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第4話:暴れ出した野心(2014年)

 2014年、春。

 代官山の裏路地にひっそりと佇む、知る人ぞ知る高感度なセレクトショップ「エクラ」。その薄暗く洗練された店内の特等席であるウィンドウディスプレイに、夏目結衣がデザインした真紅のトレンチコートが飾られていた。

 三年前のインディーズ展示会で、結衣の服は決して大衆的な反響を呼んだわけではなかった。しかし、「エクラ」の敏腕バイヤーである倉田の目にだけは、結衣の狂気じみた情熱が縫い込まれた一着が強烈に突き刺さったのだ。

 それ以来、結衣は「アトリエ・ブラン」での会社員生活を続けながら、倉田の店にだけ少しずつ自分のブランド『YUI NATSUME』の服を下ろすようになっていた。常連客の間で口コミが広がり、結衣の服は入荷するやいなや即完売するカルト的な人気を獲得しつつあった。

「結衣さん。単刀直入に言います」

 営業終了後の店内。エスプレッソの香りが漂うバックヤードで、倉田は真剣な眼差しで結衣を見据えた。

「今年の秋冬コレクションから、『YUI NATSUME』をうちのメインブランドとして打ち出したい。フロアの三分の一を割いて、大々的にポップアップも組みます。……ただ、条件があります」

「条件、ですか」

「今の納品数の、最低でも五倍のロットが必要です。もちろん、品質は今のまま、一点の妥協も許されない。……結衣さん、そろそろ腹を括る時期じゃないですか?」

 倉田の言葉は、結衣の心臓を鷲掴みにした。

 五倍のロット。それはもう、週末や深夜の副業レベルでこなせる作業量ではない。個人の手作業の限界を超え、工場と直接契約を結び、本格的な生産ラインを稼働させなければならない数字だった。

 それはすなわち、「アトリエ・ブラン」という安定した揺りかごを捨て、安全網のない荒野へと一人で飛び出すことを意味していた。

 怖くないと言えば嘘になる。だが、それ以上に、結衣の胸の奥底でずっと檻に閉じ込められていた「自分のブランドで世界と勝負したい」という猛烈な欲望が、けたたましい咆哮を上げて暴れ出そうとしていた。

 翌日、結衣は九年間勤めた会社に辞表を叩きつけた。

 引き留める部長の声を背に会社を出た時の、あの空の青さと、肺に流れ込む風の冷たさを、結衣は一生忘れないだろうと思った。

 しかし、本当の戦いはそこからだった。

 その夜、結衣は新宿のホテルの最上階にあるラウンジに足を運んだ。

 夜景を見下ろす窓際の席には、すでに高柳涼平が座っていた。三十一歳になった涼平は、商社内でも最年少で課長に昇進し、数億円単位のプロジェクトをいくつも束ねる立場になっていた。仕立ての完璧なダークスーツに身を包んだ彼は、グラスに入った琥珀色のウイスキーを傾けながら、結衣が席に着くのを静かに待っていた。

「急に呼び出してごめん。……私、今日、会社を辞めてきた」

 結衣が席に座るなりそう告げると、涼平はウイスキーのグラスをピタリと空中で止めた。彼の表情からは一切の感情が消え去り、ただ冷徹なビジネスマンとしての瞳が結衣を射抜いた。

「……で? 次の就職先は決まっているのか? それとも、ついに例の『アトリエ遊び』を本業にすると言い出すつもりか?」

「遊びじゃない。代官山のショップから、秋冬のメインブランドとして大きな契約を持ちかけられたの。このチャンスを逃したら、一生後悔する。だから、独立して『YUI NATSUME』を本格的に立ち上げる」

 涼平はグラスをテーブルにコトリと置き、深く、長い大きなため息をついた。その息には、呆れと、そして強い苛立ちが混じっていた。

「結衣、君は自分がどれだけ危険な橋を渡ろうとしているのか、本当に理解しているのか?」

「危険なのは分かってる。でも――」

「分かってない。まったく分かってないな」

 涼平の声が、ラウンジの静かな空間に低く響いた。

「アパレル業界の新規参入ブランドが、三年以内に倒産する確率を知っているか? 九割だ。残りの一割も、大半は借金まみれで首の皮一枚繋がっている状態に過ぎない。君が今やろうとしているのは、パラシュートを持たずに高度一万メートルから飛び降りるようなものだ。資本金は? 安定した生産背景の確保は? 資金繰りのショートを想定したキャッシュフローの計算はできているのか?」

「そんなの、これから走りながら考えるよ! 最初から完璧な計画なんて立てられないでしょ!」

「計画なき起業はただの自殺行為だ! なぜ今の会社の安定した給与という防波堤を自ら破壊するんだ。少しずつ規模を拡大していくというリスクヘッジの概念が君にはないのか!」

 涼平の正論の矢が、結衣の急所を容赦なく射抜く。

 彼の言うことは百パーセント正しい。ビジネスの世界において、結衣の決断は狂気の沙汰だ。だが、結衣はテーブルの下で拳を強く握りしめ、涼平の鋭い視線を真っ向から睨み返した。

「リスク、リスクって……。涼平にはそれしか見えないの? 失敗しないように、傷つかないように、そうやって計算ばかりして生きるのが正解なの?」

「そうだ。リスクを排除し、確実な利益を追求することこそが、責任ある大人の生き方だ」

「そんなの、死んでるのと同じじゃない!」

 結衣の叫びが、周囲の客の視線を微かに集めた。だが、結衣はもう止まらなかった。

「私はね、誰かに保証された安全な道なんて歩きたくないの。そんな退屈な毎日を過ごすくらいなら、自分で選んだ道で派手に転んだほうが何百倍もマシよ。失敗したって、全部自分のせい。誰のせいにもしない。もしこの先がどうしようもなく泥沼だったとしても、私が自分の手で、最高におかしくて、最高にクレイジーな世界に変えてみせる!」

 それは、結衣の魂の叫びだった。

 理性や計算といった分厚い殻を突き破って溢れ出した、生々しく、野蛮で、けれど圧倒的な力を持った「欲望」の正体。

 涼平は、その圧倒的なエネルギーを前にして、言葉を失っていた。

 彼はこれまでの人生で、常に「正解」を選び続けてきた。しかし、目の前で目を真っ赤にして吠えている結衣は、そんな「正解」など最初から眼中になかった。彼女はただ、自分の内側から湧き上がる強烈な衝動に従って、未知の世界へ手を伸ばそうとしているのだ。

「……勝手にしろ」

 長い沈黙の後、涼平は低く掠れた声でそう言った。

「俺はもう、君のその無謀なギャンブルには口を出さない。その代わり、泣きついてきても絶対に助けないからな」

「泣きついたりなんかしない。私は、私の力で絶対に夢を掴み取ってみせる」

 二人の間の溝は、かつてないほどに深く、決定的なものになっていた。

 価値観の絶対的な不一致。交わることのない平行線。普通なら、ここで別れを選んでもおかしくないほどの激しい衝突だった。

 結衣はバッグを掴み、足早にラウンジを後にした。

 エレベーターに乗り込み、一人きりになった瞬間、結衣の足は小刻みに震え始めた。涼平の前では強がってみせたが、背負い込んだものの重圧に、本当は押し潰されそうだった。

 それでも、結衣は決して引き返そうとは思わなかった。

(止まらない。誰にも止められない)

 見上げる東京の夜空は、どこまでも暗く、星一つ見えなかった。

 しかし、結衣の胸の奥では、自らが放った野心の炎が、これまでで一番激しく、赤々と燃え盛っていた。すべてを燃やし尽くすかもしれないその危険な熱を抱えたまま、結衣はついに、後戻りのできないランウェイへとその第一歩を踏み出したのだった。

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