第26話 海へ行く前から、もう何かがいる
防衛省が管轄する、都内の極秘ブリーフィングルーム。
与那国島沖・海底遺跡の第一時本調査隊の出発を翌朝に控えたその夜、窓のない重苦しい会議室の空気は、まるで最前線へ向かう直前の部隊指令所のように張り詰めていた。
円卓を囲むのは、今回の調査のために各省庁から強引に引き抜かれたエリートたちだ。
海洋研究開発機構(JAMSTEC)の地質・構造解析班。海上保安庁の特殊救難隊から選抜された潜水・警備班。自衛隊中央病院の医療班。そして、神職や霊的な感受性の強い要員といった「非科学的」な専門家たちまで。
これまでの日本の縦割り行政では絶対にあり得ない、完全に異質の混成部隊。
彼らの表情に、南国の海へ向かうというような浮ついた色は一切ない。つい数日前まで「与那国なんてただの観光名所でしょ」「何も起きませんよ」とへらへら笑っていた既存技術外事象評価セルの若手分析官たちも、今は完全に顔から血の気を失せさせ、無言で分厚い作戦要項のページをめくっている。
矢崎総理が発した「死地へ行く覚悟で行きなさい」という言葉が、呪いのように彼らの心臓を締め付けているのだ。
「……装備の最終確認は以上だ」
現地指揮官を務める沖田室長が、モニターのリストを消去し、静かに、しかしよく通る声で全体を見回した。
「繰り返す。今回の我々の作戦目標は、与那国島沖の特異地形(海底遺跡)における、物理的・環境的・霊的な多角データの収集だ。……事前の予測通り、あそこには『何もない』可能性も十分にある。ただの自然の岩の塊で、我々のこの大仰な準備が、すべて空振りと笑い話に終わるかもしれない」
沖田は、そこで言葉を切り、最も恐ろしい事実を口にした。
「だが、我々は“何もない前提”では、絶対に動かない。……ヨーロッパの空が歌い、出雲の森の奥深くに別次元のアーカイブが眠っていたこの狂った世界において、『ここには何もないはずだ』という常識や正常性バイアスは、命を落とす最悪のトリガーになる」
全員がごくりと唾を飲み、沖田の言葉に耳を傾ける。
「ダイブ(潜航)中の異常感知、通信途絶、精神的負荷の増大……いかなる些細なイレギュラーであっても、現場の判断で即時作戦を中断し、全員退避を許可する。……調査の完遂よりも、一人も欠けずに『生きて帰ること』を最優先とせよ。以上だ」
沖田の訓示が終わると同時、ブリーフィングルームのメインモニターが切り替わり、官邸にいる矢崎総理の顔が大きく映し出された。
『出発前の諸君。夜遅くにご苦労様』
総理の声は、通信越しであっても、その場にいる全員の背筋を正させるほどの静かな威厳に満ちていた。
『私からの言葉は一つだけよ。……何もなければ、それでいい。笑い話で終われば、それが一番の成果だわ。でも、もしあそこに“何か”があった時に、準備不足を言い訳にして「見なかったことにした(見過ごした)国」には、絶対にならないでちょうだい』
総理は、画面越しに沖田室長と、調査隊のメンバーたちを真っ直ぐに見据えた。
『出雲の教訓を忘れないことね。判断に迷ったら、躊躇なく撤退しなさい。何か起きれば、私がすべての責任を持って即時判断を下すわ。……必ず、生きて帰ってきなさい』
その重い最終訓示を胸に刻み、調査隊は翌朝、夜明け前の暗いうちに厚木基地から自衛隊の輸送機に乗り込み、沖縄県のさらに南西の果て、国境の島・与那国へと飛び立った。
***
数時間後。
輸送機から小型のチャーター機、そしてフェリーを乗り継ぎ、調査隊の主力メンバーたちが与那国島の港に降り立った時。
彼らを迎えたのは、抜けるような青空と、エメラルドグリーンに輝く美しい海、そして頬を撫でる心地よい南国の潮風だった。
「……あれ?」
防護服や多数の機材ケースを抱え、極限の緊張感でタラップを降りてきた若手分析官が、拍子抜けしたような声を漏らした。
港では、地元の漁師たちがのんびりと網を繕い、ダイビングショップの送迎車が観光客を乗せて走り去っていく。商店の軒先では、おばあさんたちが日陰で談笑している。
それは、絵に描いたような、どこにでもある平和な「南の島の日常」の風景だった。
出雲の『鳴動の淵』に近づいた時に肌を刺した、あの重苦しく、呼吸すら苦しくなるような「拒絶の空気」や「異界の気配」は、ここには微塵も感じられない。
「本当に……出雲と違って、普通ですね……」
若手分析官は、重い機材ケースを下ろし、思わず大きく深呼吸をした。
「少しビビりすぎてたかもしれません。これなら、案外ただの地形調査で終わるんじゃ……」
「油断するな」
沖田室長が、すかさず鋭く釘を刺した。
「海はね、陸よりも『隠す』のが上手いんですよ」
その沖田の言葉を補足するように、一行の最後尾を歩いていた三神編集長が、よれよれのスーツのポケットに手を突っ込んだまま、眩しそうに青い海を見つめて言った。
「ええ。それに……海っていうのは、陸地よりも先に“向こう側”と繋がることがあるんです。……表面が穏やかだからといって、底が浅いとは限らない」
三神のその不穏な一言に、若手分析官はスッと表情を引き締め、再び機材ケースの取っ手を強く握り直した。
「まずは、陸上での情報収集から入る」
沖田室長は、港に待機させていた偽装のワンボックスカーにメンバーを押し込みながら、最初の指示を出した。
「海に潜る前に、まずはこの『土地の声』を拾う。……地元で長く海を見ている漁師、ダイビング関係者、そして古老や神職筋に繋がる人物を中心に、あの海底遺跡周辺の“普段とは違う顔”について洗い出せ」
***
調査隊は数班に分かれ、与那国島の集落や港周辺で、極秘裏に聞き取り調査を開始した。
表向きは「海洋地質調査のための事前環境調査」という名目である。
最初は、「あそこはただの珍しい岩だよ」「潮の流れが速いから気をつけてな」といった、一般的なダイビングスポットとしての情報しか集まらなかった。科学班のメンバーたちも、「やはり自然地形の域を出ないのでは」という見方を強めかけていた。
しかし、聞き取りの対象を「観光」から「地元の古い伝承」や「長年海に出ているベテラン漁師」へと絞り込んでいくにつれて、集まる情報の『質』が、徐々に、そして不気味な方向へと変容し始めたのである。
『昔から、あの遺跡の上の海域だけは……妙に“静か”になる時があるんだよ。波も風もあるのに、近づくとフッと「音が吸われる」みたいな感じがしてな。あまり長居したくない場所さ』
(六十代・地元漁師)
『ダイバーたちは面白がって潜るけど、地元の年寄りの中には、あそこを指差すことすら嫌がる人もいるね。「海神様の寝床」だとか言ってさ。……あんまり、大きな音は立てない方がいいよ』
(五十代・ダイビングショップ経営者)
そして。
島の郷土史と民間伝承に詳しいという、ある盲目の古老のもとを訪れた時。
その老婆は、沖田室長と三神編集長の顔を見るなり(目は見えないはずなのに)、まるで彼らが『何を探しに来たか』を完全に見透かしたような、深く皺の刻まれた顔で、静かにこう言ったのだ。
「……あそこは、ただの昔の人が作った遺跡なんかじゃないさ」
古老は、海の方向を指差した。
「古い言葉で言うなら……あそこは、『ニライカナイへの門』だよ」
ニライカナイへの門。
そのキーワードが飛び出した瞬間、聞き取りを行っていた小さな座敷の空気が、ピタリと止まった。
「……ニライカナイ」
三神編集長が、その言葉をゆっくりと舌の上で転がし、確認するように補足した。
「沖縄や奄美の民間信仰に伝わる、海の彼方、あるいは海の底にあるとされる『理想郷(他界)』……。豊穣や生命の源であると同時に、死者の魂が還る場所、あるいは神々が住まう『異界』そのものを示す概念、ですね」
「出雲の『黄泉の国』とは系統が違いますが、同じく強烈な『境界(向こう側とこちら側を隔てるもの)』の伝承の匂いがします」
沖田室長も、手元のメモ帳を閉じ、極めて真剣な顔で三神を見た。
ただの観光の目玉としての『海底遺跡』という認識が、明確に『異界への扉』というオカルトの、しかし今の彼らにとっては極めて現実的な脅威の領域へと、足を踏み入れた瞬間だった。
***
古老からの聞き取りを終え、沖田室長と三神編集長、そして数名のスタッフが、島の高台にある展望台――眼下に広大な東シナ海と、海底遺跡のある方角を一望できる岬――へと向かった。
そこには、先行して環境データの測定を行っていた科学班と、今回の調査のために同行を要請された二人の特別な専門家が待機していた。
一人は、出雲の特異点調査でも中心的な役割を果たした、古神道の深い知識と経験を持つ『神職代表』の初老の男。
もう一人は、神道という体系化された枠組みに縛られず、より原始的で直感的な霊的感知能力を持つ『感受性要員』の若い女性(民俗系シャーマンの血を引く者)だった。
まだ、誰も海には潜っていない。
海底遺跡のポイントまでは、ここから直線距離でも数キロは離れている。
風景は相変わらず美しく、空も海も青い。
しかし。
展望台に到着した沖田たちが最初に目にしたのは、手すりにしがみつき、真っ青な顔をしてガタガタと震えている『感受性要員』の女性と、額に玉の汗を浮かべ、険しい顔で海を睨みつけている『神職代表』の姿だった。
「……どうした」
沖田室長が、只事ではない二人の様子に、思わず駆け寄る。
「室長……」
神職代表の男が、振り返ることなく、絞り出すような声で言った。
「ここ……『境界』が、薄すぎます」
「境界が薄い?」
「はい。港や集落にいた時は気づきませんでしたが……この高台に立って、海へ意識を向けた瞬間、肌の表面をピリピリと撫でられるような感覚がありました。……潮の匂いと波の音の奥に、完全に『別の層』が張り付いている。……出雲の森の入り口で感じたものと、とてもよく似ています。いや、もっと……」
神職の男の言葉を遮るように、感受性要員の女性が、手すりを握りしめたまま、ひゅっと息を飲んで悲鳴のような声を上げた。
「……います」
彼女は、虚ろな、しかし確信に満ちた目で、眼下の海の一点を……ただの一点だけを、凝視していた。
「海の底の、あの方向です……っ」
彼女が震える指で示したのは、島全体ではない。
エメラルドグリーンの海面の下に、巨大な岩の構造物が眠るポイント――『海底遺跡』の方角にだけ、異常なまでの感知反応を示していたのだ。
「人影か、霊的な気配か、それとも何らかの物理的な現象か。どれだ」
沖田室長は、最前線の指揮官として、彼女の抽象的な恐怖を具体的な「情報」へと還元しようと問い詰めた。
「分かりません……」
女性は、首を激しく横に振った。
「形はないんです。でも、圧倒的な『重さ』が、あそこだけ違う。……あそこにだけ、間違いなく“何か”が存在しているのは分かります……。そして、下から、ずっと……ずっと『見上げられている(観測されている)』ような気がするんです……っ!」
まだ、海には入っていない。
数百メートル、いや数キロ離れた陸地から海を見下ろしているだけだ。
それなのに、あの出雲の深淵に触れた時と同じか、それ以上の強烈な「感知反応」が、すでに彼らの精神を激しくノックしている。
若手分析官たちは、その異常な空気に完全に顔を引き攣らせ、「何も起きませんよ」と笑っていた昨日の自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られていた。
「……出雲の時と比べて、どうだ」
沖田は、さらに踏み込んで尋ねた。
神職代表の男が、深く息を吐き出し、自らの霊的なアンテナを極限まで研ぎ澄ませて、あの海の底の気配を言語化しようと試みた。
「……違います」
男の言葉は、確信に満ちていた。
「出雲の『鳴動の淵』は……無数の気配が積層し、ドロドロに溶け合った、底なしの『魂の海』のような重さでした。……ですが、こちらは違います」
男は、海を見つめたまま、恐怖に顔を歪めた。
「こちらは、もっと……『一つ』にまとまっています。バラバラの魂の集まりじゃない。強烈なまでに純化された、巨大な『単体』としての意志を感じるんです」
無数の魂の海ではなく、単一の巨大な意志。
その本質的な『違い』が提示された瞬間、展望台の空気は完全に凍りついた。
「……大きな、太陽みたいな魂です」
感受性要員の女性が、両腕を抱え込み、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、その正体を最も恐ろしい言葉で表現した。
「出雲が大量の魂の集積だとしたら……こっちの海の底にいるのは、それに負けないくらい……同等、いえ、それ以上の質量を持った……途方もなく巨大な、たった一つの『知性体』です……!」
巨大な、太陽のような、単一の知性。
そのスケールの大きさに、科学班のメンバーたちも、ついに顔を見合わせて絶句した。
地球上の自然現象や、単なるオカルトの怨霊などというレベルの話ではない。それはまるで、神話の時代から海の底に沈座している「神」そのものの表現だった。
「……太陽、ですか」
三神編集長が、これまでの飄々とした態度を完全に消し去り、底冷えのするような真顔で海を見つめた。
出雲のシステムが「死者の記憶のアーカイブ」であるならば、この与那国の海の底にいる、一つの巨大な太陽のような知性とは一体何なのか。
アカイア人か、それとも全く別の、地球外のシステム管理者か。
「しかも……」
感受性要員の女性は、さらに致命的な情報を付け加えた。
「動いては、いません。暴れてもいないし、私たちに直接攻撃を仕掛けてきているわけでもないんです。……でも、います」
彼女は、まるで深淵に吸い込まれそうな瞳で、海の底を凝視した。
「海の底で……とてつもなく巨大な者が、『眠って』います……」
眠っている。
その言葉が意味する恐怖に、全員の背筋に冷たい汗が流れた。
暴れていない。だからこそ、余計に恐ろしいのだ。
「……起きていない(休眠状態である)ことが、我々にとっての救いなのか」
神職代表の男が、苦渋に満ちた声で呻いた。
「それとも、起きていないからこそ、我々のような人間が不用意に近づいて『起こしてしまう(刺激してしまう)』ことが、絶対に許されない最悪の禁忌なのか……現時点では、判断がつきません」
まだ、誰も海には潜っていない。
足元はコンクリートの展望台であり、空には太陽が輝いている。
にもかかわらず、彼らはすでに、出雲の深淵に匹敵するか、あるいはそれ以上の「絶対的な未知の脅威」に、完全に包囲されていることを実感させられていた。
「……室長」
若手分析官が、ひび割れた声で沖田を呼んだ。
「これ、本当に行っていいんですか? 出雲と同等のバケモノが……しかも『眠ってる』ところに、わざわざこちらから近づいていくなんて……!」
沖田室長は、動揺する部下たちを前にして、鋭く、そして重い息を吐き出した。
現場指揮官として、彼の心の中にも「今すぐ全隊を撤収させたい」という強烈な防衛本能が鳴り響いている。
だが、矢崎総理の「見なかったことにした国にはならないで」という言葉が、彼を現実に繋ぎ止めていた。
「……まだ、誰も潜ってはいない。我々が得たのは、あくまで感覚的な『気配』と『伝承』のレベルに過ぎない」
沖田は、自らの恐怖を強靭な意志でねじ伏せ、現場を統率する冷徹な指揮官の顔を作った。
「だからこそ、ここから先は、一つずつ、慎重に事実を確認していく。……全隊に通達! 許可なき対象水域への勝手な接近、および潜水準備作業を一切禁止する! 調査隊は全員、予定を前倒しで『最高レベルの危機手順』へと移行しろ!」
沖田の号令が、展望台に響き渡る。
「……まずは、無人探査機(ROV)による外殻の形状把握と、ソナーによる環境データの取得から入る。人間が潜るかどうかは、そのデータの『異常度』を見てから私が決める!」
「了解!」
夕暮れが迫る中。
与那国島の海は、オレンジ色の光を反射して、どこまでも静かに、そして美しく波打っていた。
調査隊のメンバーたちは、その美しい海面の下に、巨大な『何か』が眠っていることを肌で感じながら、無言で機材のセッティングを急いでいる。
出雲は、数多の魂が積層する海だった。
与那国は、巨大な太陽のような単一知性が眠る海。
まだ誰も、海の底を見ていない。なのに、彼らはすでに、海の底から『見られている』。
引き返したくなる理由だけは、十分すぎるほど揃っていた。
行って、本当にいいのか。
その重すぎる問いが、誰も口にしないまま、与那国調査隊全員の最初の『本音』として、波音の中に深く沈み込んでいった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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