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第5話:不器用な盾(2016年)

 2016年、梅雨。

 独立から二年。夏目結衣の立ち上げたブランド『YUI NATSUME』は、代官山のセレクトショップを皮切りに熱狂的なファンを獲得し、ファッション誌の新人デザイナー特集で大きく取り上げられるまでになっていた。

 傍目には、若くして成功を収めた華々しいシンデレラストーリーに見えただろう。しかし、東京・千駄ヶ谷の雑居ビルに構えた小さなアトリエの中では、結衣が想像を絶する地獄の泥沼でもがいていた。

「……ですから、そこを何とかお願いできませんか! 先月納品していただいたウールの代金は、来月末には必ずお支払いします。今回のシルクのロットだけ、どうか先に回していただかないと、秋の展示会に間に合わなくて……っ!」

 結衣は受話器を両手で握りしめ、誰にも見られていないのに深く頭を下げていた。

 電話の相手は、結衣が取引をしている国内有数の生地問屋の担当者だ。結衣の懇願に対し、受話器の向こうからは冷酷な、しかしビジネスとしては極めて当然の返答が返ってくる。

『夏目さん、うちもボランティアでやってるわけじゃないんですよ。前回のお支払いが遅れている状況で、これ以上の掛け売りは会社として承認が下りません。現金で前払いしていただくか、それが無理なら今回の発注はキャンセルということで』

「待ってください! そのシルクがないと、今回のメインルックが……ツツッ、ツーツー」

 無機質な電子音が耳に響く。結衣は受話器を乱暴に置き、デスクに突っ伏した。

 「自分のブランドを作る」。その熱量だけで荒野に飛び出した結衣を待ち受けていたのは、「クリエイティブ」とは対極にある「経営」という巨大な壁だった。

 服のデザイン画を描いている時間など、一日のうち数パーセントに過ぎない。残りの時間はすべて、資金繰り、工場との納期交渉、パタンナーへの外注費の支払い、そして山のように送られてくる請求書の処理に追われていた。

 個人事業主からようやく法人化したばかりの結衣には、社会的信用というものが皆無だった。小規模なロットしか発注できない結衣のブランドは、常に大きなアパレルメーカーの生産ラインの隙間を縫うようにして扱われ、少しでも支払いが滞れば容赦なく取引を停止される。

「……お金が、足りない」

 デスクの上に散乱した請求書と、通帳の残高を見比べながら、結衣は乾いた声で呟いた。

 売上は立っているはずなのに、生地代や縫製工賃の支払いが先に来るため、常に手元の現金がショート寸前だった。寝る間を惜しんで働き、自分の給料など数ヶ月まともにとっていないにも関わらず、首が真綿で締められるように苦しくなっていく。

 好きな服を作りたいだけなのに。誰かの心を震わせたいだけなのに。

 その純粋な思いは、容赦なく押し寄せる「現実の数字」の前に、今にも押し潰されそうになっていた。

 夜の十時を回った頃。アトリエの薄暗い蛍光灯の下で、結衣が電卓を叩きながら泣きそうになっていた時だった。

 ノックの音とともに、重い鉄の扉がギシリと開いた。

「相変わらず、空調の効きが悪い部屋だな」

 そこに立っていたのは、高柳涼平だった。

 二年前、新宿のラウンジで激しく衝突して以来、二人の関係はどこかぎこちないままだった。別れたわけではない。だが、互いの価値観の決定的な違いを突きつけられたあの日から、暗黙の了解のように仕事の話には深く踏み込まないようになっていた。

 涼平は、相変わらず隙のない仕立てのスーツを着こなし、片手には分厚いレザーのブリーフケースを提げている。彼は結衣の荒れ果てたデスクと、その上で青白い顔をして固まっている結衣を冷徹な目で一瞥した。

「……涼平。どうしてここに」

「近くで接待があった帰りだ。明かりが点いていたから寄ってみたが……ひどい有様だな」

 涼平は結衣の隣に歩み寄り、デスクの上に無造作に広げられた資金繰り表――エクセルではなく、ルーズリーフに手書きで殴り書きされた悲惨な代物――を手に取った。

「返して! 見ないでよ!」

「見るなって言われても、目に入る。……なんだこの杜撰なキャッシュフローは。売掛金の回収サイクルと買掛金の支払いサイクルが完全に逆転してるじゃないか。これじゃあ、売れれば売れるほど首が回らなくなる黒字倒産の典型的なパターンだぞ」

 涼平の容赦ない指摘は、結衣の急所を的確にえぐった。

 反論したかった。私は経営者じゃない、デザイナーなんだと叫びたかった。しかし、涼平の言う通り、今の結衣は自分の生み出した大切なブランドを、自分自身の無知と見通しの甘さによって殺しかけているのだ。

「……分かってる。分かってるよ、そんなこと!」

 結衣の目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。一度堰を切った感情は、もう止まらなかった。

「生地屋からは取引停止を仄めかされるし、工場は納期を遅らせるし……。銀行の融資担当者は話も聞いてくれない。私なりに必死にやってるのに、数字が、現実が、全然追いつかなくて……っ。このままじゃ、次のコレクション、出せないかもしれない……!」

 顔を覆って嗚咽する結衣。それは、強気で情熱的だった彼女が初めて涼平の前で見せた、完全な「敗北」の姿だった。

 あの日、「失敗したって自分で責任を取る」と啖呵を切った手前、涼平にだけは弱音を吐きたくなかった。だが、結衣の両手から零れ落ちようとしている夢の残骸は、もはや彼女一人の手には負えないほど重くなっていたのだ。

 涼平は、泣き崩れる結衣を無言で見下ろしていた。

 彼ならここで、「だから言っただろう、リスク管理がなってないからだ」と正論を叩きつけることもできただろう。二年前の彼なら、間違いなくそうしていたはずだ。

 しかし、涼平は小さくため息をつくと、持っていたブリーフケースをデスクの上に置いた。

 カチャリと金属の留め金を外し、中から一台のノートパソコンと、綺麗にファイリングされた分厚い資料の束を取り出す。

「……泣きつかれても絶対に助けないと、いつか言った記憶があるが」

 涼平の声は、驚くほど静かで、どこか諦めを含んだような温かさを帯びていた。

 結衣が顔を上げると、涼平は自分のスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めながら、結衣の隣の椅子を引いて座った。

「その言葉は撤回する。少し席を詰めろ」

「え……?」

「貸借対照表と損益計算書のデータ、それから直近三ヶ月の取引先のリストを全部出せ。今から俺が数字を整理する」

 結衣は呆然と涼平を見つめた。

 涼平の指先が、ノートパソコンのキーボードを鮮やかな手つきで叩き始める。画面には、結衣が見たこともないような複雑で美しいエクセルのフォーマットが立ち上がっていた。

「涼平……あなた、本業があるのに……」

「本業の傍らで、君の会社の財務データを勝手に分析させてもらっていた。君の作っている服の市場価値と、この悲惨な経営状況のギャップがあまりにも非効率で、見ていてイライラしたからな」

 涼平は画面から目を離さないまま、淡々と告げた。

「君の最大の弱点は、信用がないことと、交渉のカードを持っていないことだ。まずは支払いの優先順位を明確にし、銀行へ提出する再建計画書を俺が作る。生地屋の担当者には明日、俺が君の『財務顧問』として直接交渉に行く。俺の勤め先の名前を出せば、少しは態度も変わるだろう」

 それは、圧倒的な「現実」の力だった。

 結衣がどれほど情熱を傾けても動かなかった巨大な壁を、涼平は冷徹なロジックと緻密な計画性という重機を使って、いとも簡単に切り崩そうとしている。

「……どうして」

 結衣の震える声に、涼平はキーボードを叩く手を一瞬だけ止めた。

「君が自分の身の丈に合わない、大きすぎるものを抱え込もうとしているからだ」

 涼平は視線をパソコンに向けたまま、静かに言葉を紡いだ。

「情熱だけで突っ走って、傷だらけになって……そんなやり方で、君は自分の生み出したものを最後まで守り切れるのか? 才能だけじゃ、会社は潰れるんだ。君のその暴れ馬みたいな才能を安全に走らせるためには、絶対に崩れない頑丈なレールが必要なんだよ」

 涼平が結衣の方を向いた。その瞳には、いつもの冷ややかな合理性だけでなく、結衣のすべてを支えようとする強固な覚悟が宿っていた。

「君は、君の信じる服だけを作ればいい。その他の面倒な現実は、全部俺がコントロールしてやる」

 その瞬間、結衣の胸の奥で、張り詰めていた何かが静かに解けていくのが分かった。

 決して交わらないと思っていた二つの道。情熱と論理。理想と現実。それは、相反するものではなく、互いの欠落を補い合い、一つの巨大な歯車として噛み合った瞬間だった。

「……ごめん。ありがとう、涼平」

 結衣は涙を拭い、涼平の隣で、彼が作り上げていく美しい事業計画書の数字を見つめた。

 それは無味乾燥なデータの羅列ではなく、涼平が結衣の夢を守るために築き上げてくれた、世界で一番強固で、優しい「盾」だった。

 2016年の夏。

 彼らはまだ、自分たちがこれからどれほど高く、険しい山を登ることになるのかを知らない。しかし、二人でならどんな困難な現実も乗り越えられるという確かな手応えが、この小さなアトリエの中に確かに生まれようとしていた。

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