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第6話:共に走る理由(2018年)

 2018年、秋。

 千駄ヶ谷の薄暗い雑居ビルから、南青山にある自然光の差し込む広々としたオフィスへ。『YUI NATSUME』は、たった二年の間で目覚ましい成長を遂げていた。

 スタッフも数名雇い入れ、ブランドは確実に次のステージへと足を踏み入れている。その飛躍的な成長の裏には、結衣の圧倒的なクリエイティビティと、それを完璧なロジックで下支えする涼平の存在があった。

「涼平、このジャカード生地の見積もり、もう一度工場と交渉できないかな。どうしても今回のメインルックには、この立体感が必要なの」

 オフィスの中心にある大きな作業テーブルで、結衣は複雑な柄が織り込まれた分厚い生地見本スワッチを指差した。

 今季の『YUI NATSUME』のコレクションテーマは、「都市の孤独と解放」だった。画一的な社会システムや、効率ばかりを求める無機質なルール。その中で孤立を深め、息を潜めるように生きている現代人が、自分自身の輪郭と熱情を取り戻すための「鎧」としての服。

 その象徴となるメインピースが、夜の街にそびえ立つ無骨な電波塔などの巨大建築物からインスピレーションを得た、構築的なシルエットのロングコートだった。

 結衣の向かい側に座り、ノートパソコンの画面で原価計算のシートを睨んでいた涼平は、険しい表情で顔を上げた。

「無茶を言うな。この特殊な織り機を使える工場は国内に数社しかない。しかも君が要求するこの『夜の都市のざわめき』を表現したような不規則な柄は、糸のロスが多すぎる。歩留まりが最悪なんだ。これを採用したら、コートの原価率は一気に跳ね上がるぞ」

「だからって、安いフラットな生地に変えたら、この服が持つメッセージ性が死んじゃう! 効率やコストを優先して妥協するなら、ファストファッションの大量生産品と同じじゃない。私は、そんな消費されるだけの服を作るために独立したわけじゃないわ」

 結衣の強い口調に、周囲で作業をしていたスタッフたちが少しだけ肩をすくめた。

 社長である結衣と、実質的な最高執行責任者(COO)として週末や夜間の時間をすべてブランドに注ぎ込んでいる涼平。二人の衝突は、今やこのオフィスにおける日常茶飯事だった。

 しかし、以前の二人の喧嘩とは、決定的に違う部分があった。

「……誰も妥協しろとは言っていない」

 涼平は深くため息をつき、パソコンの画面をパタンと閉じた。彼は結衣の描いたコートのデザイン画と、問題の生地見本を手元に引き寄せ、じっと見つめた。

「君の言う通りだ。このブランドの価値は、社会の枠組みに抗うような強烈な個性にこそある。大衆迎合に走ってエッジを失えば、うちのブランドは三年で消えるだろう」

「……涼平?」

「ただ、経営の視点から言えば、この原価率はやはり異常だ。だから、戦略を変える」

 涼平はホワイトボードの前に立ち、素早い手つきでマーカーを走らせ始めた。

「このジャカードコートは、今季のコレクションの『顔』として、徹底的に付加価値を高める。量産はせず、シリアルナンバー入りの限定生産品リミテッド・エディションとして、価格設定を本来の適正価格の1.5倍に引き上げる。その代わり、このコートの世界観に引っ張られる形で、原価率を抑えたベーシックラインのニットやカットソーの販売動線を強化する。これでコレクション全体としての利益率は確保できるはずだ」

 流れるような涼平のプレゼンテーションに、結衣は目を瞬かせた。

 かつての涼平は、結衣の非効率なやり方をただ上から「否定」するだけの存在だった。リスクを嫌い、平坦で安全な道を歩むことを強要していた。

 だが今の彼は違う。結衣の描く、時に無謀とも思える「理想」を絶対に否定しない。彼女のクリエイションを最大限にリスペクトした上で、それが現実世界で生き残るための道筋を、彼自身の武器である「数字と戦略」を使って全力で切り拓こうとしてくれるのだ。

 涼平は、結衣を管理する上司でもなければ、ただの恋人でもない。同じ目標に向かって並んで走る、完全な「対等のパートナー」になっていた。

「……すごい」

「なんだ、今更俺の優秀さに気づいたのか」

「違うよ。涼平が、私の服の力を一番信じてくれてるんだなって思って」

 結衣が嬉しそうに微笑むと、涼平は少しだけバツが悪そうに視線を逸らした。

「勘違いするな。俺はただ、投資した時間と労力に対して、最大のリターンを求めているだけだ」

「ふふ、そういうことにしておいてあげる」

 二人の間に流れる空気は、以前のようなヒリヒリとした緊張感ではなく、互いの背中を完全に預け合う強固な信頼に満ちていた。

 結衣がアクセルを全開に踏み込み、涼平が絶妙なタイミングでハンドルを切り、ブレーキをかける。時に激しくぶつかり合いながらも、二人の乗ったジェットコースターは、誰にも予想できない軌道を描きながら、猛烈なスピードで上昇を続けていた。

「それにしても」と、涼平がホワイトボードのペンを置きながら言った。「君の頭の中はどうなっているんだ。こんな、都会の孤独を具現化したような重苦しいテーマから、よくこれだけ人を惹きつける美しいシルエットを生み出せるな」

「孤独だからこそ、誰かと繋がりたいって強烈に願うんでしょ? 服は、そのための最初のコミュニケーションツールなの。私が作った服を着た人が、鏡を見て少しだけ自分を好きになって、明日、誰かに会いに行きたくなるような。そういう勇気を作りたいの」

 結衣の言葉を聞き、涼平は静かに頷いた。

「……なるほど。悪くない投資理由だ」

 その年の冬に発表された『YUI NATSUME』のコレクションは、ファッション業界に大きな衝撃を与えた。

 大量消費社会へのアンチテーゼと、都市で生きる人々の孤独に寄り添うような深いテーマ性。そして何より、それを表現する妥協のない圧倒的な技術力。

 懸念されていた高価格帯のジャカードコートは、予約開始からわずか数分で完売するという異例の事態を引き起こし、ブランドの地位を不動のものへと押し上げた。

 コレクションの打ち上げの夜。スタッフたちが帰った後のオフィスで、結衣と涼平は二人きりでシャンパンのグラスを傾けていた。

「お疲れ様、涼平。今回の成功は、あなたがいなかったら絶対にあり得なかった」

「君が諦めずに、あの面倒な生地を使うと言い張ったからだ。……俺はただ、君が暴れ回るための道筋を整えたに過ぎない」

 涼平は窓の外、青山の美しい夜景を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「昔は、自分の人生がこんなに予測不可能で、非効率なことの連続になるとは思ってもみなかったよ。商社で出世して、安全なレールの上を歩いていくのが一番の幸せだと信じていたからな」

「後悔してる?」

「……いや。安全なだけの道は、もうつまらなくて歩けないな」

 涼平の口元に浮かんだ微かな笑みを見て、結衣の胸の奥が熱くなった。

 信じる道は、もう一人きりで作るものではない。隣には、自分とは全く違う価値観を持ちながらも、同じ夢を見てくれる最強の伴走者がいる。

「次は何を仕掛ける? 結衣」

 涼平の問いに、結衣はグラスをテーブルに置き、真っ直ぐに彼の目を見つめ返した。

「世界、かな。このまま日本の小さな市場で満足するつもりはないよ」

「大きく出たな。……いいだろう。なら、俺もそれなりの準備を始めないとな」

 彼らの野望は、もはや留まることを知らなかった。

 二人の視線は、すでにこの東京の空のずっと向こう側、まだ見ぬ世界へと向けられていた。

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