第16話 歌う空の向こう側と、何もできない国家
日本の政治の最高中枢たる首相官邸。その地下深くに新設された極秘空間――既存技術外事象評価セルの会議室は、深夜にもかかわらず白々しい蛍光灯の光に照らされ、文字通り息が詰まるような重圧と疲労感に包まれていた。
分厚いコンクリートと最新の電磁シールドに守られたこの部屋には、窓がない。外界の天候や時間の流れから完全に隔絶されているはずのこの場所で、今、室内にいるすべての人間が、遠く離れたヨーロッパの空で起きている「理解不能な事象」に完全に精神を支配されていた。
重厚な電子ロックの扉が、低いモーター音を伴って静かにスライドした。
入室してきたのは、矢崎総理だった。
深夜の急な訪問にもかかわらず、彼女の身なりに乱れはない。しかし、その顔には、連日の国家運営の疲労に加えて、これまでの政治家人生で経験したことのない種類の「見えない危機」に対する深い憂慮が、色濃く刻まれていた。
「総理」
部屋に詰めていた実務責任者の沖田室長をはじめ、科学技術顧問や内閣情報調査室の実務官たちが、弾かれたように一斉に立ち上がる。彼らの目の下には濃い隈が浮かび、何時間もモニターとデータ群を睨み続けてきたであろう充血した目が、事態の異常性を如実に物語っていた。
「儀礼はいいわ。座ってちょうだい」
矢崎総理は、重苦しい空気を手で制するように短く告げると、そのままテーブルの上座へと歩み寄り、椅子も引かずに立ったまま口を開いた。
「ヨーロッパの件……ここまで表に出てしまっては、私も執務室で上がってくる机上の要約だけを読んでいるわけにはいかなくなったわ。各国の首脳からも、直接的・間接的な探りの連絡が入り始めている。……まずは現状を、分かっている範囲で正確に整理してちょうだい」
総理の第一声は、焦燥感に駆られながらも、国家の最高責任者としての冷徹な理性を決して失っていない、力強い響きを持っていた。
「はい」
沖田室長が手元のタブレットを操作し、会議室の壁面に設置された大型モニターに、現在ヨーロッパで観測されている異常事象のデータを次々と展開していく。
映し出されたのは、SNSで世界中を駆け巡っているあの毒々しいオーロラの映像だけではない。気象衛星が捉えた巨大な大気の渦、電離層の異常な乱れを示すグラフ、そして欧州広域で発生している微細な通信障害の分布図だった。
「現在、我々が公式・非公式のルートを通じて把握している『表の事実』をご報告します」
沖田室長の声は、極めて事務的だった。
「西ヨーロッパを中心とした広範囲で、極光現象、高高度の電離層の異常な乱れ、およびそれに付随する局地的な気温の急降下と急上昇が同時多発的に発生しています。さらに、一部の航空機や衛星通信において、原因不明のパケットロスやノイズが確認されています」
「原因は?」
矢崎総理の短い問いに、沖田室長は傍らに立つ科学技術顧問へと視線を促した。
日本の科学界を代表する頭脳の一人である科学技術顧問は、まるで重病の宣告をする医師のように、苦渋に満ちた顔で口を開いた。
「総理。……分かりません」
それは、科学の限界を自ら認める、屈辱的で重い一言だった。
「欧州各国の気象機関も、NASAも、そして我が国の観測機関も、完全に原因の特定に行き詰まっています。太陽表面での大規模なフレアやコロナ質量放出といった、磁気嵐を引き起こす天体要因は一切観測されていません。にもかかわらず、地球の磁力線そのものが局所的に引き剥がされ、あるいは捻じ曲げられているかのような異常な数値が記録され続けています」
科学技術顧問は、モニターに映る複雑な数式とシミュレーションの残骸を指し示した。
「我々には、異常を示す『観測値』は山のようにあります。ですが、それを説明するための『言葉』――すなわち原因モデルが、現在の物理学の枠組みの中には全く立ちません。……大気や電磁場において『何かが致命的におかしい』ということまでは断言できますが、それ以上の説明は、現状の表の科学では不可能です」
会議室に、再び重い沈黙が落ちた。
「分からない」。そのシンプルな事実が、いかに国家の危機管理を根底から麻痺させるか。矢崎総理は、その恐ろしさを誰よりも理解していた。
「……表の科学では、打つ手がないということね」
総理は、静かに確認した。
「ならば、裏の情報はどうなの。内調のインテリジェンス・ネットワークから、何か原因の端緒は掴めていないの?」
総理の視線を受け、内閣情報調査室の実務官が、緊張した面持ちで一歩前に出た。
「総理。……事態は、我々が想定していたよりも、はるかに厄介な領域に足を踏み入れつつあります」
実務官がタブレットを操作すると、モニターの表示が切り替わった。
そこに映し出されたのは、気象データや磁場グラフではなく、テキストデータの膨大な集積――日本国内のSNS、掲示板、そして各種の通報記録の解析結果だった。
「これは、過去数時間における日本国内での特定のキーワードや、異常な行動に関する報告の集計です」
実務官は、信じがたいものを報告するような、微かに震える声で言った。
「ヨーロッパの異常気象とは全く無関係に見える、日本国内の『不気味な反応』が、急速に増加しています」
「不気味な反応?」
矢崎総理が眉をひそめる。
「はい。例えば……極端に感受性の高い子供たちが、突然西の空――ヨーロッパの方角を指さして、『怖い歌が聞こえる』『空が怒っている』と泣き叫ぶ事案が、全国の医療機関や児童相談所のログから複数抽出されています。さらに、一部の著名な作家、芸術家、あるいは音楽家といったクリエイターたちが、自身のSNSで一様に『何かが来る』『頭の中に巨大な扉の映像が浮かんで消えない』といった、強迫観念に近い書き込みを連発しています」
モニターには、実際の投稿の数々が匿名化されて並んでいた。
それは、狂気と不安が伝染していく過程を、データとして可視化したようなおぞましい光景だった。
「それだけではありません」
実務官は、さらに報告を重ねた。
「いわゆるスピリチュアル界隈、オカルトネットワーク、新興宗教のコミュニティにおいても、異常な熱狂が観測されています。『大きな扉が開く予兆だ』『人類アセンションの時が来た』『西方で巨大な目覚めが起こる』といった言説が、突如として統制されたかのように一斉に拡散され始めています」
矢崎総理は、その報告を聞きながら、額に手を当てた。
通常であれば、一国の総理大臣が聞くような報告ではない。子供の夜泣きや、芸術家のスランプ、オカルトマニアの妄言。それらは国家の安全保障という観点から見れば、ノイズ以下のゴミデータに過ぎない。
「……以前の我々なら」
その総理の内心を見透かしたように、沖田室長が静かに、しかし決然とした声で口を開いた。
「以前の我々なら、これらはすべて集団ヒステリーや、ネット上のアルゴリズムが引き起こしたただの『雑音』として、即座に廃棄情報に分類していました」
沖田室長の言葉には、これまでの国家の情報分析の常識を自ら否定するような、重いパラダイムシフトの宣言が含まれていた。
「ですが……地中海の『アポロンの矢』、そして我が国の出雲における『精神的拒絶領域』。既存の物理法則を超越した“地球外の何か”が確かに存在し得るという事実を知ってしまった今、我々はこれらの情報を、ただの妄言として無視の優先順位に置くことはできません。……あのヨーロッパの空で起きている事象は、気候だけでなく、人間の『精神構造そのもの』に直接波及している可能性が極めて高いと判断せざるを得ないのです」
沖田室長のその言葉は、会議室にいた全員の背筋に冷たい汗を流させた。
見えない波動が、物理的な距離を無視して、日本にいる人々の精神を直接書き換えようとしている。それは、いかなるミサイル防衛システムも、国境警備も全く機能しない、全く新しい次元の侵略行為に等しかった。
「つまり?」
矢崎総理は、重く沈んだ声で、最終的な確認を求めた。
沖田室長は、総理の真っ直ぐな視線を受け止め、逃げることなく冷酷な事実を告げた。
「結論として、我々は現状、何も分かっていません」
その一言が落ちた瞬間、地下会議室の重圧がさらに一段と増した。息をすることすら苦痛に感じるほどの、絶対的な無力感。
「表の現象は確実に存在する。そして、人々の精神への見えない反応も観測されている。……だが、それを引き起こしている『原因の輪郭』が、我々日本政府の手元にはまだ何一つないのです。我々は今、暗闇の中で巨大な怪物に触れながら、それが何であるかを想像することすらできていません」
矢崎総理は、目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
焦りはある。国民を守るべき国家のトップとして、原因すら掴めないという事態は最大の屈辱であり、恐怖だった。しかし、彼女はここで苛立ちに任せて官僚たちを怒鳴りつけるような愚は犯さなかった。
「……それを聞くためにわざわざ地下まで降りてきたのではない、とは言わないわ」
総理が目を開き、その瞳には再び力強い理性の光が宿っていた。
「分からないことを、分からないままにして思考停止しないために、この極秘の評価セルを作ったんだから。……原因不明だからといって、ただ空を見上げて震えているわけにはいかないのよ。どんな小さな糸口でもいい。この現象の裏側にあるものを、何としても手繰り寄せなさい」
総理の毅然とした言葉が、絶望に沈みかけていた会議室の空気を辛うじて繋ぎ止めた。
「おや、総理じゃないですか。こんな夜更けに地下のモグラたちの慰問ですか」
その時、あまりにも場違いな、飄々とした軽い声が会議室の入り口から響いた。
皆が振り返ると、開いたままになっていた扉の框に寄りかかるようにして、よれよれのスーツを着た男が立っていた。
オカルト雑誌『月刊ムー』の編集長であり、この既存技術外事象評価セルの非公式な「知恵袋」として招かれている男、三神だった。
彼は、会議室の重苦しい空気など全く意に介していない様子で、ポケットに手を突っ込んだままのんびりと部屋に入ってきた。
「いやあ、ヨーロッパの空、ずいぶん派手にやってますねえ。ネットの掲示板もオカルト界隈も、お祭騒ぎ通り越してパニック寸前ですよ。……総理も、あの緑色の空の件で来られたんですか?」
三神のそのあまりにも軽い調子に、内調の実務官が眉をひそめたが、矢崎総理は彼を咎めることなく、真っ直ぐにその男を見据えた。
「ええ。……その口ぶり、あなたなら、この狂騒の裏に何があるのか、何か知っているのではないの?」
総理の問いかけに、三神は肩をすくめ、微かに目を細めた。
その飄々とした表情の奥に、世界の裏側を知り尽くした者特有の、深く暗い知識の淵が覗いていた。
「ええ。大まかな事情の輪郭くらいは、把握していますよ」
三神は、誰に勧められるでもなく空いている椅子の一つに腰を下ろし、会議室の全員を見回した。
「少し、歴史とオカルトの授業が必要ですね。……まず、あの空の異常を引き起こしている原因。それは、表の国家や軍隊ではありません」
三神は、一切の躊躇なく、その組織の名を口にした。
「原因は、国際秘教団体『ヘルメス協会』です」
「ヘルメス協会?」
三神の口から放たれたその古めかしい響きに、最初に反応したのは科学技術顧問だった。疲労と混乱で血走った目をしばたかせ、ひび割れた声で問い返す。
「……オカルト教団の類ですか。総理、我々は今、原因不明の大規模な気象異常と、国民の精神衛生に関わる重大な危機に直面しているのです。いくら原因が掴めないからといって、そのようなカルト集団の与太話を真に受ける段階には――」
「ここに詳しい人がいるとは思いませんが、勘違いしないでくださいよ」
三神は、科学顧問の常識的な反論を、薄ら笑いを浮かべたままあっさりと遮った。彼はパイプ椅子に深く腰掛け、長い足を投げ出すようにして組み替えた。
「あなたがたが真っ先に想像するような、あの有名な『黄金の夜明け団』や、その分派の古典的なヘルメス教団とは全くの別物です。あちらは主に十九世紀末から二十世紀初頭にかけて西洋で活動した、儀式魔術やカバラ、タロットなんかを研究する、言わば『知的なオカルト愛好家』のグループに過ぎない。……まあ、歴史的な文脈ではそれなりに意義があったんでしょうが、今回の連中はそんな牧歌的な連中とは根源的に違います」
三神は、よれよれのスーツのポケットから手を出し、組んだ指先で自身の顎を軽く叩いた。
「今回の『ヘルメス協会』は、もっと俗っぽくて、もっとタチが悪くて……そして、圧倒的に危険です」
「危険とは、どういう意味よ」
矢崎総理が、射抜くような視線で三神を促した。
「構成員の質と、彼らが握っている『力』の絶対量が違うんですよ」
三神は、まるでゴシップ雑誌の裏話でも披露するかのように、極めて軽い調子で、しかし恐るべき世界の裏側の真実を語り始めた。
「彼らは、週末に地下室に集まって黒魔術の真似事をするような、社会の爪弾き者じゃありません。むしろ逆だ。……世界屈指の多国籍企業を束ねる財閥の当主、何世紀にもわたって血脈と資産を保ち続ける欧州貴族の末裔、ノーベル賞クラスの天才的な理論物理学者、高名な哲学者、さらには宗教史家や文化財保護ネットワークの重鎮まで。要するに、ヨーロッパという古き良き大陸が培ってきた『文明の上澄み』たちです」
その言葉のスケールに、沖田室長が微かに息を呑む音が聞こえた。
「はっきり言いますが、彼らは欧州屈指の、そして最悪の秘密結社です」
三神の瞳の奥で、冷たい知性の光が瞬いた。
「EUという巨大な国家連合そのものを彼らが裏から完全に支配している、とまで言えば安っぽい陰謀論になりますが……少なくとも、EUの制度設計、莫大な研究基金、文化財の管理機構、そして歴史ある大学や財団といった『社会の節々』に、彼らは極めて深く、強固な根を張っている。彼らが『そう動け』と命じれば、表舞台の政治家や官僚の中に、何の疑問も抱かずにその通りに動く人間がごまんといる。……それが、ヘルメス協会という組織の正体です」
「……その『文明の上澄み』とやらが、なぜ今になって西ヨーロッパの空をあんな毒々しい色に染め上げているの」
矢崎総理は、三神の言葉の重みを正確に咀嚼しながら、議論を核心へと引き戻した。
「彼らの目的は何? 何のために、あんな大規模な気象干渉や精神干渉を引き起こしているの?」
「引き起こそうとして引き起こしているわけじゃないんですよ、総理。あれは単なる『副産物』、あるいは機械の『駆動音』のようなものです」
三神は、事も無げに言った。
「彼らが莫大な資産と、裏社会の盗掘ネットワークを使って、地中海の底から、あるいは中東の未発見の遺跡から……とにかく、途方もない犠牲と対価を払って、ある『アーティファクト』を手に入れたんです」
「アーティファクト……地球外テクノロジーの遺物、ということか」
沖田室長が、重々しく確認する。
「ええ。彼らが『ミノスの星円盤』と呼称し、狂信している代物です」
三神は、何もない空中にその形を描くように、両手で円を作ってみせた。
「年代測定の偽装や裏取引の記録から推測するに、紀元前二千年紀……ミノア文明全盛期の地層から発掘された遺物とされています。ですが、それはあくまで『地球の歴史にそれが埋まったタイミング』に過ぎない。その物質そのものは、地球の技術史とは完全に隔絶しています」
三神は、反論の隙を伺っていた科学技術顧問の方へ、わざとらしく視線を向けた。
「顧問先生。三千年以上前の地層から出土した金属製の円盤が、酸化も腐食もせず、分子レベルでの劣化痕すら一切存在しないなんてこと、あり得ますか?」
「……現代のチタン合金や特殊コーティングであっても、数千年の風化には耐えられません。絶対にあり得ない」
科学技術顧問は、己の学問の敗北を認めるように、弱々しく首を振った。
「でしょう? しかも、その円盤の組成には、現在の地球上の科学では生成不可能な、未知の安定同位体が複数含まれていると推測されています。表面には解読不能の螺旋状の象形文字……あるいは幾何学的な回路パターンがびっしりと刻まれている。ヘルメス協会の連中は、これを『太古に星の賢者たちが人類に授けた、進化のための天の導き』だの何だのと崇め奉り、完全に理性を失って狂信しています」
「……つまり、その『ミノスの星円盤』とやらが、今回の異常の元凶だと言うのね」
矢崎総理が、冷え切った声で断定した。
「その通りです」
三神は、椅子の背もたれに寄りかかり、天井の蛍光灯を見上げた。
「彼らは、その未知のブラックボックスを『起動』させようとしたんです。あのヨーロッパの空を覆うオーロラも、電離層の乱れも、そして感受性の高い人間たちが感じ取っている不気味な精神干渉の波も……すべては、あの星円盤が本格的に目覚めるための、ほんの『準備段階』で漏れ出したエネルギーの余波に過ぎません」
地下会議室の空気が、完全に凍りついた。
モニターに映し出された、ヨーロッパの空を蠢く巨大な光の帯。日本の裏側にまで到達し、人々の精神を直接書き換えようとしている見えない波動。これだけの大規模な異常事態が、ただの「準備」や「アイドリング」だというのか。
「……それが、今起きている異変の正体だと?」
矢崎総理の声が、微かに震えていた。
「ええ、おそらく」
「断定できるんですか?」
科学技術顧問が、すがるような目で三神に噛み付いた。科学者として、推測だけでこれほどの絶望的な結論を受け入れるわけにはいかなかった。
「断定はしませんよ。私は現場を見たわけじゃありませんからね」
三神は、薄情なほどあっさりと肩をすくめた。
「ただ、あまりにも符号が揃いすぎています。ヘルメス協会の異常な資金移動、欧州の地下に眠るオカルトネットワークの急激な活性化、そして何より……既存の物理法則を完全に無視した、あの天体規模のエネルギー漏出。ミノスの星円盤が『励起状態』に入ったと考えなければ、説明のつかないことばかりです」
三神の言葉は、推測という形をとりながらも、状況証拠としてはこれ以上ないほど強固な「真実」として、部屋の全員の胸に重くのしかかった。
「……なんてこと。それが本当なら、ただちにキャサリンに情報を共有しなければ……!」
矢崎総理は、即座に大統領とのホットラインの構築を指示しようと、沖田室長の方へ向き直った。覇権国家であるアメリカの力と情報を借りなければ、とても日本単独で扱える事案ではない。
「ああ、総理。それには及びませんよ」
だが、三神は総理の切迫した動きを、まるで見透かしていたかのように静かに制止した。
「大丈夫です。わざわざ日本から教えなくても、アメリカにはあの化け物じみた影の組織……『セレスティアル・ウォッチ』がいます。地球上で屈指の地球外テクノロジーを保有し、監視している連中です。ヨーロッパの空がこれだけ派手に光っていて、彼らがこの事態を把握していないはずがない」
三神のその言葉は、奇しくも、数時間前にホワイトハウスの極秘状況室でキャサリン・ヘイズ大統領がアルファから報告を受けていた事実と、見えない糸で完全に接続されていた。
三神の言葉が、地下会議室の淀んだ空気に波紋を広げた。
「セレスティアル・ウォッチ……」
矢崎総理は、その忌まわしい組織の名を口の端で転がし、忌々しげに顔を顰めた。
「キャサリン・ヘイズ大統領ですら、彼らの手綱を完全には握りきれていない。地中海のあの『アポロンの矢』の件で、それは痛いほど見せつけられたわ。……でも、だからこそよ。あのアメリカの影の組織がこの事態を把握しているというなら、なぜ彼らは動かないの? なぜ、ヨーロッパのあの異常なオーロラを放置しているの?」
「優先順位の違いですよ、総理」
三神は、パイプ椅子の上で足を組み替えながら、ひどく冷淡な事実を突きつけた。
「彼らにとって、ヘルメス協会のオカルト儀式など、自分たちが進めている『本命』の計画に比べれば、他国の花火大会程度の関心事なんだろうと推測します。あるいは、あの星円盤が完全に起動する直前まで泳がせてデータを取る腹積もりか。……いずれにせよ、彼らが我々やヨーロッパ市民の安全を第一に考えて動くなどというナイーブな期待は、捨てるべきです」
「アメリカが動かないなら、直接EUの首脳陣に警告を発するしかない。フランスやドイツのトップにホットラインを繋いで、ただちにヘルメス協会の拠点を――」
「無駄ですよ」
三神は、総理の決断を、身も蓋もない一言で切り捨てた。
「……どういうこと」
総理の声が、限界まで張り詰めた糸のように低く響いた。
「先ほども言ったでしょう。ヘルメス協会は、ヨーロッパの『文明の上澄み』たちを束ねるネットワークだと」
三神は、よれよれのネクタイを少し緩めながら、残酷なヨーロッパの政治構造の裏側を解説し始めた。
「彼らは表向き、カルト教団の看板なんか掲げていません。歴史ある財団の理事であり、名門大学の教授であり、巨大銀行の役員なんです。総理がEUの首脳に『国内のオカルト結社が地球外アーティファクトを起動させているから特殊部隊を突入させろ』と警告したところで、どうなります?」
三神は、自問自答するように肩をすくめた。
「間違いなく、大統領や首相の側近の中にいる『協会のシンパ』、あるいは『協会から資金援助を受けている人間』が、その情報を握り潰すか、内政干渉だと跳ね除けるように進言するでしょう。彼らは、EUという巨大な官僚機構の血管の中に、すでに自分たちの毒をたっぷりと巡らせているんです。……アメリカ政府が正面から動けない以上、日本が声を上げたところで、まともに機能する組織なんてヨーロッパには残っていませんよ」
その絶望的な見立てに、沖田室長も、科学技術顧問も、そして内閣情報調査室の実務官も、一様に言葉を失った。
事態の輪郭は、あまりにもはっきりと見え始めている。
ヘルメス協会という強大な秘密結社が、未知の地球外アーティファクト『ミノスの星円盤』の起動準備に入った。その漏れ出したエネルギーが、ヨーロッパの空を異常な色に染め、世界中の感受性の高い人間たちの精神を侵食している。
原因は明確だ。
だが、それを知ったところで、日本政府という国家の枠組みでは、手を出せる物理的な手段が何一つ残されていないのだ。EUは内部から麻痺しており、頼みの綱であるアメリカの覇権も、別の思惑を持つ影の組織によって機能不全に陥っている。
「……では、私たちはどうすればいいの」
矢崎総理の呟きは、怒りや焦りを超えた、純粋な為政者としての無力感の吐露だった。
「何が起きるか分からない破滅の予兆を前にして、国家はただ指をくわえて空を見上げているしかないと言うの?」
「残酷な言い方になりますが、現状、直接的な『解決策』はありません」
三神は、同情の余地を一切挟まない、極めてフラットな声で答えた。
「本格起動した際、あのアーティファクトが人間の精神にどのような致命的なアップデート――あるいはバグ――を引き起こすか、誰にも予測できない。だからこそ、今、日本政府がやるべきことは、怪物と戦うことではなく、被害の『延焼』を防ぐことだけです」
「延焼を防ぐ……」
総理は、その言葉を反芻した。
「そうです。ヨーロッパへの渡航を、可能な限り制限することです」
三神は、初めてその目に鋭い光を宿して進言した。
「あの星円盤の精神干渉波は、距離が近ければ近いほど、その影響は指数関数的に強まります。現在、日本のSNSやオカルト界隈で騒いでいる感受性の高い連中の中には、無意識のうちに『呼ばれている』と錯覚し、実際にヨーロッパへ向かおうとする者が必ず出てきます。本番の儀式で何が起きるか分からない以上、震源地に日本人を近づけない。……それが、国家にできる唯一の、そして最大の危機管理です」
その三神の現実的な提案に、止まっていた会議室の歯車が再び回り始めた。
「沖田室長」
矢崎総理は、顔を上げ、実務責任者へと鋭く視線を向けた。
「はい」
沖田は即座に直立姿勢をとった。
「ただちに外務省ルートを動かし、ヨーロッパ全域、特に地中海沿岸部に対する渡航注意情報を発出。理由は『原因不明の広域通信障害および気象異常による社会的混乱の恐れ』とする。同時に、水面下で各航空会社に要請し、欧州方面へのフライトの制限と、欧州発の便に対する入国時の監視体制を強化しなさい」
「承知いたしました」
「内調は、引き続き国内のSNSおよびスピリチュアル界隈の動向を監視。特に、『ヨーロッパへ行く』といった異常行動の兆候を示す集団や個人の動きを徹底的に洗い出し、場合によっては公安と連携して水際で足止めする理由を構築して」
「はっ」
実務官が、弾かれたようにタブレットの操作に戻る。
矢崎総理は、次々と矢継ぎ早に指示を出し終えると、大きく、そして重い息を一つ吐き出した。
それは、国家のトップとしての孤独な決断の重さだった。
「……根本的な解決にはならない。ヨーロッパの空がどうなるのか、世界がどう変わってしまうのか、私たちには止める術がない」
総理は、モニターに映り続ける毒々しいオーロラの映像を、静かな怒りを込めて睨みつけた。
「派手なことはできない。世界を救うスーパーヒーローにもなれない。……なら、せめて巻き込まれる自国民の人数を一人でも減らす。できることだけでも、徹底的にやる。国家がやるべき泥臭い危機管理は、そこからよ」
その決然とした言葉に、評価セルの官僚たちは力強く頷き、即座にそれぞれの実務へと散っていった。
理解は進んだ。だが、対処はできない。
圧倒的な神秘と狂気の前で、人間の作ってきた「国家」というシステムの脆弱さを痛感しながらも、彼らは決して抗うことを諦めなかった。
遠く離れた異国の空で、破滅の歌声が響き続ける中、日本政府の孤独で、そして静かな防衛戦が始まろうとしていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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