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第15話 歌う空と、呼びつけられた影

 パリの夜空は、本来あるべき星の瞬きを完全に失い、底知れぬ不気味な沈黙と、地球上のものとは思えない異常な色彩によって塗り潰されていた。

 時刻は深夜に差し掛かろうとしている。


 普段であれば、シャンゼリゼ通りの華やかなライトアップや、エッフェル塔の黄金色の輝きが街の輪郭を優美に縁取り、セーヌ川の水面がその光を柔らかく反射しているはずの時間帯だ。

 しかし今夜ばかりは、光の都と称されるこの街の住人も、世界中から訪れた観光客たちも、地上の美しさには一切の関心を払っていなかった。

 彼らの視線は、まるで何かに縫い付けられたかのように、ただ一様に頭上の漆黒へと向けられている。


 北極圏から遠く離れた、この西ヨーロッパの穏やかな空に、あり得ないはずの極光オーロラが揺らめいていた。

 それは、自然現象として知られる淡く美しいカーテンのような光とは、根本的に異質だった。


 緑色を基調としながらも、時折、腐食した金属のような毒々しい赤紫へと変色し、巨大な光の帯がまるで意思を持った巨大な蛇のように雲の合間を這い回っている。

 光の波長は不規則に明滅し、見る者の平衡感覚を微かに狂わせるような、嫌な瞬きを繰り返していた。


「なんだあれ……奇跡か?」

「審判の日が近いんじゃないか……神よ……」


 セーヌ川のほとりに立ち尽くす人々は、誰もが言葉を失い、あるいは譫言うわごとのように呟きながら、無言でスマートフォンを天に向けていた。

 冷たい夜風が吹き抜ける中、シャッター音だけが不気味なほど規則的に響き渡っている。

 誰もが、自分の目の前で起きているこの物理法則を無視した現象を、どうにかして「データ」という理解可能な形に押し込めようと必死だった。

 SNSのタイムラインは、もはやアルゴリズムの制御を完全に離れ、世界中からの投稿で濁流のように埋め尽くされていた。


『南仏でオーロラが見えるってマジ? 合成じゃないの?』

『気象庁のサイト落ちてる! 磁気嵐の観測はないってさっきまで言ってたぞ!』

『空が、緑色に燃えてるみたいだ』

『ついに地球が目覚めようとしてるんだ。新しい時代の幕開けだ』

『これは神からの祝福だ。皆、祈りなさい』


 無知な大衆は、これを単なる気象システムのバグ、あるいは百年の一度の美しい天体ショーとしてもてはやすか、せいぜいスピリチュアルな「予兆」として、安全なスマートフォンの画面越しに消費していた。

 彼らにとって、それはまだ「自分の人生を脅かす直接的な危機」ではなかったからだ。


 しかし、その毒々しい光の裏側に潜む「何か」――人間の認識の根源を揺さぶる不可視の波長に、直接精神を抉られている者たちも世界中に確かに存在した。


 ロンドン郊外の静かな高級住宅街。厚い遮光カーテンを引いた子供部屋で、夜中に突然目を覚ました八歳の少女が、窓の外の西の空を震える指で指さし、「空が歌っているの。怖い声で歌ってるの」と、顔を真っ青にして泣き叫び始めた。

 両親がどれほど抱きしめても、彼女の耳を塞いでも、その「歌」は物理的な鼓膜ではなく、彼女の未発達で敏感な脳の奥底に直接響き続けていた。


 ギリシャの険しい山間に建つ古びた修道院では、俗世から離れ、何十年も沈黙の行を続けてきた敬虔な修道士たちが、突如として石造りの冷たい祭壇の前に次々と倒れ伏した。

 彼らは泡を吹き、目を血走らせながら、「巨大な扉が開く音が聞こえる! 招かれている、我々は招かれている!」と、集団で狂乱に満ちた懺悔と祈りを叫び始めていた。


 世界各地の感受性の高い人々。

 本物の霊媒師、狂気すれすれのインスピレーションを抱える芸術家、あるいは日常的に深い瞑想によって自己と世界との境界を溶かしている実践者たち。

 精神の防壁が極端に薄い彼らは皆、一様に得体の知れない強烈な高揚感と、内臓を素手で握り潰されるような言い知れぬ不安と恐怖に同時に苛まれていた。


 ヨーロッパの方角に、明確な意思を持った「何か」が存在する。

 人類はその正体が何であるのか、全く理解していない。科学の言葉でも、宗教の言葉でも、まだそれに名前を付けることはできていない。

 だが、人類という種全体を薄く、しかし確実に包み込むように広がる見えない精神干渉の波長を、彼らの魂の根源は確かに感じ取っていた。


 ***


 世界が未知の波長にざわめき、恐怖と熱狂の渦に巻き込まれつつある頃。

 ワシントンD.C.。ホワイトハウスの地下深く、世界で最も強固に守られた密室である極秘状況室シチュエーション・ルームの空気は、地上の喧騒とは無縁の、凍りつくような冷ややかな静寂に支配されていた。

 分厚い防音扉と、外部からのいかなる電子的な干渉も傍受も許さない電磁シールドに守られたこの空間に、今夜、緊急に集められたのは、アメリカ合衆国の安全保障の頂点に立つごく数名の高官だけだった。


 巨大なマホガニーのテーブルの最上座。

 キャサリン・ヘイズ大統領は、背筋を真っ直ぐに伸ばし、手元のセキュア・タブレットに次々と送られてくる各情報機関からの報告書と、ヨーロッパ各国の首脳から殺到する混乱と悲鳴に満ちたホットラインのログを、氷のように冷ややかな目で追っていた。


 彼女は焦ってはいない。

 かつて連邦検事として、血の通わない冷酷なマフィアのボスや、権力にまみれた腐敗政治家たちを法廷で追い詰めてきた彼女は、いかなる窮地に陥ろうとも、感情を表面に出して思考を濁らせるような真似は決してしなかった。パニックは無能の証明であり、指導者にとって最も不要な感情だ。

 だが、その冷静な仮面の奥底、彼女の内部には、国家の最高責任者としての強烈な苛立ちが、音を立てずに静かに、そして激しく渦巻いていた。


「……信じられないわね」


 ヘイズは、無機質な動作でタブレットをテーブルに伏せ、傍らに直立する国家安全保障担当補佐官を、その鋭い灰色の瞳で見上げた。


「これだけの規模の異常事態が、他ならぬ同盟国の頭上で堂々と起きていながら、今の私たちには、この事態を収拾するどころか、現象に『名前をつける』ための最低限の材料すら足りていない」


 彼女の声は低く抑えられていたが、そこには検事特有の、事実の欠落に対する強い不満が込められていた。


「NATOの早期警戒観測網も、欧州宇宙機関(ESA)の環境衛星群も、NSAのシグナル・インテリジェンスも……我が国とヨーロッパが誇る数千億ドルの観測システムが、束になってもたらした情報が何? 『原因不明の異常な磁場変動と、高高度での未知のエネルギー干渉を確認した』。それだけよ。現象の表面をなぞるだけで、なぜそれが起きているのかという『原因』については、完全に沈黙している」


 補佐官は、大統領の静かな怒気を一身に浴び、額に微かな脂汗を滲ませながら苦渋の表情を浮かべた。


「申し訳ありません、大統領。現状、我々が持ちうる表の科学とインテリジェンスの枠組みでは、あの大規模な極光や、局地的な気象の乱高下を合理的に説明するシミュレーション・モデルが存在しません。太陽風の異常も観測されておらず、地球の磁場そのものが内側から書き換えられているかのような……極めて異常な数値です」


「言い訳は不要よ、補佐官。表の科学で説明できないことくらい、この一ヶ月の出来事でもう十分すぎるほど学習したわ」


 地中海の孤島で確保した「アポロンの矢」と呼ばれる破滅の兵器。そして、極東の同盟国・日本が報告してきた「出雲の精神的拒絶領域」。世界の裏側では、すでに人類の常識を覆す事象が連続して起きている。


 ヘイズは、組んだ両手の親指をゆっくりとすり合わせながら、深く息を吐いた。


「だから、彼らを呼んだのよ」


 その言葉とほぼ同時に、状況室の分厚い防音扉が、金属の摩擦音すら立てずに重々しく開いた。

 部屋に流れ込んできたのは、空調の冷気ではない。国家の理性という光の届かない場所で、人類の影の歴史を管理してきた者特有の、圧倒的に冷たく、無機質な気配だった。


 超法規的秘密組織"セレスティアル・ウォッチ"のトップ、オブザーバー・アルファ。

 彼は、地球上のあらゆる国家権力、ひいては今目の前に座るアメリカ合衆国大統領の権威すらも超越したかのような、極めて冷淡で堂々とした足取りで入室してきた。

 常に深い影に覆われた彼の顔からは、ヨーロッパの空が燃え上がろうと、人類がパニックに陥ろうと、一切の動揺を読み取ることはできない。彼はゆっくりとテーブルの末席に歩み寄り、立ち止まると、その底知れぬ漆黒の視線をヘイズ大統領へと真っ直ぐに向けた。


「呼びつけて悪いわね」


 ヘイズは、相手が着席するのも待たず、挨拶もそこそこに鋭い刃のような言葉を投げつけた。

 その口調は、完全に法廷で証人を尋問する検事のそれだった。


「こんな時間に大統領権限であなたをこの部屋に引っ張り出した理由……もちろん、分かっているわよね?」


 アルファは、責め立てるようなヘイズの視線を正面から受け止め、全く動じることなく、抑揚のない平坦な声で即答した。


「ヨーロッパの件ですね」


「ええ、そうよ」

 ヘイズは、テーブルの上に組んだ手を少しだけ前に押し出した。

「ヨーロッパ全土を覆うオーロラ、広域の異常気象、そして集団ヒステリーに近い民衆の不気味な精神的同調。これがただの自然現象の偶然の重なりでないことは、火を見るより明らかよ。……あなたたちなら、この狂騒の裏で一体何が起きているのか、当然何か知っているんじゃないの?」


 ヘイズの追及は苛烈だった。

 彼女は、セレスティアル・ウォッチという組織が持つ圧倒的な情報収集能力と、地球外テクノロジーに対する深い知見を逆手に取り、彼らが情報を隠匿しているという前提で問いを突きつけたのだ。


 しかし、アルファの態度は、ヘイズの放つ熱を完全に吸収してしまうほど、不気味なまでに淡白だった。


「まず、ご報告します。大統領」


 アルファは、深い影に覆われた顔のまま、少しだけ顎を引いた。

 その声には、未知の現象に対する驚きも、同盟国が危機に瀕していることへの焦りも、微塵も含まれていなかった。ただ、自らの組織の計算から外れたノイズが発生したという、極めて事務的な事実の報告だけがあった。


「現在進行中のこの事態は、我々セレスティアル・ウォッチとしても、想定を上回る速度で表層化しました。現象の規模とタイミングについては、我々の予測モデルに若干の誤差が生じたことを認めます」


 それは、実質的に「我々もここまでの事態が今夜起きるとは思っていなかった」という、彼ららしからぬ情報把握の遅れの告白だった。


「……あなたたちにとっても、予想外だったと?」

 ヘイズは、眉をわずかにひそめた。あの全知全能を気取る組織が、ヨーロッパ全土を巻き込む異常事態を事前におさえきれていなかったという事実。


「ですが、原因についてはすでに明確な目星がついています」

 アルファは、ヘイズの疑念を遮るように、淡々と断言した。


「それは、自然発生的な地球の磁場異常などではなく……完全に、人為的なものです」


「人為的?」

 ヘイズの傍らに立っていた国家安全保障担当補佐官が、思わず耐えきれずに声を上げた。

「あれだけの大規模な気象異常と、ヨーロッパ全域の電離層の乱れを、人間の手で引き起こしたというのか? どこのテロ組織だ? 中国か、ロシアの新型の環境兵器か!?」


「国際秘教団体『ヘルメス協会』です」


 アルファは、補佐官の切迫した問いと驚愕を完全に無視し、ヘイズ大統領の目だけを見て、冷徹にその組織名を口にした。


「ヘルメス協会……。ヨーロッパの古い貴族や知識階級の集まりね」

 ヘイズは、過去にCIAやNSAの長官から提出されたインテリジェンスの報告書の中で、何度か目にしたことのあるそのオカルト結社の名前を、記憶の底から正確に引きずり出した。


「はい」

 アルファは、初めてわずかに頷くような仕草を見せた。

「彼らは、地球外文明が過去にヨーロッパへ来訪し、一部の特権的な人類に高度な叡智を授けたという思想を、単なる歴史の仮説ではなく、狂信的な信仰に近い形で保持している集団です。長年、古代遺跡の探索や、失われたとされる儀式の再現に莫大な資金と人的リソースを投じてきました」


 アルファは、言葉を区切り、まるで愚かな子供の火遊びを解説するかのようなトーンで続けた。


「我々も、彼らが地中海の周辺で不穏な動きを見せているという初期報告は、以前から受けていました。しかし、彼らが収集している遺物の中に、『本当に使える』決定的な地球外テクノロジーが存在すると断定できるだけの、科学的な材料は不足していました」


「そして今は」

 ヘイズが、検事としての鋭利な感覚で、アルファの言葉の先を鋭く引き継いだ。

「その『材料不足』という判断を変えざるを得ないだけの、決定的な結果が空に表示されたと?」


「ええ」

 アルファは、一切の躊躇なく肯定した。


「彼らは、地中海の底から、あるいは我々の網の目を掻い潜った未発見の遺跡から、本物の地球外テクノロジーのアーティファクトを入手した可能性が極めて高い。……しかも、現状の観測データを見る限り、それはただのガラクタや記録媒体ではなく、明確に“使える”テクノロジーだったようです」


 “使える”テクノロジー。

 その言葉の圧倒的な重みに、防音壁に囲まれた状況室の空気が一段と冷え込み、重圧を増した。補佐官は息を呑み、ヘイズはテーブルの上で組んだ手にギュッと力を込めた。


「あの大規模な異常気象の操作能力、ならびに地球上の人間全体を薄く包み込むように波及している低強度の精神干渉波。我々の技術解析部門は、あれが相当上位のアーティファクトによるエネルギーの漏出であると判断しています」


 アルファの説明は、あまりにも淡白で、そして残酷な事実の羅列だった。

 彼らは、アメリカ合衆国政府が全く危険視していなかった古臭いカルト集団が、世界を文字通り滅ぼしかねない上位の地球外兵器を手に入れ、それを実際に起動させつつあるという事実を、まるで明日の株価の変動でも報告するかのように無感情に語っている。


「……それが事実なら、事態は一刻を争うわ」


 ヘイズは、国家の危機管理のトップとして、そして世界秩序の維持を背負う覇権国家の大統領として、当然至極の結論を口にした。


「彼らの地下拠点を即座に特定し、アーティファクトを武力で無力化、あるいは回収する必要がある。これ以上の現象の拡大は、ヨーロッパ経済の麻痺どころか、国際社会に修復不可能なパニックと混乱を招くわ。場合によっては、欧州各国首脳へのトップダウンでの極秘通達も辞さない」


 だが、アルファの口から次に出た言葉は、ヘイズの理路整然とした危機管理のプロセスを、根底から嘲笑うかのように覆すものだった。


「大統領。誤解しないでいただきたい」


 アルファは、わずかに首を傾げ、その漆黒の視線でヘイズを射抜いた。


「今ヨーロッパの空で起きているあの現象は、アーティファクトの本格的な起動による結果ではありません。……彼らはまだ、儀式の『準備段階』にある可能性が濃厚です」


 その言葉が意味する底知れぬ絶望と恐怖に、キャサリン・ヘイズ大統領の鉄の仮面が、この夜初めて明確にひび割れた。


「まだ……これが準備段階だと言うの?」


 ヘイズの声は、怒りよりも、純粋な戦慄によって微かに震えていた。

 西ヨーロッパ全土の空を毒々しく染め上げる巨大なオーロラ、広域の気候システムを根底から狂わせる大気の乱れ、そして、世界中の何百万という感受性の高い人間たちの精神を直接苛み、集団的なパニックへと追いやっている見えない干渉波。

 あれだけの大規模な異常事態が、アーティファクトの持つ本来の機能ですらなく、ただの「準備」や「アイドリング状態への移行」に伴うエネルギーの漏出に過ぎないというのか。


「その可能性が濃厚です」


 アルファは、ヘイズの戦慄を前にしても、冷徹な分析官としてのトーンを一切崩さなかった。

「彼らの儀式は、単にスイッチを押せば済むようなものではありません。空間の同期、参加者の精神波長のチューニング、そして何らかの天体配置とのリンク。それらの複雑なプロセスを経て、初めて星円盤は完全な励起状態から『起動』へと至ると推測されます」


 ヘイズは、テーブルの縁を握りしめ、身を乗り出した。


「本番では、何が起きるの?」


 それは、国家の指導者として、いや、地球人類の代表として突きつけるべき、最も根源的な問いだった。


「それはいつなの? あなたたちは、あのアーティファクトが完全に起動した際の最悪のシナリオを、どこまで想定しているの?」


 息を呑むような沈黙が、状況室に降りた。

 傍らに立つ国家安全保障担当補佐官も、喉仏を上下させ、影の組織のトップが下すであろう破滅的な宣告を待った。

 だが、数秒の間の後、アルファの口から出たのは、彼らの絶対的な優位性を自ら否定するような、極めて珍しい言葉だった。


「不明です」


 その率直すぎる、そして無責任にすら聞こえる回答に、ヘイズは鋭く目を細めた。


「あのアーティファクトの本来の機能、目的、そして完全に起動した際に地球環境や人類の精神構造にどのような致命的な影響を及ぼすか。現在の我々のデータと科学的知見では、正確なシミュレーションは不可能です」

 アルファは、自らの組織の限界を認めることにすら、一切の感情を交えなかった。

「ただ、ヘルメス協会内部に潜入している我々のエージェントからの断片情報では……一カ月後の新月の夜が、彼らの儀式の『本番』であると見られています」


「一カ月後……」

 ヘイズは、残された猶予のあまりの短さに、奥歯を強く噛み締めた。

 一カ月。未知の地球外テクノロジーの起動を阻止し、世界的なパニックを防ぐための時間としては、あまりにも絶望的だった。


「現状、我々から提供できる確証レベルの情報は以上です。……よろしいでしょうか、大統領」


 アルファは、自らの報告義務は果たしたと言わんばかりに、身を翻して退出の姿勢を見せた。漆黒のコートが翻り、分厚い防音扉へと向かって静かな足音を立て始める。


「待って」


 ヘイズの冷たく、そして鋭い声が、アルファの背中を射抜いた。

 彼女の灰色の瞳には、目前に迫る危機に対する恐怖ではなく、むしろ、ある「決定的な矛盾」を見つけ出した検事特有の、研ぎ澄まされた光が宿っていた。

 彼女の脳内で、アルファの報告内容と、彼自身の態度の間にある致命的な乖離が、強烈な警報を鳴らしていたのだ。


「何かおかしいわ」


 ヘイズは、ゆっくりと席から立ち上がり、立ち止まったアルファの背中に向かって言葉を紡いだ。


「ここまで大規模な異常がヨーロッパの空で起きていて、しかもそれがまだ準備段階に過ぎない。本番は一カ月後で、何が起きるかも分からない。地球規模の破滅すらあり得る……それほどの致命的な危機が迫っているというのに」


 ヘイズは、振り返ったアルファの顔のない影を、真っ直ぐに睨みつけた。


「あなた、セレスティアル・ウォッチの代表であるあなたが、どうしてここで私に『強硬手段へ出るよう』訴えないの?」


 状況室の空気が、ピタリと凍りついた。

 補佐官は、大統領のその鋭すぎる指摘にハッとし、アルファへと視線を移した。


「あなたたちの組織は、未知のテクノロジーを独占し、覇権を握るためなら、手段を選ばないはずよ。同盟国の主権など無視して、特殊部隊を秘密裏に送り込み、アーティファクトを強奪するための大統領権限と黙認を私に要求するのが、いつものあなたたちの『筋』でしょう?」


 ヘイズの追及は、アルファの態度の底に潜む不自然さを正確に抉り出していた。

 地球外テクノロジーに対する彼らの貪欲さと執着は、常軌を逸しているはずなのだ。


「なのに、あなたは何も言わずに下がろうとしている。……事態の推移を見守る? 裏工作や監視だけで何とかなるような段階は、あのオーロラが出た時点でもう過ぎているでしょう」


 大統領の論理的な詰問に対し、アルファは深い影の底から、わずかに間を置いて答えた。


「我々を勘違いしているようだ、大統領」


 アルファは、全く悪びれることなく、平坦な声で言い放った。


「ここまで表向きに騒動になり、世界中のインテリジェンス、メディア、そして大衆の目がヨーロッパの異常に釘付けになっている現状において、我々が前面に出て強引に軍事的介入を行う利益は薄い、と判断しているだけです。……我々は、割に合わないリスクを冒す無謀なギャンブラーではない」


 それは、極めて合理的で、もっともらしい言い訳だった。

 だが、その言葉を聞いて、ヘイズの内部でパズルの最後のピースがカチリとはまった。


 嘘だ。

 セレスティアル・ウォッチが、大衆の目や国際社会の非難を恐れて、世界を支配し得る上位のアーティファクトの回収を諦めるはずがない。彼らは、必要とあらば街の一つや二つを灰にしてでも、目的を遂行する連中だ。

 彼らがこの致命的な危機に対して「動かない」、あるいは「熱量を持たない」理由は、たった一つしか考えられない。


「あなたたち……今、ほかに何を進めてるの?」


 ヘイズは、相手の偽装を剥ぎ取る、核心を突く決定的な問いを投げ放った。

 ヘルメス協会のアーティファクトよりも優先すべき、何か決定的な盤面を、彼らは密かに動かしているのだ。


 アルファは、大統領のその直感の鋭さに、微かに沈黙した。

 しかし、彼の回答は、あらかじめ用意されていたかのように滑らかだった。


「アポロンの矢の解析中です」


 アルファは、嘘は言わず、しかし本質を完全にぼかす言葉を選んだ。


「ほかには、日本の出雲案件に、データを収集するための研修生チームを送り込もうとしていますが、それだけです。……我々のリソースも無限ではありませんから」


 ヘイズは、その言葉を脳内で急速に咀嚼した。

 アポロンの矢の「解析」。いや、違う。彼らのあの淡白な態度から推測するに、おそらく解析などという生ぬるい段階はとうに過ぎている。あれはすでに「実用化」あるいは「量産」のフェーズに入っているのだ。

 そして、出雲の特異点に対する異常なまでの関心。

 彼らの真の優先順位は、ヘルメス協会などにはない。ヨーロッパの危機は、彼らにとってはあくまで「他人の家の火事」であり、自分たちが世界を支配するための絶対的な力(アポロンの矢)の完成こそが、彼らの本命なのだ。


 ヘイズは、その恐るべき事実を内心で完全に理解しながらも、表情には一切出さなかった。


「そう……」


 ヘイズは、アルファの言葉を額面通りに受け取ったふりをして、微かに口角を上げた。


「私の勘違いというわけね」


「ええ、そうです。では、失礼します」


 アルファは短く一礼し、踵を返すと、分厚い防音扉の向こうへと音もなく消えていった。


 ***


 重厚な扉が完全に閉ざされ、極秘状況室に残されたのは、ヘイズ大統領と、息を呑んで二人のやり取りを見守っていた側近たちだけだった。

 身を焦がすような沈黙が部屋を支配する中、ヘイズはゆっくりと自分の席に座り直した。彼女の顔に、情報を得たことによる安堵の色は全くない。


「……大統領。彼らの言葉を信じますか?」

 補佐官が、ひび割れた声で恐る恐る尋ねた。


「信じるわけないでしょう」

 ヘイズは、氷のように冷たく吐き捨てた。


 彼女は、為政者として背筋が凍るような孤独と絶望を感じていた。

 ヘルメス協会の儀式は本物であり、一カ月後には人類の歴史を終わらせかねない破滅が訪れるかもしれない。それは紛れもない事実だ。

 だが、アメリカ合衆国の深部に巣食うセレスティアル・ウォッチは、その危機を正確に把握していながら、あえてそれを「最優先」にはしていない。彼らの莫大なリソースと狂信的な熱意は、大統領にすら隠匿している「別の盤面」へと注ぎ込まれている。


 アメリカ合衆国政府と、影の秘密組織は、今や完全に同じ危機を見ていない。彼らは同じ船に乗っていながら、全く別の羅針盤を見て舵を切ろうとしているのだ。


「情報は得たわ……」


 ヘイズは、誰もいなくなった扉を見つめながら、静かに、そして苦々しい独白をこぼした。


「でも、私が一番欲しかった『安心』は、何一つ手に入らなかった」


 彼女は、テーブルの上のセキュア・タブレットに目を落とした。そこには依然として、ヨーロッパの空が異常な色に染まる映像が映し出されている。

 しかし、彼女にとって真の恐怖は、遠く離れた同盟国の空にあるのではなかった。


「ヘルメス協会だけじゃない。……問題は、この国の中にいる“別の優先順位”そのものだわ」


 世界が未知の神秘に恐怖し、空が歌うその裏側で。

 覇権国家の頂点に立つ彼女は、自分たちの足元が、すでに国家の理性を離れた制御不能な怪物たちによって切り崩されているという冷酷な現実に、ただ一人、静かに立ち尽くしていた。



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ヘイズ大統領は本編より孤独だな。
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