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第3話:夢は語るものではない(2011年)

 2011年、秋。

 世間が大きな価値観の転換期を迎え、多くの人々が「本当に大切なものは何か」を自らに問い直していたこの年。夏目結衣の生活は、物理的にも精神的にも限界の淵を綱渡りするような凄まじい様相を呈していた。

 深夜二時。結衣の住む築四十年の手狭なアパートの一室には、重厚な工業用ミシンのモーター音が地響きのように鳴り響いていた。

 六畳の部屋の床は、足の踏み場もないほどに散乱した布切れ、パターン用紙、そして何本もの待ち針が刺さったピンクッションで埋め尽くされている。部屋の隅には、結衣がこの三年間、会社には内緒で少しずつ貯めた資金で買い集めた、イタリア製の上質なウールやシルクの反物が山積みになっていた。

「……よし、袖のライン、これで完璧……」

 充血した目をこすりながら、結衣はトルソー(マネキン)に着せた深いネイビーのジャケットのシルエットを確認した。

 この三年間、結衣は「アトリエ・ブラン」での日々の業務をこなしながら、水面下で自分のブランド立ち上げの準備を猛烈な勢いで進めていた。平日は会社の指示通りに「売れ筋の無難な服」をデザインし、家に帰ってからの深夜と週末のすべてを、自分の本当のコレクション作りに注ぎ込む二重生活。

 睡眠時間は平均して三時間。食事は作業の手を止めずに口に放り込める栄養ゼリーやシリアルバーばかり。頬はこけ、目の下には消えない隈が張り付いていたが、トルソーを見つめる結衣の瞳だけは、飢えた獣のようにギラギラと異様な熱を放っていた。

 その時、不意に玄関のチャイムが鳴った。

 ビクッと肩を震わせた結衣が重い腰を上げてドアを開けると、そこには仕立ての良いネイビースーツに身を包んだ高柳涼平が立っていた。彼の手には、有名ホテルのデリの紙袋と、栄養ドリンクの詰まったコンビニ袋が提げられている。

「……こんな時間に、ミシンの音が外まで漏れてるぞ。近所迷惑だ」

「涼平……。ごめん、今、一番重要なステッチを入れてるところだったから」

 涼平はため息をつき、結衣を押し退けるようにして部屋に上がり込んだ。無造作に脱ぎ捨てられた衣服と布の山を器用に避けながら、小さなローテーブルの上に買ってきたものを置く。

「まともに飯を食ってないだろ。LINEの既読も三日間つかないし、どうせ倒れてるんじゃないかと思って来てみれば……まるでスラム街だな」

 入社七年目となった涼平は、総合商社の中で若手ながらも重要なプロジェクトのリーダーを任されるようになっていた。中東のエネルギー開発という巨額の資金が動く最前線で、日々冷徹な交渉を繰り広げている彼の纏う空気は、以前よりもさらに鋭く、研ぎ澄まされている。

「スラム街じゃないよ、私のアトリエ」

「アトリエね。……結衣、鏡を見てみろ。顔色が幽霊みたいだぞ。こんな非効率な生活を続けて、本気でブランドが立ち上がるとでも思ってるのか?」

 涼平の冷ややかな指摘に、結衣は温かいスープの入った容器を受け取りながら、ムッとして唇を尖らせた。

「非効率でもなんでも、やるしかないの。来月の頭に、インディーズのデザイナーを集めた合同展示会がある。そこにこのコレクションを出品して、バイヤーの目にとまれば、独立への道が開けるかもしれない。これが私の最初のチャンスなんだよ」

「だとしてもだ。昼間の仕事を辞めずに、すべてを一人で抱え込むのはリスク管理がなってない。資金繰りだってどうするつもりだ? 展示会に出すだけで何十万も飛ぶんだろ。夢を見るのは勝手だが、現実との整合性がまったく取れてない」

 『夢を見るのは勝手だが』。

 その言葉が、結衣の張り詰めていた神経の糸を弾いた。

 結衣は飲もうとしていたスープをテーブルにドンと置き、真っ直ぐに涼平を見据えた。

「涼平は、いつもそうやって安全な場所から『現実』の話ばっかりするよね。データがどうとか、リスクがどうとか。でもね、私は夢を見ているわけじゃない」

「どう見ても、無謀な夢想家の末路にしか見えないが」

「違う!」

 結衣の鋭い声が、狭い部屋に響いた。

「夢は、遠くから綺麗だなって眺めるものじゃない。居酒屋で愚痴をこぼしながら語り合うためのものでもない。……夢は、自分の手で現実に引きずり下ろして、叶えるものなの。そのために、私は今ここで血を流してるの!」

 結衣の叫びには、この三年間、孤独の中で誰にも理解されずにミシンを踏み続けた魂の慟哭が混じっていた。

 「協調性」を強いる会社への反発。自分の才能への不安。それでも湧き上がってくる「作りたい」という衝動。すべてを飲み込んで、彼女は今、目の前にある布切れに自らの命を縫い付けているのだ。

 涼平は眉間を寄せ、反論しようと口を開きかけた。しかし、彼の視線が、部屋の中央に置かれたトルソーに吸い寄せられた瞬間、その言葉はピタリと止まった。

 それは、ただの服ではなかった。

 深い夜空のようなネイビーのウール生地。極限まで計算し尽くされたウエストの絞り。そして、光の当たる角度によって微妙に表情を変える、アシンメトリーな襟のカット。

 ファッションの専門知識など持ち合わせていない涼平の目にも、それが単なる「素人の手作り」の域を遥かに超えていることは一瞬で理解できた。そこには、圧倒的な美しさと、見る者の目を釘付けにするような強烈な「引力」が宿っていたのだ。

「……これ、君が一人で作ったのか」

「そうよ。裏地のステッチ一つから、全部私の手作業。この三年間、寝る間を惜しんで研究した成果」

 結衣は誇り高く、けれど少しだけ震える声で答えた。

 涼平は無言でトルソーに近づき、そのジャケットの袖口にそっと触れた。滑らかな生地の感触と、寸分の狂いもない縫製。それは、彼が日々のビジネスで扱う「完璧なデータ」や「緻密な契約書」と同じくらい、隙のない完成度を誇っていた。

 結衣はただ夢を語っていたわけではなかった。

 彼女は、この薄暗く汚い部屋の中で、自らの手で狂気じみた情熱を「現実の物質」へと変換し続けていたのだ。口先だけで理想を語る連中とは違う。彼女は、圧倒的な行動力で、夢を現実に叩きつけようとしている。

「……狂ってるな、君は」

 涼平の口から漏れたのは、呆れ声ではなかった。それは、自分には到底持ち得ない種類の強さに対する、微かな畏怖のような響きを帯びていた。

「でしょ。だから、止まらないの。私の中のこの衝動だけは、誰にも止められない」

 結衣が挑発するように笑うと、涼平は深く息を吐き出し、乱れたネクタイを少しだけ緩めた。

「来月の展示会と言ったな。……場所はどこだ」

「え? 原宿のギャラリーだけど」

「分かった。予定を開けておく。俺の目から見て、君のその『叶えた夢』がビジネスとしてどの程度の価値があるのか、厳しく査定してやる」

 それは、彼なりの最大限の歩み寄りだった。

 「絶対に来ないでよ、邪魔だから」と強がる結衣に対し、涼平は「スープが冷める前に飲め。倒れられたら目覚めが悪い」と言い残し、逃げるようにアパートを後にした。

 閉まったドアを見つめながら、結衣はふと、張り詰めていた肩の力を抜いた。

 冷えかけたスープを一口飲むと、高級デリの複雑で優しい味が、胃の腑にじわりと染み渡った。

(見てなさいよ、涼平。私の服で、あんたのその平坦な現実主義を、木端微塵に打ち砕いてあげるんだから)

 夜明け前の青白い光が窓枠を染め始める中、結衣は再びミシンの前に座った。

 モーターの音が、まるで彼女自身の高鳴る心臓の鼓動のように、力強く部屋中に響き渡っていた。

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