最終話。アイスバーグから戻って来たよ。
「ブエックション!」
大きなくしゃみをしたのはネイオットだ。宿の部屋でよかったと、カグハは密かに思った。
古生物研究所へ向かうその前に、一度宿へ戻ることに決めた二人と一匹。流石に極寒のアイスバーグに夜明けに入って、太陽の位置目測で10時間ほどもいたのだ、体力の減り具合はかなりのものである。
カグハの火の玉魔法、ネイオット曰くの暖房魔法がなければ絶対にできえない強行軍であった。くしゃみ程度で済んでいるのは暖房魔法のおかげか、それともネイオットの体が丈夫すぎるのか。
当然のようにアイスバーグを出てからの道中、みんながみんな氷狼に注目していた。ふてぶてしい態度でズシズシ歩く美しい黒毛の子犬が珍しくないはずがなかった。
おまけにそれをつれている人二人は、どうにも意思の疎通が完璧に行えている。大道芸人と言う風でもない二人にもまた、注目が集まっていた。
が、疲労で周りに気を配り切れなかったので、大して気にならなかった二人であった。
宿屋の主人は氷狼の入店をしぶったが、迷惑はかけないと言うカグハの言葉を一人分の代金を追加で徴収することで購入している。
「はい、これ着てね」
言って自分がさっきまで着込んでいた防寒具のうち、毛皮のコートを渡す。
「やめてくれ、真夏だぞ今。そんなの着たら一人蒸し焼きの刑だ。殺す気か」
「でも」
「くしゃみだけだ、体は歩いてる間にあったまったから問題ねえ。それより戦利品と犬っころは大丈夫なのか?」
『犬って言うな!』
ワンワン吼える氷狼をなでて宥めつつ、カグハはこたえる。
「本人が氷魔力で体冷やしてるから大丈夫だね。もらった物については、ぼくが氷魔法をかけてあるから大丈夫」
「まったく。お前の魔力は無尽蔵かよ」
呆れた息を伴っての言葉。
「流石に無尽蔵じゃないよ。どうも他の人よりかなり多いみたいだけど」
涼しい顔で答えるカグハ。
「数時間の暖房魔法の継続使用で、途中から翻訳魔法のこれまた継続使用。更には氷の魔法まで使ってもピンピンしてる。かなりでも足りねえぐらいの量だよそれは」
使った魔法を指折り数え、最早呆れるを通り越して疲労すら見える声色で。
「そうなのかなぁ?」
自分の能力の高さをよくわかっていない相棒に、ネイオットは溜息をついた。
*****
「じゃ、行って来るよネイオット。大人しくしててね」
翌日、朝食を終えて。カグハは昨日ネイオットがアイスバーグで背負っていた物を背負っている。
中には例の二匹の氷狼の死体、それと依頼の内容とその達成可否の印を押せるスペースのある受領書が入っている。
「わかったよ」
ぶっきらぼうに答えた後、カグハの左下に視線をやって、
「連中、たぶんお前を依頼品だと思うはずだ。気を付けろよ犬っころ」
と氷狼に忠告。
『犬って言うな!』
ギュルっと振り返ったかと思うと、そう咆えた。
「やれやれ、まったくなぁ」
苦笑いで歩き出したカグハ。それに慌てて、くるっと向きを反転して、子供狼はテクテクと続いた。
***
「お、おお! それは、なんとそれは! 生きた氷狼ではないか! よくやった。よくやってくれたっ!」
今カグハとネイオットが宿を取っている町、そこの小高い丘の頂にある古生物研究所。
今カグハと子供狼はその中に通され、依頼者である研究員に大歓迎されたと言うところだ。
「あ、いえ、あの。そうじゃないんです」
「なんだって? そこにいるのは紛れもなく!」
氷狼ではないか、と言うのを遮ってカグハが言葉をかぶせる。
「この子じゃありません、提供するのは」
「この子? まさか君。まさか君! 手なずけたのか? 手なずけたと言うのか? あのアイスバーグの支配者、氷狼をっ!」
『なんだこの人間、うるさい』
氷狼を宥めつつ、うんざりした表情で正しい事実を伝えたカグハ。
それはそれで、
「なんとっ! 氷狼に気に入られただと?! 素晴らしい、すばやしいぞ君っ!」
と興奮しすぎて舌をかんだことにさえ気づかないほどの大興奮をされてしまい、昨日よりもより疲れてしまった。
「ん? となるとだよ君。いったいなにを提供すると言うのだね? これが依頼の品でないとするなら?」
これ、と言いながら子供狼を指差したので、子供狼は不機嫌そうにグルルと唸った。
「これです」
背中の袋を机に下ろし、中身を取り出しながら、
「氷魔狼から提供されました。新鮮な氷狼の番の死体です」
と説明する。
「なんと? 氷魔狼と交渉したばかりか、物を提供されたと言うのかね。すごいな、実にすごいぞ。これまで聞いたことのない症例だ」
興奮しすぎて倒れると判断でもしたのか、静かに驚く研究員は、その新鮮な番の死体を見ている。
「これでも、依頼は達成したことになるでしょうか?」
平坦な調子で尋ねるカグハ。
「ん? ああ、忘れていたよすまない。そうだね、我々はなるべく生きた物を、と言った。それにこれは氷魔狼からのもらいものだ。その症例だけでも貴重だからね、達成だ。我々からの依頼は達成だよ、感謝する」
そう言い終えると、受領書に押すための印を取り出し、慌てたようにポンと押した。
「あの、手 震えてますが。大丈夫ですか?」
心配して声をかけたが、
「なぁに心配はいらないよ。これは……武者震いと言うものだ」
興奮を抑えきれなくなったか、声がプルプル震え始めてしまった。
「そ、それはそれは。喜んでいただけてなによりです。ところで、あの」
「なんだね?」
平静を保てている研究員に、申し訳ない気持ちが沸々と沸き起こるものの、しっかりと目を見据えて言った。
「この子との戦いで、捕獲装置が一つ。使い物にならなくなってしまい、アイスバーグに放置してきてしまいました」
「ん? ああ、捕獲装置か。大丈夫だ、あれは別に氷狼専用と言う物でもない。代用はいくらでも効くからね」
「それを聞いて安心しました」
心の底から安堵した表情で、にこやかにそう言うと、「いこう」と受領書をしまって子供狼を促した。
「ふぅ。依頼のことを聞きに来た時から思ってはいたけど。すごい人だな、あの人は」
研究所から出てすぐに、深い溜息の後で疲労感満載の苦笑でカグハはそう言った。
『あの人間、うるさい。耳が痛い』
鳴き声としては、甘えるようなクゥンクゥンと言う保護欲を掻き立てられる声。しかし、実際話している言葉はこれである。
「そうだね。ぼくもうんざりだよ。早く帰ろう」
『そうだな』
ワンと一声鳴くさまはどう見ても、つややかな黒毛をした美しい紅の瞳の子犬そのものである。
「知らずは当人ばかりなり、か」
微笑で呟いたカグハに、
『なんだよ?』
不満そうに見上げる子供狼。
「なんでもない」
少女の柔らかさで微笑んで、カグハは改めて歩き出す。
愛し愛する人の、遥かな未来の待つ宿屋へと。
おわり。