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第2話:平坦な感動への反逆(2008年)

 2008年。東京の街は、どこか浮足立った熱狂と、その背後に忍び寄る不穏な影が混ざり合ったような空気に包まれていた。

 世界的な金融危機の足音が近づく中、アパレル業界にも「効率」と「低価格」の波が容赦なく押し寄せていた。ファストファッションブランドが都心の超一等地に巨大な旗艦店を次々とオープンさせ、消費者は安くて「そこそこ」見栄えのする服を、使い捨てのように買い求めるようになっていた。

 結衣が勤める「アトリエ・ブラン」も、その荒波の中にいた。入社3年目、ようやくジュニアデザイナーとして自分の名前で企画を出すチャンスを掴み始めていた結衣だったが、彼女の前に立ちはだかったのは、かつてないほど高く、そして無機質な「現実」という壁だった。

「夏目、この修正案だけど。もっと襟元をコンサバにして。あと、ボタンはコストを抑えるためにプラスチックの既製品に変更だ」

 会議室で差し戻されたデザイン画を手に、結衣は必死に食い下がった。

「部長、この服のアイデンティティは、この大ぶりな天然石のボタンと、少しエッジの効いた襟のラインなんです。これを変えてしまったら、どこにでもある『無難な服』になってしまいます」

「その『無難』が今一番売れるんだよ。今は冒険する時期じゃない。誰が着ても似合う、誰にでも受け入れられる、平坦で安心感のあるデザイン。それが会社が求めているものだ」

 平坦で、安心感のある。

 その言葉が、結衣の胸に冷たい棘となって刺さった。夜遅く、静まり返った作業場。結衣はデスクに広げたデザイン画をじっと見つめていた。

 彼女が作りたいのは、着る人の背筋を伸ばし、歩き出したくなるような服だ。内側に秘めた衝動を肯定し、明日への勇気を与えるような、そんな一着。だが、会社という組織の中で求められるのは、個性を削ぎ落とし、大衆という輪郭のない塊に溶け込むための「記号」だった。

(私は、こんな平坦な感動のためにデザイナーになったんじゃない……)

 鉛筆を握る指先が、怒りと悔しさで微かに震える。

 その夜、結衣は逃げるように恵比寿のバーへと向かった。カウンターの隅で、冷えたジントニックを煽る結衣の隣には、さらに隙のないビジネスマンへと成長した涼平が座っていた。

 入社3年目。涼平は社内でも期待の若手として、海外の資源開発プロジェクトの末端を担うようになっていた。彼の語る言葉は以前にも増して冷徹な数字に裏打ちされ、その視線は常に「正解」だけを追い求めていた。

「また機嫌が悪いな、結衣」

「……涼平はいいよね。数字が正解なら、それに従えばいいんだから。迷う必要なんてないでしょ」

 結衣が吐き捨てるように言うと、涼平は氷の入ったグラスをゆっくりと回した。

「ビジネスに感情を持ち込むのは非効率だと言ったはずだ。特に今はリーマン・ショックの影響で、どの業界も生き残りに必死だ。君の会社がコストを削り、無難な路線に走るのは、生存本能として極めて正しい」

「正しければ、それでいいの? 誰の心も動かさない、ただ消費されるだけのものを作ることが、私たちの生きてる意味なの?」

「結衣、いい加減に大人になれ。多くの人間が求めているのは、君が言うような『震えるような感動』じゃない。適度な価格で、適度に満足できる、平坦な幸福感だ。それを否定するのは、顧客を否定するのと同じだぞ」

 涼平の言葉は、まるで完璧な防壁のように結衣の情熱を跳ね返した。

 彼は、この3年でさらに「現実」という名の重力に馴染んでいた。失敗を避け、リスクを計算し、最短距離で結果を出す。それが彼の歩む、山も谷もない、舗装された美しい道だった。

「……ねえ、涼平。山も谷もない道って、歩いてて楽しい?」

 結衣が静かに、だが重みのある声で尋ねた。涼平は怪訝そうに眉を寄せた。

「楽しいかどうかなんて考えたこともない。ただ、それが目的地に辿り着くための最善のルートだから歩いているだけだ」

「私は、そんなの嫌。ジェットコースターみたいに、怖くて、心臓が止まりそうで、でも最高に生きてるって実感が持てる道がいい。平坦な道なんて、歩いてるうちに自分が消えてしまいそうで、怖くて仕方ないの」

 二人の間に、冷ややかな空気が流れた。

 かつて恵比寿の焼肉屋で感じた、わずかな共鳴。それは今、はっきりとした不協和音へと変わっていた。涼平には結衣の焦燥が「若さゆえのわがまま」に見え、結衣には涼平の合理性が「魂の死」のように思えた。

「君とは、いつまで経っても議論が成立しないな」

「そうだね。私たち、見てる景色が全然違うんだよ」

 結衣は残りのカクテルを飲み干すと、バッグを掴んで席を立った。

「結衣、どこへ行くんだ」

「会社に戻る。部長に言われた通りのデザインは書くよ。お給料をもらってる以上、それは私の仕事だから。……でも」

 ドアに手をかけ、結衣は振り返った。その瞳には、かつての少女のような無邪気さではなく、何があっても譲れない「矜持」が宿っていた。

「私の本当の衝動デザインは、誰にも渡さない。絶対に」

 夜の冷たい風に打たれながら、結衣は一人、駅へと歩いた。

 都会の喧騒、ビルの明かり、行き交う人々の無機質な表情。そのすべてが、結衣に「協調」を強いているように感じられた。

 教え込まれたルール。求められる調和。だが、結衣の胸の奥底では、制御不能な欲望が暴れ出そうとしていた。

 翌朝。結衣は、部長から指示された「無難なデザイン案」と一緒に、もう一通の封筒を提出した。

 それは、会社を通さず、週末の時間を使って、たった一人で描き上げた「結衣自身のブランド」の構想スケッチだった。

 山も谷もない道なんて、つまらない。

 どんなに激しく揺れても、どれほどリスクがあっても、私は私の信じる道を行く。

 2008年の終わり。世界が大きく形を変えようとする中で、結衣は自分自身に誓った。平坦な感動に甘んじる自分を、今日ここで捨てるのだと。

 その決意が、後にどれほど険しい崖へと自分を導くことになるのか。結衣はまだ知らない。ただ、胸の鼓動だけが、これまでになく激しく、確かに鳴り響いていた。

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