第7話:沈黙の世界と反逆の部屋着(2020年)
2020年、春。
世界は突如として、見えない恐怖によって機能を停止した。
未曾有のパンデミック。緊急事態宣言が発令された東京の街からは人影が消え、静まり返ったコンクリートのジャングルだけが不気味に広がっていた。
アパレル業界が受けた打撃は、まさに致命的だった。
百貨店やセレクトショップは軒並み休業。外出の機会を奪われた人々にとって、新しい服を買うという行為は「不要不急」の最たるものとして社会から切り捨てられた。
南青山にある『YUI NATSUME』のオフィスも、かつての熱気はすっかり鳴りを潜め、重く淀んだ空気に包まれていた。
「……春物コレクションのキャンセルが相次いでいる。卸先のセレクトショップのうち、三割がすでに倒産、あるいは事業縮小の憂き目に遭っている状態だ」
会議室の長机。プロジェクターに映し出された真っ赤なグラフを前に、高柳涼平はかつてなく険しい声で報告した。
彼はすでに総合商社を休職し、特例措置を利用して実質的に『YUI NATSUME』の経営にフルコミットするようになっていた。涼平の緻密な手腕によってブランドは安定した成長曲線を描いていたはずだったが、この数ヶ月で状況は一変した。
「直営のオンラインストアの売り上げも、前年同月比で六割減だ。当然だろう、誰も外に出ないのだから、うちのような『外で勝負するための服』を求めていない」
「……涼平、キャッシュフローは?」
「現状の固定費とスタッフの給与を維持したまま、新しい施策を打たなければ、半年でショートする」
結衣の問いに、涼平は冷徹な事実を突きつけた。
半年。それは企業にとって、死刑宣告にも等しい短さだった。
「対策としては二つだ。一つ、スタッフの半数を一時帰休、あるいは解雇し、オフィスの規模を縮小して固定費を極限まで削る。二つ、次の秋冬コレクションの生産を完全にストップし、在庫の消化のみに専念する。……結衣、社長として決断してくれ」
涼平の言葉は正しかった。経営者としてブランドを存続させるためには、血を流すようなコストカットという「現実」を受け入れるしかない。
しかし、結衣は手元にあるボールペンを強く握りしめ、ギリッと唇を噛んだ。
「……嫌だ。スタッフを切るのも、服作りを止めるのも、絶対に嫌」
「感情論でどうにかなるフェーズじゃない! これは全世界的な災害なんだぞ。誰も君の服なんて着て出かける場所がないんだ!」
涼平が声を荒らげた。彼自身も、結衣の夢が理不尽な暴力によってへし折られようとしている事実に、激しい怒りと焦燥を感じていたのだ。
「誰も悪くない。君のデザインが悪いわけでも、俺の戦略が間違っていたわけでもない。ただ、運が悪すぎたんだ……。今は、冬眠して嵐が過ぎ去るのを待つしかないんだよ」
涼平の苦渋に満ちた声が、誰もいないオフィスに虚しく響いた。
結衣は窓の外を見た。車一台走っていない、死んだような青山通り。世界中が息を潜め、怯え、ただ生き延びることだけを目的に、灰色のスウェットを着て狭い部屋に閉じこもっている。
命を守るためには、それが正解だ。でも、心はどうなる? 毎日同じ景色、同じ服、同じ不安の中で、人々の心は平坦に、確実に削り取られていく。
(私の服は、着る人の心を震わせるためにあるのに……こんな時になにもできないなんて)
結衣の胸の奥で、燻っていた火種が、バチッと音を立てて弾けた。
「……涼平。半年あるんだよね」
「なに?」
「半年分の資金があるなら、まだ勝負できる。冬眠なんかしない。こんな、みんなが下を向いて退屈してる今だからこそ、うちが最高にクレイジーな服を作らなきゃ嘘でしょ!」
結衣が勢いよく立ち上がった。その瞳には、かつて狭いアパートの部屋で徹夜でミシンを踏んでいた時と同じ、狂気にも似た熱が宿っていた。
「外に出られないなら、家の中で着る服を作ればいい。スウェットやジャージなんかじゃない。最高級のシルクと、たっぷりとしたドレープを使って、袖を通した瞬間に気分が最高潮に達するような、極上のルームウェアを作る!」
「……本気で言っているのか?」
涼平は頭を抱えた。
「ただでさえ先行きが不透明なこの状況で、高単価のルームウェアの新規開発だと? そんな余剰資金を出す消費者がどこにいる! 完全な悪手だ、リスクが高すぎる!」
「リスク上等よ! 誰のせいでもないこんな理不尽な状況、つまらないじゃない。つまらなければ、自分たちで面白くすればいいの!」
結衣はホワイトボードの前に立ち、ものすごい勢いでラフスケッチを描き始めた。
それは、実用性など完全に度外視した、華やかで、アバンギャルドで、それでいて体を優しく包み込むようなデザインだった。
「オンライン会議の画面越しでも一目で心奪われるような、鮮やかな色彩。部屋の中で無駄にターンしたくなるような、軽やかな裾の広がり。……名前は『Rebellion(反逆) Lounge』。退屈と不安に対する、私たちからの反逆のドレスよ」
ホワイトボードに描かれたそのデザインのエネルギーは、死に絶えていたオフィスの空気を一変させるほどの引力を持っていた。
涼平は、そのスケッチを見つめたまま、しばらく動かなかった。
彼の脳内では、最悪の倒産シナリオと、結衣の提案する無謀な新プロジェクトの数字が激しく交錯していた。成功確率は極めて低い。合理的に考えれば、即座に却下すべき案件だ。
しかし――。
涼平は、深く、長い息を吐き出すと、ネクタイを乱暴に緩めた。
「……狂ってる。本当に、君という人間は」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「なら、俺も付き合って狂うしかないな」
涼平が顔を上げた時、その瞳からは「守り」の意識が完全に消え去り、獰猛なビジネスマンとしての光が戻っていた。
「やるからには、徹底的にやるぞ。実店舗が機能しない以上、勝負の舞台は完全にデジタルだ。これまでの顧客データを洗い直し、D2C(Direct to Consumer)のシステムを根本から再構築する。……結衣、君はこの『Rebellion Lounge』に、君の持てるすべての情熱と技術を注ぎ込め。マーケティングと販売の導線は、俺が死ぬ気で敷く」
こうして、『YUI NATSUME』の命運を賭けた逆襲が始まった。
結衣は少数のスタッフと共に、リモートでパタンナーや工場と連携しながら、一切の妥協を許さないルームウェアの開発に没頭した。
涼平は、休業中のアパレル業界でSNSのトラフィックが逆に急増しているデータに目をつけ、インフルエンサーや既存のロイヤルカスタマーを巻き込んだ、大規模なオンラインゲリラ発表の準備を水面下で進めた。
二ヶ月後。夏の始まり。
『YUI NATSUME』の公式Instagramで、一本の短いティザー動画が公開された。
それは、狭い薄暗い部屋の中で、鮮やかな真紅のシルクのルームウェアを纏ったモデルが、音楽に合わせて抑えきれない衝動のままに踊り狂うという、美しくも力強い映像だった。
『退屈な時間は、もう要らない。家の中を、あなたのランウェイに』
そのメッセージは、数ヶ月間、見えない不安と閉塞感に押し潰されそうになっていた人々の心に、雷のように直撃した。
「涼平! サイトのトラフィックが異常なことになってる!」
発売開始の夜。オフィスでパソコンの画面に張り付いていたスタッフが叫んだ。
涼平は腕を組み、画面に表示されるリアルタイムの売上データを見つめていた。数字が、スロットマシンのように恐ろしいスピードで跳ね上がっていく。
「サーバーの負荷を監視しろ! 落ちるなよ、絶対に持たせろ……っ!」
「ダメです、決済ゲートウェイがパンクしそうです!」
高価格帯にも関わらず、『Rebellion Lounge』の初回生産分は、販売開始からわずか四十五分で全サイズ完売という驚異的な記録を打ち立てた。
SNS上では、購入できた熱狂的なファンたちが「これで明日からまた生きられる」「部屋着なのに、涙が出るくらい綺麗」と次々に書き込み、それがさらなる拡散を呼んでいた。
「……やった」
結衣は、モニターの前でへたり込み、両手で顔を覆った。張り詰めていた緊張の糸が切れ、安堵の涙が溢れ出した。
涼平が歩み寄り、結衣の頭にポンと手を置いた。
「すごい数字だ。これなら、スタッフを一人も切らずに、半年どころか次のシーズンも十分に戦える」
「涼平……っ、私、怖かった。本当はすごく怖かったよ……!」
「知ってる。だが君は、その恐怖に飲み込まれずに、自分の手で最高の結果を掴み取った」
涼平の声は、いつになく優しかった。
かつて、「平坦で安全な道こそが正解だ」と信じて疑わなかった男は、今や、結衣が引き起こすこのジェットコースターのような激しい浮き沈みの只中にこそ、本当の「生きる意味」があるのだと知っていた。
「……結衣。俺は、君の作る服の力を、一番近くで見くびっていたのかもしれないな」
窓の外、東京の街は未だに静寂に包まれていた。
しかし、結衣と涼平の心の中では、どんな暗闇をも切り裂くような、力強い希望の鼓動が鳴り響いていた。逆境の底で見せた彼女の暴れ出した野心は、ブランドを救っただけでなく、二人の絆を、絶対に揺るがない強固なものへと変えたのだった。




