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第8話:溢れ出す情景(2022年)

 2022年、初夏。

 長かったパンデミックの暗いトンネルにようやく出口の光が見え始め、人々が少しずつ、しかし確かな足取りで街へと戻り始めていた頃。

 東京・表参道。新緑が眩しいケヤキ並木から一本路地に入った閑静なエリアに、ガラス張りの洗練された二階建ての建物が産声を上げようとしていた。

『YUI NATSUME 表参道フラッグシップストア』。

 それは、夏目結衣がブランドを立ち上げたあの日から、狂おしいほどに渇望し続けてきた「自分だけの城」だった。

「結衣、二階のVIPルームの照明システム、クラウドとの同期が完了した。1階のPOSレジと在庫管理用のスプレッドシートのリアルタイム連携もテスト済みだ。これで、バックヤードで在庫を探し回る無駄な時間は最小限に抑えられる」

 オープンを二時間後に控えた真新しい店内で、高柳涼平はタブレット端末から目を離さずに告げた。

 パンデミック下でのデジタルシフト戦略が大成功を収め、ブランドの資金力は飛躍的に向上した。しかし、涼平はその潤沢な資金を無駄にすることなく、実店舗という「物理的な体験価値」への投資に大きく舵を切ったのだ。

 徹底的なデータ分析に基づいた立地選定、内装費用の緻密なコントロール、そしてスタッフが接客に集中できるための最新のデジタル業務環境の構築。涼平の持つ手腕が、この店舗の隅々にまで張り巡らされている。

「完璧ね。ありがとう、涼平」

 結衣は、エントランスの正面に配置されたトルソー(マネキン)の襟元を、ミリ単位で微調整しながら深く息を吐き出した。

 今日の結衣は、自らがデザインした漆黒のセットアップスーツに身を包んでいた。かつて、狭いアパートで寝る間も惜しんでミシンを踏んでいた少女の面影はそこにはない。確固たる美学を持った、一人の経営者でありトップデザイナーの顔がそこにあった。

「……ついに、実店舗か。信じられないな。一時は倒産寸前まで追い込まれたっていうのに」

 涼平がタブレットを置き、高い天井を見上げながら呟いた。

「涼平は反対すると思ってた。オンラインストアの利益率がこれだけ高いのに、家賃も人件費も莫大にかかる路面店を出すなんて、非効率の極みだって」

「たしかに、財務上の数字だけを見れば、実店舗は重い足枷になるリスクが高い」

 涼平は結衣の隣に並び立ち、ガラス越しに外の通りを見つめた。

「だが、君が作る服の本当の価値は、画面越しの視覚情報だけじゃ伝わりきらない。最高級の生地の手触り、袖を通した時の高揚感、空間全体の香りや音楽。そういう『五感』を総動員して初めて完成する世界観だ。だから、君のブランドには、どうしても顧客が直接触れることのできる『場所』が必要だった」

「涼平……」

「それに、だ」

 涼平は少しだけ意地悪く口角を上げた。

「君が『どうしても自分のお店が持ちたい!』って、何日も徹夜して描いた内装のスケッチを俺のデスクに山積みにしてきたからな。あれを現実の予算内に落とし込むために、俺がどれだけ不動産屋や施工業者と血みどろの交渉をしたか」

「あはは……。本当に、頭が上がりません」

 結衣が照れ隠しに笑った時だった。

 インカムをつけて外の様子を見に行っていた店長が、血相を変えて店内に駆け込んできた。

「社長! 高柳さん! 大変です、外を見てください!」

「どうしたの? トラブル?」

 結衣と涼平は顔を見合わせ、急いで二階の大きな窓へと駆け上がった。

 ブラインドの隙間から表参道の通りを見下ろした瞬間、結衣は息を呑み、そのまま言葉を失った。

 オープンまでまだ一時間以上あるというのに。

 店の入り口から始まった列は、路地の角を曲がり、はるか先のケヤキ並木の大通りまで延々と続いていたのだ。

 その数、ざっと見積もっても三百人は下らない。

 並んでいる人々は皆、嬉しそうにスマートフォンで写真を撮ったり、友人同士で会話を弾ませたりしている。そして何より結衣の胸を打ったのは、列に並ぶ多くの人が、これまでに結衣が発表してきた『YUI NATSUME』の過去のコレクションや、あの絶望の中で生み出したルームウェアを身に纏ってくれていたことだった。

「……嘘、でしょ」

 結衣の視界が、急激にぼやけた。

 震える両手で口元を覆う。こらえきれない涙が、ボロボロと頬を伝ってこぼれ落ちた。

 誰も自分の服に興味を持ってくれなかった時代。

 会社で「無難な服を作れ」と否定され続けた日々。

 孤独なアパートの部屋で、自分の才能を疑いながら泣きながらミシンを踏んだ夜。

 そして、世界中が立ち止まり、明日への希望を失いかけたあの暗闇の数ヶ月。

 そのすべての時間が、今、眼の前に広がる景色に繋がっていた。

 自分が生み出した服が、これほどまでに多くの人の心を動かし、彼らの日常を彩る「鎧」となって、今日この場所に集まってきている。

 平坦な道など、一日たりともなかった。ジェットコースターのように振り落とされそうになりながら、それでも必死にしがみついてきた。その結果が、この圧倒的なまでの「熱量」なのだ。

「……涼平」

 結衣は涙声で、隣に立つ涼平を見上げた。

「ありがとう。涼平がいなかったら、絶対にここまで来れなかった。私が暴走しそうになるのを、いつも涼平が上で管理して、正しい道に引き戻してくれたから……っ」

 感謝の言葉を紡ぐ結衣に対し、涼平は静かに首を横に振った。

 彼はスーツのポケットからハンカチを取り出し、結衣の頬を濡らす涙を不器用に拭った。

「違うな、結衣」

「え……?」

「俺は君を『上で管理』なんかしていない。昔はそう思っていた時期もあった。合理的な俺が、感情的な君をコントロールしてやっているんだと」

 涼平の眼差しは、これまでに結衣が見たどんな時よりも穏やかで、そして真っ直ぐだった。

「でも、気づいたんだ。俺たちにあるのは、管理する側とされる側なんていう上下の関係じゃない。俺はただ、君という強烈な才能の隣で、必死に並んで走っていただけなんだと。君の背中を守り、君が走りやすいように道を舗装する、対等な伴走者として」

 伴走者。

 その言葉が、結衣の心に温かく染み渡った。

「君のそのあふれるようなエネルギーに、俺は完全に巻き込まれた。安全で平坦なレールの上を歩くのが人生の正解だと思っていた俺の常識は、君によって見事に破壊されたよ」

 涼平は再び窓の外、熱気にあふれる行列へと視線を向けた。

「今はもう、俺自身の胸の中にもあるんだよ。君が追いかけてきた、理不尽で、非効率で、でも最高に美しいその『夢』の熱さが。……抑えきれないくらい、溢れてる」

 涼平の告白は、彼が完全に「現実主義の殻」を破り捨て、結衣と同じ温度で未来を見つめていることの証明だった。

 結衣は涙を拭い、大きく頷いた。

「うん……! 私たち、二人で作ったんだよ。この景色を」

 結衣は涼平の大きな手を取り、その指をしっかりと絡めた。涼平もまた、結衣の手を力強く握り返す。

 午前十一時。

 フラッグシップストアの巨大なガラス扉が開かれる。

 待ちわびた顧客たちが、歓声を上げながら一斉に店内へと足を踏み入れていく。光に満ちた空間で、結衣の生み出した服たちが、新しい持ち主と出会う瞬間を喜ぶかのように輝いていた。

 2022年、表参道。

 二人の歩んできた軌跡は、ここで一つの大きな頂上へと到達した。しかし、彼らの乗るジェットコースターは、まだ止まることを知らない。

 この胸に溢れる思いを原動力にして、二人はさらに高く、誰も見たことのない頂きへと向かって加速していくのだった。

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