでもすれば、何が起きるか分からない。
「……セレスティアル・ウォッチの連中が見向きもしなかった禁忌の箱を、うちの国民が自撮り棒片手にこじ開けようとしているわけね。笑えない冗談だわ」
矢崎総理は、眉間を強く揉み込みながら、内線電話のボタンを叩いた。
***
首相官邸地下。既存技術外事象評価セル。
矢崎総理が重厚な扉を開けて入室すると、部屋の空気は、先日の「出雲の深淵」を覗き込んでしまった時のような極度の緊張感からは少しだけ解放され、疲労と、ある種の『弛緩』が入り混じった独特の温度に包まれていた。
「総理」
実務責任者である沖田室長が、コーヒーカップを片手に立ち上がった。
「表の騒ぎは知っているわね。出雲の監視体制の強化はどうなっているの?」
総理は、挨拶もそこそこに本題を切り出した。
「はい。島根県警と公安を動かし、対象の山域へと通じるすべての林道および獣道に、物理的な封鎖線と24時間体制の検問を敷きました。表向きは『大規模な地盤緩みの調査および立ち入り禁止措置』としています。……ドローンによる空撮も、電波法と航空法を盾に厳しく取り締まっています」
沖田室長は、タブレットの監視マップを示しながら答えた。
「現時点では、結界の数十メートル手前で完全にシャットアウトできています。……誰も、あの領域には指一本触れさせていません」
「結構よ」
矢崎総理は、深く頷き、そして非常に重苦しい声で自身の判断を口にした。
「出雲は、言うなれば『いつ爆発するか分からない、信管の壊れた核兵器』みたいなものよ。あるいは、人類の致死量を超える毒が詰まった金庫。……正直、今の私たちは、あそこには一番触りたくないの」
その言葉に、科学技術顧問も、部屋の隅でパイプ椅子に座っている三神編集長も、無言で同意を示した。
ヨーロッパの空を覆ったあの狂気すら、出雲のシステムに比べれば「浅い」ものだったのだ。セレスティアル・ウォッチのオーバーテクノロジーをもってしても門前で引き返したその深淵に、今の日本政府が単独で手を出せば、国家ごと消滅しかねない。
「使わない、触りすぎない、でも決して見失わない(監視は続ける)。出雲は、当面はその絶対方針で凍結します」
沖田室長が、総理の意図を正確に反復した。
「ええ。出雲は完全に閉じるわ」
矢崎総理は、デスクの上に両手を置き、評価セルのメンバーたちを見回した。
「……そのうえで。次に、こちらから能動的に『動ける(探索できる)』対象は、残っているの?」
出雲という最大の特異点を封印した以上、この既存技術外事象評価セルが、ただネットの監視をするだけの部署に成り下がるわけにはいかない。人類の常識を覆すような超常事象は、まだこの日本周辺に存在しているはずなのだから。
その総理の問いに対し、沖田室長は、あらかじめ用意していた一枚のファイルを取り出し、メインモニターに表示させた。
そこに映し出されたのは、沖縄県のさらに南西の果て。台湾のすぐ目と鼻の先にある絶海の孤島周辺の、海底地形図だった。
「……与那国島、ですか」
科学技術顧問が、その地名を見て、少しだけ拍子抜けしたような声を出した。
「ええ。与那国島沖の『海底遺跡』と呼ばれる特異地形です」
沖田室長は、海底に沈む、まるで人工のピラミッドや階段のように見える巨大な岩の構造物の写真を展開した。
「ここですか……。確かにオカルトや古代史のミステリー界隈では有名な場所ですが」
科学顧問は、腕を組みながら苦笑した。
「現段階の表の学術界では、あれは岩盤が波の浸食や地殻変動によって偶然『階段状に割れた』だけの、完全な『自然地形(人工構造物ではない)』とする説が極めて有力です。観光ダイビングのスポットとしては優秀ですが、国家の極秘機関が血眼になって調査するような、超常の遺跡とは到底思えませんがね」
科学顧問のその反応は、この部屋にいる多くの官僚や分析官たちの『一般感覚』を正確に代弁するものだった。
ヨーロッパの空を覆った宇宙の曼荼羅。
そして、出雲の森の奥深くに鎮座する、記憶エネルギーの海と別次元の扉。
それらの圧倒的な「本物の神秘」を立て続けに見せつけられてきた彼らにとって、与那国島の海底遺跡は、いくらなんでもスケールダウンしすぎているように感じられたのだ。所詮は「太古の人間が石を削ったかもしれない(あるいはただの偶然の産物)」というレベルの、笑って済ませられる都市伝説の域を出ていない。
「……正直、私もそう思います」
若手分析官の一人が、少し気を抜いたような、へらりとした笑いを浮かべて言った。
「出雲の『鳴動の淵』はガチ(本物)のバケモノでしたが……いくらなんでも、与那国は与那国ですからね。ただのデカい石の塊でしょ。海底観光の延長みたいなもんじゃないですか」
「ええ。もし仮にあれが本当に古代の遺跡だったとしても、せいぜい考古学の歴史の教科書が数ページ書き換わる程度の話です」
内調の事務官も、肩をすくめて同調する。
「セレスティアル・ウォッチの連中が欲しがるような、超光速航法の理論とか、別次元のエネルギーが眠っているような『ヤバい場所』とは、ちょっと毛色が違いますよ。……さすがに与那国は、何も起きませんよ」
その弛緩した空気に押されるように、別の若手スタッフが、沖田室長が提出した調査隊の編成案を見て、目を丸くした。
「……ちょっと室長。この編成案、本気ですか?」
若手スタッフは、その大仰なリストを指差した。
「海洋調査船と深海探査艇の手配は分かりますが……地質・構造解析の専門家チームに加えて、自衛隊の医療班、海上保安庁の特殊救難隊(警備・救助班)、さらには神職や霊的な感受性の強い要員まで。……おまけに、この評価セルの直轄メンバーの半分以上を現地に投入するって? いくらなんでも、戦力過剰すぎません?」
「そうですよ。ただのダイビング調査に、このセルを少人数残してみんなで大挙して押し寄せる意味があるんですか? 出張費の無駄遣いだと財務省に突っ込まれますよ」
部屋の中に、「まあ海底遺跡でしょ」「何も起きないよ」という、オカルトを上から目線で笑う、極めて平和で楽観的な空気が充満していく。
それは、彼らがこの数週間、あまりにも強烈な非日常に晒され続けた結果、無意識のうちに脳が「これ以上はもう何もない(安全だ)」と思いたがる、正常性バイアスの発露でもあった。
だが。
その生温い、そして死亡フラグに満ちた軽口の連鎖を。
「……その言い方、やめなさい」
矢崎総理の、氷のように冷たく、そして鋭利な刃物のような低い声が、一刀両断に切り捨てた。
ピタリ、と。
会議室の空気が、一瞬にして凍りついた。
へらへらと笑っていた若手分析官も、苦笑していた科学顧問も、背筋に冷水を浴びせられたように表情を引き締め、直立不動の姿勢をとった。
「あなたたち、一体何を見てきたの」
矢崎総理は、ゆっくりと席から立ち上がり、部屋のメンバー一人一人を、射抜くような視線で睨み据えた。彼女は怒鳴ってはいない。しかし、その静かな怒りは、どんな大声よりも重く、彼らの臓腑を直接締め付けた。
「……『出雲は本物だったが、与那国は与那国だから何も起きない』? 『ただの都市伝説だ』?」
総理は、吐き捨てるように彼らの言葉を反復した。
「思い出しなさい。出雲の『鳴動の淵』だって、ついこの前までは、ただの地方の『神話』であり、古臭い『伝承』であり、あなたたちが鼻で笑っていた『禁足地』に過ぎなかったでしょう!?」
その強烈な事実の突きつけに、誰も言葉を返すことができなかった。
「神話だの、オカルトだの、都市伝説だの……そうやって未知のものを自分たちの安い常識の枠に当てはめて笑っていた結果、私たちは今、どうなっているの? ヨーロッパの空が歌い、世界中の人間が発狂し、出雲の地下には人類を終わらせるかもしれない別次元のアーカイブが眠っているという、悪夢のような現実の真っ只中に放り出されているのよ!」
総理は、デスクを両手で強く叩き、彼らのたるみきった脳髄に、国家のトップとしての絶対の危機感を叩き込んだ。
「“与那国島ですからね”で済ませていいなら……そもそも、こんな地下深くにあなたたちを集めた『既存技術外事象評価セル』なんていう組織は、最初からいらないのよ!!」
会議室は、水を打ったような静寂に包まれた。
事務官も分析官も、自分たちがどれほど愚かで、致命的な「油断」を口にしていたかを悟り、顔を真っ青にして俯いた。
「……総理の仰る通りだ」
その重い沈黙を破り、沖田室長が、毅然とした声で総理の言葉を引き継いだ。
「我々は今、『何もないかもしれない前提』で未知を放置できるような、平和な時代には生きていないのです」
沖田室長は、メインモニターの与那国の海底地形図を、鋭い視線で睨みつけた。
「確かに現時点では、あれはただの自然の岩の塊かもしれません。……ですが、“かもしれない”のまま、あれを放置しておくことは、国家の安全保障上、もはや許容できる段階ではないのです。……もし万が一、あれがアポロンの矢や星円盤に匹敵する、本物の古代のアーティファクト、あるいは異星の施設の残骸だったとしたら?」
「……」
「その時、我々が『都市伝説だと思って油断して、少人数の調査隊しか送っていませんでした』では、済まされないのです」
沖田室長は、言葉に力を込めた。
「何も起きないかもしれない。ええ、その通りです。我々も、何もないただの岩であってほしいと心から願っている。……でも、もし何か起きた時に、“少人数で十分だと思っていたので、対処不能になり全員死にました(あるいは取り返しのつかない事態になりました)”では、話にならないのです。だからこそ、今のうちに、我々の方から本気で踏み込み、白黒を完全につけておく必要がある」
「今さら、オカルトを笑って済ませられる段階じゃないでしょう」
部屋の隅で、三神編集長が、静かに、しかし深い凄みを込めて一言乗せた。
「笑ったまま死なないための準備をするのが、あなた方……今の政府の仕事ですよ」
その三神の言葉が、官僚たちの胸に最後の一撃として突き刺さった。
「……申し訳ありませんでした、総理」
科学技術顧問が、深く頭を下げ、自らの甘さを完全に撤回した。
「私の認識が甘かった。出雲の深淵を見た後で、まだ地球上の未知を『自然現象』という常識の定規で測ろうとしていた……。私の科学者としての驕りです」
科学顧問は、沖田室長が作成した過剰とも思える編成リストを見つめ直した。
「……分かりました。今回は、“空振りでも構わない(ただの岩の塊で笑い話になってもいい)”という大前提で、むしろ過剰なくらいのフルスペックの編成で行くべきですね」
「ええ。海底という極限環境である以上、ただでさえ環境リスクは最高レベルです。もしそこが未知の構造物であったなら、なおさらです」
沖田室長は、大きく頷き、実務的な配置の調整に入った。
「この評価セルの完全な火は消しません。最低限のデータ分析要員と、国内のSNS監視(出雲やヨーロッパの残響の監視)要員は、この地下に残します。……ですが、実動部隊の主力は、すべて海へ送ります」
出雲の監視を継続しつつ、主力は未知の海底へと向かう。
日本政府としては、極めて異例で負担の大きい「二正面体制」の構築だった。
「沖田室長。セルの主力部隊の指揮は、あなたが執りなさい」
矢崎総理が、最終的な決断を下した。
「はっ。全責任を持って遂行します」
「いいこと、全員よく聞きなさい」
矢崎総理は、海へ向かうことを命じられた若手分析官たち、そして沖田室長に向けて、為政者としての、そして一人の人間としての、重い祈りと覚悟を込めて言った。
「これは、南の島への観光ダイビングでもなければ、ロマンを追う学術ツアーでもない。……日本という国家が、これまでの常識をすべて捨て去り、本物の『未知』に対して、初めて正式に踏み込む軍事作戦に等しい調査よ」
総理の灰色の瞳が、悲壮な決意で光った。
「何があっても、生きて帰ることを最優先にしなさい。無駄死には決して許さない。……それでも、もしそこが本当に、私たちの想像を超える領域であったなら」
総理は、言葉を切った。
「死地へ行く覚悟で、行きなさい」
その一言で、会議室に充満していた「まあ何も起きないだろう」という生温い楽観論は、跡形もなく消し飛んだ。
残ったのは、ただ強烈な死亡フラグと、それを乗り越えるための冷酷なまでの覚悟だけだった。
「ただちに作戦準備に入ります!」
沖田室長の号令と共に、評価セルは一気に「戦場」の熱を帯びた。
巨大なメインモニターには、詳細な海底地形図と海図が広げられ、与那国島沖の該当ポイントが、血のように赤くマーキングされる。
機材の搬入リストの作成、海上自衛隊および海上保安庁との潜水支援母艦の調整、深海探査ドローンのセッティング。さらに、精神干渉への対策として、神職や極度に霊的な感受性の強い要員の選抜も急ピッチで進められていく。
ヨーロッパの空は静かになった。
出雲の深淵は、触れることの許されない爆弾として、重い蓋を閉じられた。
そして今、日本という国家が次に向かうのは、太陽の光すら届かない、暗く冷たい海の底だった。
何もないかもしれない海へ、何かあった時のために、考え得る限りの大軍勢で踏み込む。
それは決して臆病さや過剰反応ではない。彼らがヨーロッパの狂気と出雲の沈黙から、ようやく血を流す思いで学んだ『未知に対する正しい恐怖と礼儀』だった。
笑っていられるうちに、海へ行け。
そうしなければ、次はもう、恐怖で声を上げる暇もなく、海に飲み込まれることになるのだから。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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