第17話 旧式兵器と、門前で廃人になる話
大気圏外、高度四百キロメートル。
地球上のあらゆる国家、軍隊、情報機関のレーダー網を完全にすり抜け、絶対的な静寂の中で軌道上を滑る超弩級ステルス宇宙ステーション〈サイト・アオ〉。
その中枢ブロックに位置する小型会議室は、本来ならば銀河規模の重大な意思決定が行われるべき厳粛な空間であるはずだった。
しかし現在、この部屋の空気は、そのような緊張感とは無縁の、極めて弛緩しきった気怠い温度に満たされていた。
部屋の中央に配置された、人間工学と流体力学の粋を集めた最高級のパーソナルソファ。
そこに、銀河帝国最高権力者のクローン・スペアとして培養された完璧な肉体を持つ男、ティアナ・レグリアが、文字通り骨抜きになったような姿勢で斜めにだらりと寄りかかっていた。
彼はゆったりとした地球製のラフなスウェットを身に纏い、片手にはどこからか調達してきたフルーツ味の炭酸飲料の缶を握っている。
美しい銀糸の髪は無造作に乱れ、その表情には、地球という惑星で現在同時多発的に進行している致命的な危機に対する焦燥感など、微塵も浮かんでいなかった。
「……代表。間もなく、定例の通信プロトコルが接続されます」
流体金属のボディを持つ副官、XT-378が、微かな駆動音すら立てずにティアナの傍らに寄り添い、事務的なトーンで告げた。
彼の無機質な光学センサーは、空間に展開された無数のホログラフィック・コンソールを超高速でスキャンしている。
現在構築しようとしているのは、地球上のいかなるスーパーコンピュータでも解読不可能な、十一次元量子暗号を用いた極秘の通信回線だ。
「んー、もうそんな時間?」
ティアナは、炭酸飲料をごくりと喉に流し込みながら、面倒くさそうに首を傾げた。
「まあいいや。繋いじゃって」
部屋の隅のコンソールで、地球の膨大な情報アーカイブを整理していたエミリー・カーター研究員は、そのあまりにも軽いティアナの態度に、内心で深い溜息をついた。
これから通信を繋ぐ相手は、そこらの企業の役員や、地球の凡庸な政治家ではないのだ。
大統領すらその全貌を把握しておらず、目的のためなら街の一つや二つを平気で灰にするであろう、地球上で最も冷酷で危険な影の組織――"セレスティアル・ウォッチ"のトップである。
そんな相手との「定例会議」に、スウェット姿で炭酸飲料を飲みながら臨もうとするこの代表の神経は、エミリーのような地球人の常識的な感覚からすれば、もはや狂気の沙汰にしか見えなかった。
「回線、安定しました。映像および音声の双方向リンクを確立します」
XT-378の宣言と同時に、会議室の中央の空間が青白く発光し、粒子が寄り集まって一つの鮮明な立体ホログラムを形成した。
そこに映し出されたのは、ワシントンD.C.の地下深くに位置するであろう「エリア・デルタ」の重苦しい一室だった。
黒色鋼で覆われた冷ややかな壁面。
一切の装飾を排した無機質な空間。
そして、その中央に座る、常に深い闇色のコートに身を包み、顔の半分を濃い影で覆い隠した男――オブザーバー・アルファの姿だった。
アルファの纏う空気は、〈サイト・アオ〉の弛緩したそれとは対極にあった。
極度に研ぎ澄まされた刃のような緊張感。
世界の裏側を支配し、人類の歴史を自らの意のままに操作しようとする者特有の、底知れぬ威圧感と覇気が、ホログラム越しにすらびりびりと伝わってくる。
エミリーは思わず背筋を伸ばし、ホログラムとして同席している科学部門責任者のザーラ・クォルム博士も、巨大なキノコ型の傘の明滅をピタリと止めて静観の姿勢に入った。
圧倒的な熱量の差。
そして、致命的なまでの文明の格差。
その二つの異質な世界が、量子暗号回線を通じて今、正面から交わろうとしていた。
「やっほー、定例会議だね」
そのヒリつくような冷戦の空気を、ティアナの間の抜けた、ひどく軽い第一声があっさりと打ち砕いた。
ティアナはソファから立ち上がることも、姿勢を正すこともなく、炭酸飲料の缶を軽く振ってみせた。
「そっちは夜中かな? お疲れ様。今日は何? 何か良い報告でも持ってきてくれたの?」
そのまるで、近所の友人に今日の夕飯のおかずを尋ねるかのような気軽な問いかけに対し、ホログラムの中のアルファは、深い影の底で微かに沈黙した。
地球上のいかなる権力者であろうと、アルファを前にしてこれほど無防備で不遜な態度をとる者はいない。
だが、相手は遥か高次元の文明を背景に持つ、絶対的な上位存在である。
アルファは、自らの内に湧き上がるであろう不快感や支配欲を完璧にコントロールし、極めて冷静な、実務者のトーンで口を開いた。
「……そちらも変わりないようで何よりだ。本日は、我々セレスティアル・ウォッチが進めているプロジェクトの『大きな進捗』について、まず共有しておこう」
アルファの声には、普段の冷徹さの中に、ほんのわずかだが、確かな「自負」と「誇り」の念が滲んでいた。
それは、彼らが血と汗を流し、多大な犠牲を払って手に入れた成果を、上位存在であるティアナに対して『どうだ』と示そうとする、人間の根源的な承認欲求の発露でもあった。
「へえ、進捗ね。聞かせてよ」
ティアナは、ソファのクッションを抱え込みながら、面白そうに目を細めた。
「地中海で回収したあの遺物……『アポロンの矢』についてだ」
アルファがその名を口にした瞬間、彼の手元の操作によって、ホログラムの脇に新たな映像データが展開された。
ネバダの地下実験場で、巨大な拘束具と冷却パイプに繋がれた銀色の円筒形兵器。
そして、それが放つ純白の破壊の閃光によって、分厚い複合装甲が文字通り分子レベルで蒸発していく、あの戦慄の実験映像だった。
「我々の技術開発部門は、あの未知のブラックボックスの解析を飛躍的に進めた」
アルファは、滔々と報告を続ける。
「破損していた安全装置は、我々が独自に開発した電磁フィールド・ダンパーと外部冷却サイクルのバイパスによって完全に克服された。出力の制御起動、および指向性エネルギー兵器としての運用性、安全性において、もはやいかなる問題も存在しない」
アルファの言葉の裏には、地球の現代科学の限界を突破し、異星のテクノロジーを手懐けてみせたという、セレスティアル・ウォッチの圧倒的な技術力への絶対的な自信があった。
「さらに」
アルファは、言葉に力を込めた。
「オリジナルの構造を解析し、その破壊原理の一部を抽出・補完した『派生型』の量産計画も、極めて順調だ。現在、必要な希少金属の調達ルートを確立し、地下工廠における実戦配備へ向けた組み立てラインの整備が急ピッチで進行している。……間もなく我々は、この兵器の『数を揃える』段階に入る」
それは、地球という惑星における軍事バランスが、完全に、そして不可逆的に崩壊することを意味する恐るべき宣言だった。
核抑止力という過去の遺物は紙屑と同義になり、この神の雷霆を量産したセレスティアル・ウォッチこそが、世界を支配する唯一にして絶対の覇権組織となる。
アルファにとって、これは組織の歴史上、最大の悲願の達成に他ならなかった。
「我々としては、これで人類史における究極の『新兵器』の完成に、極めて近い段階まで到達したと考えている」
アルファは、報告をそう締めくくった。
ホログラム越しの彼の姿は、偉業を成し遂げた指導者の威厳に満ちていた。
彼は、上位存在であるティアナから、一定の驚嘆、あるいは警戒、少なくとも「地球人類もここまで来たか」というある種の評価を引き出せるものと確信していたはずだ。
だが。
「へえ……おめでとう!」
ティアナから返ってきたのは、アルファの期待とは全くベクトルが異なる、まるで子供が初めて自転車に乗れたのを見た親のような、無邪気で、そして圧倒的に『上から目線』の祝福だった。
ティアナは、抱えていたクッションをぽんと手放し、本当に嬉しそうにパチパチと軽い拍手を送った。
「いやあ、すごいね! あの焼け焦げて安全装置もイカれてた鉄パイプを、地球の設備だけで再起動させて、しかも量産のラインまで乗せちゃうなんて。君たちの組織の技術部、かなり優秀なんじゃない? 素直に褒めてあげるよ」
その言葉自体は賞賛だったが、そこに含まれるニュアンスは、アルファの冷徹なプライドの表面を、やすりで削り取るような違和感を伴っていた。
ホログラムの中のアルファが、微かに動きを止めた。
「……我々としては、新兵器のつもりなのだがな。そちらの基準から見ても、一定の評価に値する成果だと自負している」
アルファは、ティアナの軽すぎる反応に対して、静かに、しかし明確に釘を刺そうとした。
自分たちが手にしたのは、世界を統べる絶対的な力なのだと。
しかし、ティアナはそのアルファの矜持を、身も蓋もない一言で、文字通り一刀両断に切り捨てた。
「新兵器? 馬鹿言っちゃいけないよ」
ティアナは、炭酸飲料の缶をテーブルにコトリと置き、呆れたようにため息をついた。
「あれ、所詮ただの『歩兵の護身用兵器』だからね。しかも、銀河の基準で言えば、博物館に飾るレベルの超旧式だよ」
その一言が放たれた瞬間、ホログラムの向こう側の空気が、物理的な質量を持って凍りついたのが分かった。
アルファの顔を覆う深い影の奥で、彼の瞳が驚愕と屈辱に見開かれたであろうことは、想像に難くない。
「……旧式、だと?」
常に感情を制御し、いかなる事態にも冷徹に対処してきたアルファの声が、この時ばかりは微かに、しかし確かに掠れていた。
彼らが血眼になって追い求め、世界を支配するための切り札として量産しようとしている「神の矢」。
分厚い複合装甲を紙のように蒸発させるあの圧倒的な破壊力が、ただの『護身用』であり、しかも『超旧式』だと言うのか。
「うん。だってあれ、銀河帝国で大昔に使われてた『G7-Vブラスター』の、さらにダウングレードされた廉価版みたいなモデルでしょ」
ティアナは、アルファの受けた衝撃など全く意に介することなく、残酷な真実をあっさりと並べ立てた。
「エネルギー効率は最悪だし、排熱処理の構造は無駄にデカいし、何より安全装置のアナログな作りが時代遅れすぎる。今の銀河じゃ、あんな重くて燃費の悪い骨董品、辺境の星の開拓民だって護身用に持ち歩かないよ。せいぜい、荒くれ者の傭兵が脅し用に腰にぶら下げるくらいかな」
それは、地球の覇権を争う彼らの努力を、根本から否定する絶対的な文明格差の提示だった。
アリが一生懸命に落ち葉を拾い集めて城を作り、「どうだ、すごい要塞だろう」と人間に誇っている。それを人間が「うん、よくできた葉っぱのお家だね」と笑っている。
今、ティアナとアルファの間にあるのは、まさにその絶望的なまでのスケールの違いだった。
エミリーは、ホログラム越しのアルファが放つ、静かだが濃密な殺気と屈辱の波動を感じ取り、思わず身震いをした。
(代表……相手は一応、地球で一番ヤバい組織のトップなんですよ……少しはオブラートに包んであげればいいのに……)
だが、ティアナの無慈悲な追撃はまだ終わらなかった。
「でもまあ、送ってもらったデータを見た限りじゃ、君たちが付け足した冷却ダンパーの設計は悪くないよ」
ティアナは、指先で空中にグラフを描くような仕草をした。
「エネルギーの逆流に対する安全性も、今のところは問題ないみたいだし、連鎖的な暴走を引き起こして大陸が一つ吹き飛ぶようなお粗末なミスもしてないみたいだしね」
ティアナは、にっこりと無邪気な笑みを浮かべ、この兵器に対する最終的な『許可』を下した。
「だから、地球で遊ぶ分には構わないと思うよ?」
地球で、遊ぶ分には。
アルファにとって、これほど自尊心を粉々に打ち砕かれる言葉はなかっただろう。
彼らが真剣に、命を懸けて取り組んでいる世界支配の野望が、上位存在にとっては砂場での子供の『お遊戯』に過ぎない。
その絶対的な事実を、これ以上ないほど残酷な形で突きつけられたのだ。
ホログラムの向こうのエリア・デルタの会議室は、完全な沈黙に包まれた。
アルファの沈黙は数秒間続いた。
その数秒の間に、彼は自身の内部で荒れ狂う屈辱、怒り、そして上位存在に対する抗いがたい恐怖を、強靭な精神力で完全に押し殺し、再び冷徹な指導者の仮面を被り直すという、超人的な心理的処理を行っていた。
「……なるほど」
再び口を開いたアルファの声は、先ほどまでの誇りも熱も完全に消え失せた、絶対零度の機械のような響きを取り戻していた。
「上位存在であるそちらから見れば、我々の成果などその程度のものだということだな。……理解した。この件については、これ以上の報告は不要だろう」
アルファは、自らの傷口をこれ以上抉られる前に、見事に話題を強制終了させた。
屈辱にまみれながらも、感情に流されずに即座に目的をシフトする。その強靭な切り替えの早さこそが、彼がセレスティアル・ウォッチの頂点に君臨する所以でもあった。
「アポロンの矢の件は、もういい」
アルファは、ホログラムの視線をわずかに上げ、ティアナの瞳を真っ直ぐに捉え直した。
「今回は、そちらに聞きたい『本題』がある」
その声のトーンの変化で、ティアナも、エミリーも、そしてXT-378も、空気が一変したことを悟った。
アルファにとって、アポロンの矢量産計画の報告は、あくまで前座に過ぎなかったのだ。
彼が真に知りたいこと、そして現在最も警戒している事象は、他にあった。
「本題?」
ティアナは、微かに首を傾げた。
「ヘルメス協会の件についてだ」
アルファがその名を口にした瞬間、地下の重苦しい闇が、ホログラムを通じて〈サイト・アオ〉の明るいラウンジへと浸食してくるような錯覚を、エミリーは覚えた。
「ヘルメス協会……。ヨーロッパで今まさに、空を毒々しい色に染め上げている連中のことだね?」
ティアナは、炭酸飲料の缶を指先で弄りながら、アルファの問いに極めて軽い調子で応じた。
「ああ。そうだ」
アルファは、ホログラムの向こう側で深く頷いた。
「我々も独自のルートで、彼らが地中海から引き揚げた『ミノスの星円盤』と呼称されるアーティファクトの起動準備に入ったことは把握している。そして、その漏れ出したエネルギーが、気候のみならず、地球人類の精神に広範な干渉を与え始めていることも」
アルファはそこで言葉を区切り、探るような視線でティアナを見据えた。
「だが、奇妙なのはそちらの対応だ」
アルファの声には、純粋な疑問と、底知れぬ警戒心が入り混じっていた。
「そちらは、あのヨーロッパの異常事態に対して、現在に至るまで一切の物理的干渉を行っていない。衛星軌道上から高みの見物を決め込んでいるように見える。……サイト・アオが干渉しないということは、そちらの基準に照らし合わせても、あのアーティファクトの危険性は『限定的』であると認識している。そういうことだな?」
アルファは、自らの組織の分析を、ティアナの反応によって裏付けようとしていた。
「少なくとも、あの儀式が完了した瞬間に、地球が物理的に吹き飛ぶとか、人類が丸ごと滅びる類のテクノロジーではない……そう考えていいのか?」
地球の運命を左右するその重い問いかけに対し、ティアナはソファの上でだらりと足を伸ばし、欠伸を噛み殺すようにして答えた。
「まあね」
そのたった三文字の肯定が、どれほどアルファと人類にとって安堵をもたらすものか、ティアナは全く気にしていない様子だった。
「あれ、別に破壊兵器とかじゃないから。……まあ、完全に起動したら、儀式に参加してるコアメンバーの脳みそに、星間通信の術とか、空間を調和の波動で渡る術とかの知識パッケージが、強制的にダウンロードされる程度だよ」
ティアナのそのあっさりとした説明に、ホログラム越しのアルファが、今度こそ完全に動きを止めた。
常に冷徹な彼が、二度も絶句する。
それは、ティアナの口から飛び出した言葉が、地球の科学の常識を根底から覆す、あまりにも途方もない概念だったからだ。
「……空間を、調和の波動で渡る術、だと?」
アルファは、一語一語を確かめるように、震える声で反芻した。
星間通信。そして、空間を渡る術。
それが意味するものを、セレスティアル・ウォッチの最高権力者である彼が理解できないはずがなかった。
「うん。地球の言葉でざっくり言えば……『超光速航法』の基礎理論ってやつだね」
超光速航法。
光の速度を超える移動手段。
アインシュタインの相対性理論という地球物理学の絶対的な壁を打ち破り、人類が太陽系という小さな揺り籠を抜け出して、果てしない大宇宙へと進出するための、究極の「鍵」。
ヘルメス協会の狂信者たちが、古のアーティファクトを通じて得ようとしているのは、単なるオカルトの奇蹟などではなく、本物の「宇宙へ出るための術」だったのだ。
「超光速航法……! 彼らが、それを手にするというのか……!」
アルファの声に、抑えきれない熱と、そして強烈な焦燥が混じった。
もしヘルメス協会がそんなものを手に入れれば、アメリカ合衆国が、いや、セレスティアル・ウォッチが世界を支配するための大前提である「地球という閉鎖空間」そのものの意味が変わってしまう。
覇権の概念そのものが、根底から覆されるのだ。
「あ、勘違いしないでよ」
ティアナは、慌てふためくアルファを宥めるように手を振った。
「別に、空からピカピカの宇宙船や、反物質エンジンの現物が降ってくるわけじゃないからね。ダウンロードされるのは、あくまで『術』……つまり、基礎的な理論と、それを認識するための思考のフレームワークだけだよ」
その言葉を補足するように、ホログラムとして同席していたザーラ博士が、静かな声で口を開いた。
「代表の仰る通りです。アカイア人……あの星円盤を製作したとされる種族のテクノロジーは、物質的な設計図をディスプレイに表示するような野蛮なものではありません。対象者の精神波長と同期し、文明的な『認識のフレーム』そのものを直接、脳の神経回路へ移植するようなアプローチをとります。……ですので、ダウンロードが完了したからといって、今の地球の工業力と素材で、明日すぐにワープ・ドライブが作れるわけではありません」
ザーラの理路整然とした解説に、アルファは少しだけ落ち着きを取り戻した。
現物が手に入らないのであれば、すぐさま世界のパワーバランスが崩れることはない。
だが、それでも「理論」が存在するという事実だけで、十分に危険な火種にはなり得る。
「……なるほど。物質的な脅威が直ちに現れるわけではないことは理解した」
アルファは、思考を急速に整理しながら言った。
「だが、それでも放置できるものではない。彼らがその知識を元に長期的……いや、中長期的に何らかの技術的ブレイクスルーを果たせば、我々の制御を超える」
「まあ、そう慌てなさんな。話には続きがあるんだよ」
ティアナは、炭酸飲料の残りを飲み干し、空になった缶を指先で器用に弄りながら、薄く笑った。
「便利な知識のパッケージには、必ず『おまけ』がついてくるもんだ。……儀式が終わったら、知識と一緒に、『アカイア人の思想』ってやつが、連中の脳みそに伝播するぐらいかな」
アルファは、再び警戒のアンテナを鋭く立てた。
「……アカイア人の思想?」
「そう。星円盤を作った連中の、頭の中身さ」
ティアナは、まるで昔の笑い話を披露するかのような、ひどく気楽な口調で語り始めた。
「アカイア人っていうのはね、大昔にこの銀河の片隅にいた、精神の調和を極めた星間種族なんだよ。彼らは争いを憎み、個人のエゴを消し去り、宇宙全体との精神的な一体感……彼らの言葉で言う『完全なる調和』ってやつを徹底的に追求した。……で、どうなったと思う?」
ティアナは、アルファの答えを待たずに、ニヤリと笑って自ら答えを口にした。
「精神の調和を極めすぎて、最終的に『物質世界で生きること』への関心を、完全に喪失しちゃったんだよ」
会議室に、異様な沈黙が落ちた。
エミリーは、その言葉の意味する恐ろしさに、背筋が粟立つ思いがした。
「食べることも、増えることも、技術を進歩させることも、自己を保存することすら『宇宙の調和を乱すノイズだ』って考えに行き着いちゃってね。結果、彼らは誰に侵略されるわけでもなく、戦争をするわけでもなく……ただ静かに、集団で食事や生殖を放棄して、砂漠で座禅を組んだままミイラになるみたいに、自然消滅の形で文明を終えたんだ」
ティアナは、カラカラと笑った。
「笑えるだろ? 高度な知識と技術を持っていながら、精神を研ぎ澄ましすぎて、物質世界がどうでもよくなって自滅したんだから。……彼らの思想の中には、究極の進歩と、究極の破滅が、完全に同居してるってわけさ。あの星円盤は、そんな連中の『遺書』みたいなもんだね」
その笑い声の軽さが、逆に事態の異常性と恐ろしさを際立たせていた。
アルファは、ホログラムの向こうで沈鬱な声を響かせた。
「……笑い事ではない。それは、立派な『思想汚染』だ。狂信的なカルト集団の脳内に、そんな自滅的な思想がインストールされれば、彼らがその思想を外の世界へ広めようとするのは明白だ。人類の生存欲求を根本から否定するミーム……それは、物理的な兵器以上に、十分危険だろう」
アルファの懸念は、極めて真っ当だった。
物質的欲望を失い、死すらも調和の一部として受け入れる。
そんな思想が人類全体に伝播すれば、文明は崩壊し、人類は緩やかに、しかし確実に絶滅へと向かう。
「うん、理屈の上ではね」
ティアナは、どこまでも能天気に肯いた。
「でも大丈夫。さっきも言ったけど、あれを受け取れるのは、儀式の中心にいるバリバリのコアメンバーだけだよ。それに、今の人類って、そんな極端な思想をすぐには受け入れられないくらい、欲望にまみれてるじゃん? 金が欲しい、権力が欲しい、長生きしたい。そういう泥臭いエゴがあるうちは、アカイア人の崇高な自滅思想なんて、強烈なアレルギー反応を起こして弾かれるのがオチさ」
ティアナは、ソファの背もたれに寄りかかり、両手を後頭部で組んだ。
「だから、人類が直ちに自滅に向かうような危険性はないってやつさ。まあ、儀式に参加した連中が、急に財産を全部手放して山に籠もって餓死するくらいのニュースにはなるかもしれないけどね」
「直ちに危険はない、か」
アルファは、その言葉の裏にある不吉な響きを正確に読み取っていた。
直ちに危険はない。
それは裏を返せば、時間をかけてゆっくりと、文明の方向性が狂わされていくという致命的な予言に他ならない。
「では、あのヨーロッパ周辺の空と、そこに住む一般市民への精神的な影響はどうなる? 現時点でも、かなりのパニックが起きているようだが」
アルファの問いに対し、ティアナは少しだけ冷たい、観察者としての顔を見せた。
「完全起動したら、あのオーロラはもっと派手になるし、精神干渉波も強くなる。……ヨーロッパ方面で『何か途方もないことが起きた』って強烈に認識する人類は、確実に増えるだろうね。スピリチュアルな連中の暴走も、手がつけられなくなるかもしれない」
ティアナはそこで言葉を区切り、ふっと息を吐いた。
「でもさ、人類って『慣れる』のが最大の特徴じゃん?」
その言葉は、エミリーの心臓を冷たい手で掴み上げるような響きを持っていた。
「最初はパニックになっても、空の色が変なのが日常になれば、そのうち『今日は紫のオーロラが出てるから傘を持っていこう』くらいの感覚になる。精神的なざわつきだって、新しい種類のストレスとして消化して、抗不安薬でも飲みながら仕事に行くようになるよ。……異常が、日常に埋め込まれていく。それが人類の強さであり、どうしようもない鈍感さだね」
静かな侵食。
一瞬で滅びるのではなく、空の色が変わり、狂気が日常に溶け込み、世界が少しずつ、しかし不可逆的に変質していく。
ティアナが語る「直ちに危険はない」という言葉の真意は、アルファにとっても、人類にとっても、戦う対象すら曖昧になる、最も厄介な事態の到来を意味していた。
「……理解した。我々としても、現状の静観という基本方針は維持しつつ、事態の推移をより厳密にモニタリングすることにしよう。貴重な情報提供に感謝する」
アルファは、必要な情報はすべて引き出したと判断し、これ以上の自尊心の摩耗を避けるために、速やかに定例会議を終了させようとした。
「では、本日はこれで――」
「あ、そうそう」
通信が切れる直前。
ティアナが、まるで今朝の朝食のメニューでも思い出したかのような気軽さで、アルファの言葉を遮った。
「僕的にはさ、ヨーロッパのオカルトマニアのお遊戯より、もっと憂慮してることがあるんだよね」
その一言で、通信を切ろうとしていたアルファの手がピタリと止まり、会議室の空気が再び張り詰めた。
「……何だ?」
アルファの声には、隠しきれない警戒感が滲み出ていた。
ヘルメス協会による超光速航法の知識とアカイア人の思想汚染。それすらも「大したことはない」と切り捨てたティアナが、わざわざ自ら「憂慮している」と口にする案件。
それがどれほどの危険を孕んでいるか、アルファの論理回路が最上級のアラートを鳴らしていた。
「出雲の件だよ」
ティアナの口から出たその地名に、アルファの顔を覆う影が、微かに揺れた。
「日本政府が『鳴動の淵』と呼んで隔離している、あの精神的拒絶領域のことか。……我々も先日の会議で、あそこを副目標とし、データ収集のための研修生チームを送り込む決定を下したところだが」
「君ら、あそこに強引に入ろうとするだろ?」
ティアナは、それまでの軽さを微かに潜め、珍しく真剣な、底冷えのするような視線でホログラムを見据えた。
「それ、止めてほしいんだよね」
明確な「要求」、あるいは「警告」。
アルファは、ティアナのその態度に強い疑念を抱いた。
「我々が『鳴動の淵』の謎を解き明かすことは……そちらにとって、都合が悪いのか?」
アルファは、上位存在が何か致命的な秘密を地球に隠しているのではないかという、セレスティアル・ウォッチ特有の疑い深さで探りを入れた。
「都合が悪いというかさ」
ティアナは、頭を掻きながら、心底面倒くさそうに溜息をついた。
「あそこの『管理人』と、ちょっと知り合いでさ。僕が勝手に入り口を開けるわけにはいかないんだよ」
管理人。
出雲のあの異常空間を、意思を持って管理している存在がいる。
その新たな情報に、アルファの思考が高速で回転する。
「調査するのはいいよ。外からデータを取るなり、遠巻きに観察するなり、好きにすればいい。でも、力任せに結界をこじ開けようとしたり、強引に中に踏み込もうとするのだけは、絶対にやめて」
ティアナの言葉には、もはや一切の軽口は混じっていなかった。
それは、純粋な警告であり、彼らへの哀れみすら含まれていた。
「強引に入れば、多分入った人間、全員廃人だぜ? 人間の脳の処理能力じゃ、あの庭の情報の奔流には絶対に耐えられない。……下手すると、ただの死人が出るだけじゃ済まないことになる」
ただの死人では済まない。
その言葉の重みに、アルファは深い沈黙に陥った。
彼は、自らの組織の技術力を過信しているが、同時に、ティアナという上位存在の言葉の真贋を見極める程度の理性は持ち合わせていた。
ティアナがここまで明確に「止める」と忠告してくるということは、そこに待ち受けているのは、彼らの部隊が全滅するレベルの、確実で物理的な「死」と「破滅」なのだ。
「……分かった」
アルファは、ここでは珍しく、自らの野心を飲み込み、素直に引き下がることを選んだ。
「強引に侵入することは止めておこう。現地へ向かうサブチームにも、境界線の外からのデータ収集に留めるよう、厳命する」
「ありがと。……あ、あとさ」
ティアナは、すぐにいつもの軽い調子に戻り、思いつきのようにもう一つの要求を付け足した。
「日本政府にも、そっちのルートからそれとなく伝えておいてほしいな。適当に『死人が出るから絶対に近づくな』とか、もっともらしい嘘をついてさ」
それは、セレスティアル・ウォッチという組織を、日本政府に対する都合の良い「警告のスピーカー」として使い走りにする要求だった。
だが、アルファはもはや、それに腹を立てる気力すら失っていた。
「……分かった。同盟国への非公式な情報共有という形で、警告を伝達しておこう」
アルファは、重々しく頷き、通信を終わらせるための最後の言葉を口にした。
「今回の忠告には、感謝する」
ホログラムが青白い光の粒子となって消散し、会議室には再び、〈サイト・アオ〉特有の無機質で静かな空気が戻ってきた。
エミリーは、大きく深呼吸をして、張り詰めていた肩の力を抜いた。
アポロンの矢を旧式と切り捨て、超光速航法の知識を大したことはないと笑い飛ばし、そして最後には、地球で最も危険な組織のトップに、出雲への侵入を諦めさせた。
このスウェット姿の代表は、ただソファに寝転がって軽口を叩いているだけで、地球の運命を決定づける幾つもの致命的な火種を、いとも簡単にコントロールしてみせたのだ。
「いやあ、無事に終わってよかったよかった」
ティアナは、大きく伸びをしながら、再び炭酸飲料の新しい缶に手を伸ばした。
「……代表。出雲の『魂の庭』は、そこまで危険なのですか?」
エミリーが、恐る恐る尋ねた。
「ん? ああ」
ティアナは、プシュッと缶のプルタブを開け、微かに目を細めた。
「ヘルメス協会が宇宙の知識を欲しがってる間はまだ可愛いもんさ。でもね、出雲のあれは……人間の『魂の根っこ』に直結してる。あそこを不用意にいじくれば、宇宙に出る前に、人類という種そのものの定義が崩壊しかねないからね。……まあ、連中が大人しくしててくれるなら、それに越したことはないよ」
その言葉の裏にある深い意味を、エミリーはまだ完全に理解することはできなかった。
だが、この銀河帝国のクローンが、地球という惑星に対して、彼なりの奇妙な責任感と愛着を持っていることだけは、確かに感じ取ることができたのだった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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