第24話 綺麗に成功したのが、いちばん面倒
大気圏外、高度四百キロメートル。
超弩級ステルス宇宙ステーション〈サイト・アオ〉のラウンジは、地球上の熱狂的な騒乱が嘘のように、相変わらず無機質で静謐な空気に満たされていた。
世界の表面を覆っていた紫と緑の狂騒は、つい先ほどの「新月」の夜を境に、急速に波を引き、今は見せかけの平穏を取り戻している。
だが、この空間に漂っているのは「任務完了」の安堵感ではなく、どちらかと言えば「面倒な後処理が残った」というような、微かな弛緩と倦怠感だった。
広大な部屋の中央、人間工学の極致とも言える特大の形状記憶ビーズソファに、ティアナ・レグリアが深く体を沈めていた。
銀河帝国最高権力者のクローン・スペアである彼は、現在、地球製の少しジャンクな味のするスナック菓子を口に放り込みながら、空中に展開された無数のホログラム・ディスプレイを退屈そうに眺めている。そこには、地球上の精神汚染の減衰率や、各国のインフラ復旧状況を示すデータが次々と流れていた。
ラウンジには今夜、いつもより少し、人口密度が高かった。
カウンターでは、ゴスロリ姿の少女――KAMIが、地球の南米産という触れ込みの見慣れない形をしたチョコレート菓子を、丁寧に包み紙から取り出しているところだった。
別次元の高位存在でありながら、今や〈サイト・アオ〉の厄介な常連客と化した彼女は、地球上の菓子類に対して並外れた執着を持っており、エミリーが補充するたびに珍しいものから順に平らげていく。
その隣には。
「……工数と歩留まりで考えると、今回のヘルメス協会の儀式は、かなりコスパの悪いオペレーションでしたな」
コーヒーカップを両手で持ち、くたびれたスーツの前ボタンを一つ外した中年男性が、ぼそりと呟いた。
工藤創一。並行世界の銀河帝国「日本国」の工場長として、縁あってこのステーションに客分として滞在している人物だ。彼は現在、自分が今いる場所の非常識さにもある程度慣れ、極めて実務的な視点で地球上のニュースを眺めるという、不思議な立ち位置に落ち着いていた。
そして。
ソファのひじ掛けの上に、ちょこんと座っているのが一匹の黒猫だった。
夜の闇を凝縮したような艶やかな毛並みと、人の心を見透かすような翠色の瞳を持つ、美しい黒猫。
賢者・猫、と呼ばれている。
次元の間隙を渡り歩き、各地で何やら商売じみたことをしながら、気まぐれに立ち寄っては長居する、KAMIと同類の「上位存在」だ。ただしKAMIよりは、多少、常識というものが通じる。
「いやー、それにしても……空、綺麗だったねえ」
ティアナは、パリの上空で曼荼羅のように展開したオーロラの録画映像を指先で弾きながら、呑気に呟いた。
「古代のミノア人たちも、もしかしたら『宇宙の真理』とか小難しいこと抜きにして、ただあのお祭りみたいな空の演出を見るために、わざわざ儀式してた説あるんじゃない?」
「……その感想、地球人類の目線からすると、だいぶ最低の部類に入りますよ、代表」
部屋の隅のコンソールで、まだ抜けきらない緊張感と共に各種の事後レポートをまとめているエミリー・カーター研究員が、冷ややかな視線を送った。
「あれのせいで、地球上の何百万という人間が不眠と幻聴に苦しみ、救急車すら呼べない地獄を見たんですから。お祭りどころじゃありません」
「でも、分かるわよ。イベントの確定演出としては、かなり『神ゲー』寄りの豪華さだったでしょ」
KAMIが、チョコレート菓子を一口かじりながら薄く笑った。
「あの極彩色の空から、一瞬で雲が晴れて銀河が広がるカットシーン。あれはプレイヤーの没入感を強制的にカンストさせる、かなり秀逸なレベルデザインね。……運営側としては、高評価をつけてあげたいわ」
「あなたまで、その不謹慎なノリに乗っからないでください!」
エミリーが、頭を抱えながら抗議する。
「世界が滅びかけたかもしれないんですよ!? 神ゲーとか、レベルデザインとか……そういう次元の話じゃないんです!」
そんなエミリーの必死のツッコミを、ティアナとKAMIは「あはは」と軽く受け流す。彼ら上位存在にとって、地球という惑星の危機は、あくまで観察対象のイベントの一つに過ぎない。この圧倒的な温度差こそが、サイト・アオの日常であった。
「まあ、MMORPGで言えばそういう設計なのは確かね」
KAMIが、包み紙の中の菓子を改めて観察しながら続けた。
「このお菓子、何の形? 変な動物みたいだけど」
「ラマです。南米のキャラクター菓子です。今それどうでもいいです」
エミリーが疲れ果てた声で答えた。
「ゲーム用語、そちらもお使いになるんですね」
ひじ掛けの上の賢者・猫が、翠の目をすっと細めた。
「あら、ワシも使うぞ」
猫は、前足でぺろりと顔を拭いながら、当然とばかりに言った。
「チュートリアルの設計思想として、あれは完成度が高い。初心者を即死させずにレベリングルートへ乗せる構造は、地球のゲームの作りとよく似ておる」
「なんで猫なのに、そんなに詳しいんですか!?」
エミリーが、思わず叫んだ。
「……」
賢者・猫は、翠の瞳でエミリーを一瞥し、特に表情を変えることなく工藤の方を向いた。
「工藤よ。今回のアカイア人の文明導入キット、歩留まりとしてはどう見る」
「完全にスルーされました……!」
「歩留まりとしては、かなり優秀だと思いますね」
工藤は、エミリーの悲鳴をまるで聞こえていないかのように、コーヒーを一口飲んで答えた。
「十二人投入して、ゼロ件のクラッシュ。不良品なし。初回ロットとしては及第点どころか、かなり丁寧な仕事です」
「そうじゃな」
猫は、しゅっぽりと前足を折りたたんだ。
「ただし、今後の量産を見込んだ設計かどうかは別の話よ。あの円盤、使い続けるほど深層の問題が出てくる構造になっておる。……耐久テストを最初期ロットだけで終わらせると、後になって痛い目を見る」
「あー、それ製造業でよくある失敗パターンです」
工藤が、腕を組んで頷いた。
「初期ロットは設計者が丁寧に作るから品質が高い。でも量産段階で仕様が歪んで、後期ロットで一気に問題が噴き出す」
「まさにそれじゃ」
「……あの、お二人は、お知り合いなんですか?」
エミリーが、二人の会話のテンポに少し面食らって口を挟んだ。
「まあな」
工藤が、特に説明せずに短く答えた。
「猫さんは商人だからな」
ティアナが、菓子を口に放り込みながらあっさり言った。
「いろんな世界に顔が広い。工藤さんみたいな実務の人間とは、話が合いやすいんだよ」
「商人だから詳しい、という話で全部片付けないでください!」
エミリーが声を上げた。
「MMORPG、製造業の歩留まり、チュートリアル設計……猫なのに、なんでそんなにジャンル横断で詳しいんですか!?」
「……」
賢者・猫は、再びエミリーを一瞥した。
そして、極めて自然に、翠の瞳をXT-378の方へと向けた。
「XT-378よ。出雲の精神場のデータ、もう少し詳しく出せるか」
「了解しました」
「完全に無視された……! 二回目ですよ今!」
エミリーが、机に突っ伏した。
「エミリー研究員、質問への回答は期待しない方が生産性が高いと思われます」
XT-378が、事務的にフォローした。
「それ、フォローになってないですよね!?」
「猫さんに詳細を聞くのは、だいたい徒労に終わるから」
KAMIが、ラマ形のチョコレートをもう一口かじって楽しそうに笑った。
「でも、言ってることの中身は大体正しいから、私はそれでいいと思ってる」
「なにそれ……!」
「うむ、KAMIの言う通りじゃ」
賢者・猫は、満足げに喉を鳴らした。グルグルという低い音が、ラウンジに妙に馴染んだ。
「……代表、KAMI殿。地球の言語表現を用いた遊戯的な会話はそこまでとし、本題の事後評価へ移行します」
流体金属のボディを持つ副官、XT-378が、微かな駆動音すら立てずにティアナの傍らに進み出た。彼の無機質な光学センサーが、ホログラムのデータを再構成していく。
「まず、地球上の客観的な事実の整理を行います」
XT-378の声は、一切の感情を排した事務的なトーンだった。
「第一に、ヘルメス協会の新月儀式は、物理的な崩壊を伴うことなく『成功』しました。祭壇の『ミノスの星円盤』は、予定通り十二人の主要メンバーの脳内へ、アカイア人の知識パッケージのダウンロードを完了。
第二に、儀式完了に伴うシステムのアイドリング終了により、広域への無差別なエネルギー漏出は急速に減衰。現在、世界的なパニックとインフラの麻痺は終息に向かっています。
第三に、ヘルメス協会の主要メンバー十二人は、脳の破裂や精神崩壊を免れ、全員が生存。……結論として、この事象は『成功裡に完了した』と判定されます。ただし、それが地球人類にとって『状況の好転』を意味するものではない、という点においてのみ、事態は極めて悪化しています」
「うん、そうだね」
ティアナは、スナック菓子を飲み込み、ソファの上で軽く伸びをした。
「僕の総評としても、今回は『かなり綺麗に成功したな』って感じ。……正直、もっと派手に祭壇ごと吹き飛んで自滅するか、受信側の人間たちの脳みそが情報量に耐えきれなくてショートして、全員揃って廃人になるかと思ってたんだけど。思ったより、ずっと丁寧で安全なシステムだったよ」
「……だから、"綺麗に成功した"っていう言い方、やめてもらえませんか?」
エミリーが、バンッと机を叩いて立ち上がった。
「あの大富豪や天才学者たちの頭の中が、宇宙の哲学だかアカイア人の危険思想だかで完全に上書きされちゃった時点で、全然綺麗じゃありません! 彼らはもう、今までの人間じゃないんですよ!?」
「いや、システム的には文句なしに『綺麗』よ、エミリー」
KAMIが、菓子の包み紙をていねいに畳みながら、エミリーの怒りを横から宥めるように言った。
「だって、地球の低スペックな脳髄に、あんな高次元の概念を無理やり流し込んで、一人もクラッシュさせずに初回のチュートリアルを通し切ったんだから。……あの星円盤のシステムを設計したアカイア人のエンジニアは、かなり優秀でユーザーフレンドリーだって認めてあげるべきでしょ」
「だから! 地球の危機をチュートリアルとかゲーム用語で語らないでください!!」
エミリーの悲鳴のようなツッコミが、空しくラウンジに響き渡った。
「まあまあ、エミリーも落ち着いて。……で、今回の儀式を観察してて、僕の想定外が大きく二つあったんだよね」
ティアナは、エミリーの怒りを宥めるように手をヒラヒラと振り、ホログラムの空中に指先で『1』という数字を描いた。
「想定外、その一。……あの星円盤から流れ込んだ情報、ただの技術データの投げつけじゃなかった」
ティアナは、少しだけ真面目な声のトーンに落とした。
「彼らが受け取ったのは、超光速航法の理論とか、星間通信の設計図という、ただの使い方マニュアルだけじゃない。……ちゃんと、『統合された宇宙観』という、精神と物質、科学と哲学が一つの法則で繋がっているという世界の見方まで、セットで入ってたんだよね」
その言葉の意味を補足するように、ホログラムとして同席していた科学部門責任者のザーラ・クォルム博士が、静かな声で口を開いた。
「代表の仰る通りです。……アカイア人のような精神文明のテクノロジーは、技術だけをポンと渡しても、低次な精神性の種族には絶対に理解も制御もできません。だからこそ、彼らはあの星円盤を『文明導入用の教材』として、自分たちの宇宙観まで不可分に一体化させたパッケージとして設計したのでしょう。……これは、教育プログラムとして非常に完成度が高いと言えます」
「……それって」
エミリーが、青ざめた顔でザーラを見た。
「教育っていうか、かなり強固な思想誘導ですよね? 人の価値観を根本から作り変える洗脳システムじゃないですか」
「ええ。高度なテクノロジーにおける教育と、強制的な思想誘導の境界線は、極めて曖昧です」
ザーラは、無慈悲な事実をあっさりと肯定した。
「技術を扱うための『正しい精神状態』へ、使用者を強制的に連れて行く。それが、あのシステムの真の設計思想です」
「まさに、初期職業の選択と、チュートリアルでの思想教育が完全に一体化してるMMORPGの序盤の作りと同じね」
KAMIが、楽しそうに指を鳴らした。
「『この魔法を使うには、まず自然を愛する心を学びましょう』って、システム側から強制的にプレイヤーの倫理観を縛ってくるやつ。あれの、文明レベルの壮大なバージョンってわけよ」
「あなたの比喩は、だいたい聞いている側の危機感を薄れさせるのに、内容の恐ろしさは最悪の部類なんですよ……!」
エミリーは、もはやツッコミの気力すら削られかけていた。
「で、次。想定外、その二」
ティアナは、空中に『2』の数字を描き足した。
「あのパッケージに含まれてたアカイア人の『毒(自滅思想)』が、僕が思っていたよりも、ずっと薄かったこと」
その言葉に、ラウンジが一瞬、静まり返った。
エミリーが、すぐに鋭く反応する。
「……"薄かった"で済ませないでください。現に、あの十二人のメンバーは、地上の富や権力を『泥遊び』だと見下して、完全に価値観がズレてしまってるじゃないですか! 自分たちを神に選ばれた存在だと思い込んでいるんですよ!?」
「ズレてるよ。完全に人間やめてる」
ティアナは、あっさりと認めた。
「でもさ、僕はもっとこう、情報のダウンロードが終わった瞬間に『肉体なんて不要だ! さあ皆で集団自殺して宇宙の塵になろう!』って、直で精神を破壊してくるような、極端で致死的な毒が入ってると思ってたんだよね。……でも、実際はそうじゃなかった。彼らは生きてるし、自分たちなりに世界を『調和』に導こうっていう、妙な使命感すら持ってる。……かなり安全装置が効いた、親切な作りになってたんだよ」
「高度なエネルギー制御の知識は、彼らの精神状態と密接にリンクして組み込まれていました」
ザーラが、再び技術的な側面から解説を加える。
「適性がない者には技術の全容が開示されず、暴走しにくい形で制限がかけられている。……つまり、未知の文明に対して、自らの技術を安全に手渡すための親切さが、あの星円盤には明確に備わっていたということです」
「いきなり高難度のエンドコンテンツのビルドを渡して、処理落ちで即死させるような仕様じゃなかったってことね」
KAMIが、つまらなそうに肩をすくめた。
「ちゃんと初心者保護モードがついてたのよ。過保護なゲーム設計ね」
「保護モードで、星間通信と超光速航法の理論が入ってくる初心者なんて、地球の常識じゃ絶対にあり得ないんですけど!」
エミリーが叫ぶ。
「まあ、銀河の基準だと、辺境の未開種族を啓蒙する時のスターターキットとしては、よくあるパッケージなんだけどね」
ティアナは、スナック菓子の袋を傾けて残りを口に流し込みながら、軽く言った。
「でも、どうしてそんなに毒が薄かったんですか?」
エミリーは、根本的な疑問を口にした。
「アカイア人って、精神の調和を極めすぎて、最終的に食事も生殖も放棄して自滅した、イカれた極端な種族なんですよね? なのに、なぜ彼らが遺したアーティファクトが、こんなにマイルドで教育的なんですか?」
「理由はおそらく、時代の差です」
ザーラが、ホログラムの古代史年表を展開しながら、理路整然と答えた。
「あのミノスの星円盤が地球のミノア文明に授与されたとされる紀元前二千年紀……当時のアカイア文明は、まだ彼ら自身の歴史においても、完全な物質否定や、緩やかな集団自殺のような極端な終末傾倒へは進んでいなかったと推測されます。……つまり、今回ヘルメス協会が受け取ったあのパッケージは、アカイア文明がまだ比較的健全な時代に作られた、初期レイヤーの教材だった可能性が高いのです」
ザーラの解説に、ティアナがポンと手を打った。
「なるほどね。後付けの推理だけど、たぶんそれが正解だわ。……ミノア人にあの円盤を渡した頃は、アカイア人たちもまだ『宇宙最高! 調和最高! みんなで仲良く星の海を渡ろうぜ!』くらいの、ポジティブなテンションだったんでしょ。だから、あんなに綺麗で感動的なダウンロード演出が組まれてたんだ」
「……つまり、まだマシな時代に作られた教材だったから、助かったと?」
エミリーが、複雑な表情で確認する。
「はい。……ただし」
ザーラは、その冷徹な光学センサーを微かに瞬かせた。
「彼らが今回アクセスしたのは、あくまでシステムの入り口(第一階層)に過ぎません。あの星円盤のさらに深い層のデータにアクセスすれば……アカイア人が最終的に辿り着いた、本物の自滅の毒が眠っている可能性は十分にあります。……"マシだった"というだけで、決して地球人類にとって安全な代物だとは言っていません」
「要するに、今回は初期のアプデ版だったってことよ」
KAMIが、新しい菓子の袋を引き寄せながら意地悪く笑った。今度は日本の抹茶味らしい何かだ。
「ゲーム終盤の、理不尽なクソナーフと、開発者の思想が暴走した最悪のシナリオが追加される前の、一番綺麗で楽しい時代のデータパックだった。……だから、あのおじさんたちは脳みそを焼かれずに済んだのよ」
その説明で、なぜヘルメス協会が今回、あれほどの無茶をしながら綺麗に成功してしまったのか、そのメカニズムが完全に腑に落ちた。
彼らは、たまたま、一番安全で教育的な「最初の扉」を開けただけなのだ。
「歩留まりとしては優秀でも、後工程のリスクが見えていない設計というのは、製造業でも一番厄介です」
工藤が、腕を組んで言った。
「初回ロットが綺麗に出ると、関係者全員が安心して、深層リスクの評価を後回しにする。……それで後から大事故を起こすパターンを、何度見たか分からない」
「うむ」
賢者・猫が低く頷いた。
「……じゃあ、もう一つの疑問なんですが」
エミリーは、少し安堵しつつも、まだ解けない謎をXT-378に向けた。
「彼らの儀式が終わった途端に、ヨーロッパどころか世界中を覆っていたあの強烈な精神干渉波が、あっという間に消え去りましたよね? あれは、儀式が完了して円盤の電源が切れたから……だけなんですか?」
「それに関して、補足すべき重要なデータがあります」
XT-378は、メインモニターに地球全体の電磁場と精神波長のヒートマップを表示させた。
「新月儀式完了後の、広域精神干渉の急速な減衰。……その波形の減衰速度は、地球上の全域で均一ではありませんでした」
XT-378は、マップ上の極東の島国の一部――日本列島の出雲地方を赤くハイライトした。
「観測データによれば、地球側の特定の強力な精神場が、アカイア人由来の広域ノイズの定着を、地球規模で薄く阻害していた可能性が高いことが判明しました。……それは、出雲の『魂の庭』に由来する干渉減衰帯です」
その言葉に、エミリーが目を見開いた。
「うん、そうみたいなんだよね」
ティアナは、感心したように頷いた。
「僕も後からデータ見て驚いたんだけど。……どうやら、あの『魂の庭』が、結果的に地球全体を薄く包み込む精神防壁みたいになって、アカイア人の洗脳電波が人類の脳みそに完全に根付くのを、少しだけ邪魔してくれてたらしいんだよ」
ティアナのその言葉に、エミリーは少しだけホッとしたように胸を撫で下ろした。
「……じゃあ、あの出雲の隔離施設は、結果的に人類を救うシェルターみたいな役割を果たしてくれたってことですか?」
「うーん、まあ、現象面だけ見ればそうなんだけどさ」
ティアナは、炭酸飲料の缶を指先で弄りながら、すぐにその楽観的な見方を否定した。
「でもね、エミリー。あれ、出雲のシステムが地球を守るために意図して発動させた対外防衛機能とかじゃないからね。ただ単に、結果として相性が良かっただけ」
「相性が良かった?」
「ええ。物理的な質量と同じように、精神の領域にも重さや慣性という概念が存在します」
ザーラ博士が、ホログラムの地球儀に重力場のシミュレーションのようなレイヤーを重ねて解説を始めた。
「出雲の『魂の庭』は、地球上で過去に生きた何百億という人類の記憶と人格を内包する、途方もないスケールの巨大なアーカイブです。その圧倒的な情報質量が、地球圏の精神場に、異様なまでの慣性を与えていた。……だからこそ、アカイア人の星円盤から放たれた広域精神ノイズが、地球の精神場に深く根を下ろし、定着するのを、物理的な重さによって薄く弾き返したのです」
「……つまり、巨大な岩石の横を通り過ぎようとした微風が、岩の重力に引かれて少しだけ軌道を逸らされた、程度の偶発的な副次効果に過ぎないということです」
XT-378が、ザーラの説明を冷酷に要約した。
「出雲のシステムは、決して地球外の干渉から人類を守るために作られた便利な盾ではありません。もし、今回よりも強力な局所接続や、性質の異なる精神干渉が行われた場合、同じように防壁として機能する保証はどこにもありません」
「まあ、たまたま裏で動いてた別イベントの重い処理のせいで、全体即死デバフの付与確率が偶然下がったって感じね」
KAMIが、抹茶菓子を一口かじりながらくすくすと笑った。
「偶然発動した全体耐性バフ。でも、常時発動のパッシブスキルじゃないし、相手の攻撃属性依存だから、決してOPってわけじゃないわ」
「だから、いちいちゲーム用語で世界の危機を語らないでくださいってば!」
エミリーが、机に突っ伏して呻いた。
「副作用で世界が少し守られただけだなんて、全然安心できないじゃないですか……!」
「偶然の産物ですね」
工藤が、腕を組んで呟いた。
「でも、その偶然が今回は幸いした。……逆に言えば、次回以降は同じように機能する保証がない」
「うむ」
賢者・猫が重く頷いた。
「僥倖は計画に組み込めない。次のオペレーションでそれを当てにするのは、愚策というものよ」
「安心なんて、しなくていいんじゃない?」
ティアナは、全く悪びれることなく言い放った。
「むしろ、僕からすれば、今回一番厄介なのは生き残ってしまった後の世界の方なんだけどね。……XT、その辺のデータ出して」
「了解しました」
XT-378の光学センサーが明滅し、メインモニターに世界中のSNSのタイムラインや、医療機関の受診ログ、そして経済指標の膨大なデータが、滝のように流れ始めた。
「現在、地球上に残された事象の残響について報告します」
XT-378は、無機質な声で現状を整理していく。
「社会機能は回復基調にあり、大規模な精神汚染は明確に終息しました。しかし、感受性の高い一部の層には、未だに微弱な残響が観測されています。……物理的には発生していないオーロラの幻視、鈍い頭痛、軽度の不眠などです。彼らは日常生活を送ることは可能ですが、その世界の感受性の基準には、すでに不可逆なズレが生じています」
「まあ、後遺症みたいなもんよね」
KAMIが相槌を打つ。
「しかし、我々が最も警戒すべきは、そのようなネガティブな残響ではありません」
XT-378は、データの一部――極端に高いエンゲージメントを獲得しているビジネスやクリエイター界隈の投稿群――をクローズアップした。
「儀式期間中に、圧倒的な快適さ・思考の冴え・多幸感という強烈な恩恵を経験した層の間に、現在、急速に深刻な喪失感と再渇望が広がっています。彼らは、一度味わったあの万能感を取り戻したいと、無意識、あるいは意識的に強く願っているのです」
モニターには、失われたインスピレーションを嘆く芸術家や、元の凡庸な思考力に戻ってしまったことに絶望する実務家たちの、痛切な叫びが並んでいた。
「スピリチュアル界隈では、この体験が高次元へのアクセス成功例として神格化され、次なる儀式や覚醒を求める動きが加速しています。……人類は、あの異常な波長を恐怖としてではなく、失われた至高の快感として学習してしまったのです」
「……それって」
エミリーは、画面に映る狂気じみた「また光が見たい」という投稿の数々に、背筋が粟立つのを感じた。
「人類ってさ、一回美味しい蜜の味を覚えちゃうと、絶対に忘れない生き物なんだよね」
ティアナは、空になったスナック菓子の袋を丸めて屑籠に投げ捨てた。
「今回の儀式のおかげで、地球上に『精神をブーストしてくれる謎の宇宙エネルギー』に対する、巨大で強固な市場が完全にできちゃったってわけ」
「市場って言わないでください!」
エミリーが、悲痛な声で抗議する。
「スマホのアプリや便利な家電の話じゃないんですよ! 人間の脳と、人生そのものの話です!」
「でも、強烈な需要があるなら、必ずそれを満たそうとする供給が生まれる。それが文明の仕様でしょ?」
KAMIが、薄情なほど的確な真理を突いた。その手には、いつの間にか次の菓子が握られている。今度は北欧のサルミアッキだ。
「ええ。次に類似の現象が起きた時、人類は今回のようなパニックや拒絶反応を示すのではなく、自発的に、そして喜んでその光に飛びつく可能性が極めて高いでしょう」
ザーラ博士が、冷徹な予測でエミリーにトドメを刺した。
「……もう、嫌だ……」
エミリーは、両手で顔を覆った。
「需要と供給の話として整理すると、今後の地球市場は不安定なフェーズに入りましたね」
工藤が、コーヒーをもう一口啜った。
「次に類似のイベントが起きた時、顧客が喜んで飛びつく下地ができてしまっている。……売り手側から見れば、これ以上ない市場開拓の成功です」
「うむ」
賢者・猫が重く頷いた。
「そして、その需要に応えるだけの供給が、向こうには既にある」
「まあまあ、一般人の話はこれくらいにして」
ティアナは、エミリーの絶望など意に介さず、さらに爆弾のような話題を、まるで天気の話でもするかのような軽いノリで投下した。
「あのさ、ヘルメス協会の十二人の儀式メンバー。彼らの今後の話なんだけどさ」
ティアナは、ソファの上で胡座をかき、ニヤニヤと笑いながら言った。
「あいつら、あのままアカイア人の思想と技術の理解を自分たちの中で深化させていったら……そのうち、超能力くらいは普通に使えるようになると思うよ」
ピタリ、と。
ラウンジの空気が、不自然なほど完全に静まり返った。
空調の微かな稼働音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……は?」
顔を覆っていた手をゆっくりと下ろし、エミリーが、幽鬼のような目でティアナを見た。
「いや、だからさ」
ティアナは、全く悪びれることなく、指折り数えて説明を始めた。
「彼らの脳みそには今、高次振動エネルギーの制御理論と、精神共鳴の基礎理論が、完全にパラダイムごとインストールされてるでしょ? それを彼らの肉体と精神が完全に適応させて、日常的に引き出せるように訓練したら……まあ、低級なエスパーセットくらいは普通に生えてくるわな、って話」
ティアナは、さらりと、恐ろしい単語を並べ立てる。
「例えば、他人の思考を薄く読み取る精神感応とか、自分のカリスマ性を波長に乗せて群衆を操る集団同調。他人の認識を少しズラす認識改変の初歩。あとは、自分自身の細胞の振動数を制御して身体能力を引き上げる自己バフとか、飛んでくる銃弾の運動エネルギーを偏向させる簡易バリアとか。……ああ、情報の波を読んで、数秒先の未来を予測するような最適判断もできるようになるかもね」
「うん、まあ、あの十二人が今回のチュートリアルを完走して、さらにレベリングを進めたら……個体スキル欄に、そういうエスパー系のパッシブスキルがズラッと並び始めるわね」
KAMIが、サルミアッキを一口なめながら、ティアナの意見に完全に同意した。
「初期ステータスが高い連中だから、スキルの習得も早そうだし。……まあ、アカイア人の本気のサイキックに比べれば、お遊びみたいな低級スキルだけど」
数秒の、絶対的な空白。
そして。
「ちょっと待ってくださいちょっと待ってください!!」
エミリーが、髪を振り乱しながら、顔を真っ赤にして大爆発した。
「『超能力くらい』って何ですか!? なんですかその『ちょっと風邪ひくくらい』みたいな軽いノリは!!」
エミリーは、ティアナの座るソファに詰め寄り、ものすごい剣幕で捲し立てた。
「地球人類の中に、そんなSF映画みたいな能力を持った人間が誕生する時点で、大惨事どころじゃないんですけど!? 今でさえ、莫大な富と権力を持ってて、しかも自分たちは宇宙の真理を知った選ばれし者だって狂った新興宗教に目覚めちゃってる十二人なんですよ!? そこからさらに、超能力みたいな個体戦闘力まで生えるんですか!?」
エミリーの悲鳴のようなツッコミの連続に、ティアナは少しだけ身を引きながらも、キョトンとした顔で答えた。
「え、なんでそんなに怒ってんの? だって、本当に『その程度』の話だし」
ティアナは、呆れたように肩をすくめた。
「あのさ、エミリー。彼らが使えるようになるのは、あくまで初歩の初歩。せいぜい『惑星単体を武力と扇動で制圧できるレベル』よ? 銀河帝国の文明基準から見たら、恒星間ミサイルも防げないし、空間跳躍も単独じゃできない、ゴミみたいな伸びしろでしょ。……そんなちっぽけな能力でドヤ顔されてもねえ」
「その『惑星単体制圧』を、軽く言わないでください!!」
エミリーは、ついに両手で頭を抱え、床に崩れ落ちそうになった。
「私たちの住んでる地球は、まだその単体の惑星から一歩も外に出てないんです! 人類は、そのゴミみたいな伸びしろを持った十二人の狂信者に、普通に国ごと乗っ取られて滅びる側の弱者なんです!!」
「うるさいわねぇ、少しは落ち着きなさいよ」
KAMIが、うるさそうに耳を塞ぐ仕草をした。
「ティアナの言う通りよ。あんなの、銀河文明のPvPアリーナに放り込んだら、初心者の初狩りにすら使えない、ただの雑魚ビルドだわ。……まあ、スキルキャップが異常に低い地球のローカルルールで使ったら、そりゃあ無双できるだろうけど」
「地球ルールだと、完全にOPでチート行為だから、運営としてはBAN案件の対象ではあるわね」
KAMIは、残酷な笑みを浮かべた。
「上位サーバーに行ったら、瞬殺されてナーフを嘆く側に回るだけの哀れな連中よ」
「BAN案件で済むなら苦労しません! 地球には彼らをBANできる運営なんて存在しないんですよ!!」
エミリーの悲鳴は、もはや涙声に変わっていた。
「代表の言葉選びが不用意に軽すぎるだけで、エミリー研究員の抱いている危険評価そのものは、地球のスケールにおいては完全に妥当です」
ザーラ博士が、エミリーを慰めるように、冷静な理論で事態を整理し直した。
「彼らが獲得し得る能力は、銀河文明の軍事基準では、一個小隊の火力にも満たない小規模なものです。……しかし、地球文明の脆弱な社会制度、情報空間、治安維持機構、宗教的権威、そして政治体制に対しては、あまりにも過剰戦力です」
ザーラは、ホログラムの地球に、十二の赤いポイントを点滅させた。
「彼らが精神感応や認識改変を用いて、国家元首や巨大企業のトップを裏から操れば、たった少人数でも、世界の主要な都市圏や国家中枢を無血で制圧することが可能です。武力衝突すら起きないでしょう」
「そうそう。ワンパンで惑星を物理的に砕くとか、巨大なビームを撃つとか、そういう派手な強さじゃないのよ」
ティアナが、指をパチンと鳴らしてザーラの解説に同意した。
「でも、地球の政治経済のネットワークや、人々の感情のシステムは、彼らの能力で余裕でハッキングして壊せる。……しかも一番タチが悪いのは、彼らが自分たちの欲望のためじゃなく、『愚かな人類を正しい調和へ導いてあげよう』っていう、独善的な善意で世界を支配しようとしてくるところだよね」
「悪意のない狂信者ほど、手に負えないものはありませんからね」
ザーラが静かに締めくくった。
「……やっぱり、全然笑えないじゃないですか……」
エミリーは、ソファの隅に丸まり、絶望的な未来に完全に打ちひしがれていた。
「さてと。それじゃあ、今回の新月イベントにおける、地球上の各陣営の働きぶりを、僕の独断と偏見でざっくり採点してみようか」
ティアナは、エミリーの絶望を完全に無視して、空中に成績表のようなホログラムのパネルを展開した。この、圧倒的な危機感の欠如と、どこまでも神の視点からの無責任な講評こそが、サイト・アオという観測ステーションの真骨頂であった。
「まず、主役の【ヘルメス協会】」
ティアナは、パネルの一番上に彼らのシンボルマークを映し出した。
「かなり成功。さっきも言ったけど、情報量に脳が耐えきれなくて自滅しなかったのが、僕らからすると一番面倒な結果だね。彼らは完全に覚醒しちゃったから、これからは地球社会の裏側で、強力な癌細胞みたいに増殖していくよ」
「次に、【セレスティアル・ウォッチ】」
ティアナの指が弾かれ、アルファのシルエットが映る。
「ヨーロッパの儀式を止めることはできなかった。まあ、あの状況じゃ手を出さないのが正解だったんだけど。……でも、日本の出雲の観測データをきっちり抜いて帰ったのは評価できる。彼らなりに次のカードを手に入れたわけだから、点数としては中の上くらいかな」
「そして、【日本政府】」
矢崎総理の顔写真が浮かぶ。
「ここは、わりと偉かった。……出雲の魂の庭がヨーロッパの波長を相殺してるってデータが出た時、普通なら『よし、この謎のパワーを盾にして世界を救おう!』って雑に利用したくなるもんなんだけど。彼らは、出雲の底知れなさにちゃんとビビって、便利な対抗兵器として使おうとしなかった。あの自制心は、地球の政治家にしてはかなり評価高いよ」
「続いて、【地球の一般社会(大衆)】」
群衆の映像が流れる。
「最悪の文明崩壊は回避した。……でも、圧倒的な恩恵の快感を学習しちゃって、また欲しいっていう再渇望の火種を残したから、次のイベントが起きた時は今回よりもっと危ないし、もっと簡単に乗っ取られるね。赤点スレスレの及第点」
「最後に、【出雲の『魂の庭』】」
深い森と見えない結界の映像。
「意図してないのに、ただそこにある(重い)だけで、結果的に地球の精神防壁として少し仕事しちゃった。……でも、あれを人類を守る便利装置扱いして不用意に触ると、普通に世界が壊れて全員死ぬからね。取り扱い注意の爆弾枠」
「ふふっ」
KAMIが、次の菓子の袋を開けながら楽しそうに笑った。今度はメキシコのチリ味のグミらしい。
「運営目線でレビューさせてもらうと、今回の地球イベントは、かなり良調整だったわね。……一気に世界が完全壊滅するんじゃなくて、プレイヤーの価値観を少しだけ書き換えて、静かに次のフェーズへ移行させた。世界観の広がりを感じさせる、ロマンのあるシナリオ展開じゃない?」
「……その採点と、高みの見物の感想、全部本気で腹が立つんですけど」
エミリーが、ソファの隅から恨めしそうな声で抗議した。
「代表およびKAMI殿の主観的な評価軸が含まれていますが、各陣営の現状と将来のリスクに関する整理としては、概ね妥当な結論です」
XT-378が、エミリーの怒りを完全に無視して、無機質に承認の判を押した。
ラウンジに、ふと、奇妙な静けさが訪れた。
総括が終わり、すべてのデータが整理され、地球の現状が丸裸にされた。
ティアナは、空中のホログラム・パネルをすべてスワイプして消去すると、ソファからゆっくりと体を起こした。
そして、いつものおちゃらけた態度を少しだけ潜め、彼の内に眠る銀河帝国の最高権力者のクローンとしての、冷徹で底知れぬ真顔を一瞬だけのぞかせた。
「でもさ、エミリー」
ティアナは、膝の上に両肘をつき、指を組み合わせて言った。
「今回、本当に一番面倒なのは……ヘルメス協会が、ちゃんと成功しちゃったことなんだよね」
その言葉の奥にある深い懸念に、エミリーも姿勢を正した。
「さっきも言ったけど、途中で儀式が暴走して祭壇が大爆発するとか、メンバー全員の脳みそが焼かれて白痴化するとか……そういう物理的な破局なら、分かりやすかったのよ。世界中の人間が『ああ、あの光は危険なカルトの兵器だったんだ』って認識して、終われたから」
ティアナは、ため息をついた。
「でも、そうじゃなかった。……彼らは、狂わずに、生きたまま、ちゃんと宇宙の知識をもらって、ちゃんと感動して、自分たちの信じる調和が絶対に正しいって、狂信を確信に変えちゃった」
「しかも、今回彼らがアクセスした情報は、アカイア文明の初期教材に過ぎません」
ザーラ博士が、ティアナの言葉を重く引き継いだ。
「初期の知識でこれほどの恩恵と全能感を得た彼らが、この先、ここで満足して立ち止まるはずがありません。……彼らは、自分たちを神に等しい存在に引き上げるために、必ずあの星円盤を通じて、さらに深く、より強力な狂気の深層へとアクセスしようとするでしょう」
「……つまり」
エミリーは、震える声で、その絶望的な結論を口にした。
「今回の新月で、何も終わってないんですね」
「うん。全然」
ティアナは、パチンと指を鳴らした。
「終わったのは、ただの派手な狂騒だけ。……本当に厄介で、静かで、人類の根幹を狂わせる本編は、むしろこれから始まるんだよ」
「まあ、そういうことね」
KAMIが、グミの袋をテーブルに置いて艶然と微笑んだ。
「お祭り騒ぎのオープンベータが終わって……いよいよ、逃げ場のない正式サービスの開始って感じじゃない?」
「だから、そのゲームの例え、本当に背筋が凍るからやめてください……」
エミリーは、力なくうなだれた。
その時。
「……うむ」
ひじ掛けの上で丸まっていた賢者・猫が、ぱちりと翠の目を開いた。
「一つ、付け加えておく」
猫は、ゆっくりと体を起こし、ラウンジにいる全員を、一人ひとり静かに見回した。
その翠の瞳の奥には、怠惰な賢者の顔の下に隠れた、どこかもっと深いものが、ほんの少しだけ透けて見えた。
「今回の夜空は、確かに美しかった。……しかし、その美しさを見て感動するための心の余裕を、地球の者たちは持てなかった」
猫は、ラウンジの窓越しに地球を見た。
オーロラの消えた、青く静かな惑星。
「……それが、ワシはいちばん、もったいないと思うのう」
誰も、すぐには返せなかった。
その言葉に、どこか人間的な、感傷めいた何かが滲んでいたからだ。
だが、次の瞬間。
「……まあ、じゃから、ワシに対価を払えば、次は全員が純粋に感動できる夜空を作ってやると言っておるのじゃ。商談は有効じゃぞ、エミリーよ」
「さっきの感動を台無しにしないでください!」
エミリーが悲鳴を上げた。
「商談的には一貫してますね」
工藤が、静かにコーヒーを飲み干した。
「でしょ」
KAMIが楽しそうに笑い、猫に向かって軽く菓子の袋を掲げた。
猫は、尻尾の先だけをゆらりと揺らして、それに応えた。
大気圏外の静かな観測ステーションから見下ろす地球は、オーロラの消えた、いつも通りの青く美しい惑星に戻っていた。
だが、その青い表面の下では、すでに次の次元の狂気が、静かに、そして確実に根を張り始めている。
綺麗に成功したのが、たぶん一番面倒だった。
空は静かになった。けれど、この静かな地獄の方が、派手な破滅よりもずっと長く続くのだ。
あの新月の夜に閉じたのは、人々の目に見える狂騒の幕だけであり、人類を別次元へと誘う扉そのものでは、決してなかったのである。
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