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第1話:交わらないふたつの視線(2005年)

 2005年、12月。東京・青山の裏通りにある雑居ビルの3階では、深夜になっても煌々と蛍光灯の明かりが点いていた。

 窓の外では冷たい木枯らしが吹き荒れ、行き交う人々は皆、厚手のコートの襟を立てて足早に駅へと向かっている。しかし、デザイン会社「アトリエ・ブラン」の薄暗い作業場の中だけは、熱気と埃、そして布地が擦れる微かな音に包まれていた。

「夏目、このパターンの修正、明日の朝イチの会議までに頼む。あと、Bラインのサンプルの縫製も上がってくるから、そっちのチェックも忘れずにな」

「はい、分かりました! お疲れ様です」

 上司の足音がエレベーターの奥へと消えていくのを見送ると、夏目結衣なつめ ゆいは小さくため息をつき、乱れた前髪を無造作にピンで留め直した。

 入社1年目。専門学校を卒業し、憧れのファッション業界に飛び込んだ結衣を待っていたのは、華やかなランウェイでも、クリエイティビティに溢れるデザイン画の作成でもなかった。来る日も来る日も、先輩デザイナーが描いたラフを実寸大のパターンに起こし、ミリ単位の修正に追われ、大量の布見本スワッチの整理をするという、地味で過酷な下働きの日々だ。

 結衣の指先は、待ち針を刺し間違えた小さな傷や、ハサミの使いすぎでできたタコで荒れていた。それでも、彼女の瞳の奥にある強い光が消えることはなかった。

(いつか絶対に、私の名前を冠したブランドを立ち上げる。誰かの真似事でも、売れ線だけを狙った無難な服でもない。着た人の心が震えるような、本当の服を作るんだ)

 それが、結衣を突き動かす唯一にして最大の原動力だった。世間は今、コンサバティブで男性受けの良い「愛されファッション」の全盛期。雑誌を開けば、パステルカラーのアンサンブルや、ふわりとしたシフォンスカートばかりが並んでいる。もちろん、それがビジネスとして正解であることは結衣も理解していた。会社が利益を出すためには、多くの消費者に受け入れられる安全なデザインを作らなければならない。

 しかし、結衣の心の中には常に、もっと尖った、もっと自由で挑戦的なデザインへの渇望が渦巻いていた。舗装された安全な道を歩くことなど、彼女にとっては退屈なだけだったのだ。

 深夜23時半。ようやくその日の業務を終えた結衣は、終電に間に合わせるために最寄り駅へと駆け込んだ。折りたたみ式の携帯電話ガラケーを開くと、一通の短いメールが届いていた。

『今夜も終電? 明日の夜、恵比寿で飯でもどう。』

 送り主は、高柳涼平たかやなぎ りょうへい

 数ヶ月前、学生時代の友人に半ば強引に連れられて行った合コンで知り合った男だ。彼は誰もが名を知る大手総合商社に勤めるエリートであり、結衣と同い年ながら、すでにどこか達観したような落ち着きを持っていた。

『ありがとう! 行く。お肉が食べたいです』

 結衣が短い返信を打つと、すぐに『了解。駅前の焼肉屋、19時に予約しておく』と味気ない文字が返ってきた。絵文字の一つもないその文面に、結衣は思わず苦笑した。

 翌日の夜。恵比寿駅近くにある、少し騒がしい大衆焼肉店。

 煙が立ち込める店内で、結衣はジョッキのウーロン茶を片手に、目の前のカルビを勢いよく網に乗せていた。対面に座る涼平は、パリッとした仕立ての良いスーツを身に纏い、そんな結衣の様子を静かに見つめている。

「相変わらず、すごい食欲だな」

「だって、昨日からまともにご飯食べてないんだもん。コンビニのおにぎり一個とか、そんなのばっかり」

 結衣が頬を膨らませながら言うと、涼平は小さくため息をつき、自分の手元のグラスを傾けた。

「お前のその働き方、客観的に見てコストパフォーマンスが悪すぎるぞ。労働時間に対して得られる対価が全く見合っていない。今の会社、残業代もまともに出ないんだろ?」

「出ないよ? アパレルのアシスタントなんてどこもそんなもん。見習い期間みたいなものだし」

「だからって、体を壊したら元も子もないだろ。俺なら、そんな投資対効果の低い環境にはいられないね。仕事っていうのは、いかに効率よく利益を最大化するかだ」

 涼平の言葉は、いつだって正論だった。商社で日々巨大な資金と物資を動かし、エクセルに並ぶ数字の羅列と格闘している彼にとって、目に見えない「情熱」や「夢」といった不確かなものは、計算式に組み込めないノイズでしかないのだ。

「涼平の仕事はそうかもしれないけど、服作りは違うの。効率だけ追い求めてたら、人の心を動かす服なんて作れない」

「心を動かす? 結衣、いいか。ビジネスにおけるファッションの正解は『売上』だ。どんなに一部の人間が芸術的だと絶賛しても、数字が伴わなければそれはただの自己満足だよ。君の会社の社長が、無難で売れ筋の服ばかり作らせるのも、経営者としては極めて全うな判断だ」

 涼平の冷静な分析に、結衣は網の上で焦げかけていた肉を慌てて皿に避難させながら、強い口調で反論した。

「それは分かってる! 分かってるけど、私は自己満足で終わらせる気なんてない。いつか自分のブランドを作って、私が心から『最高だ』って思える服で、ちゃんと数字も出してみせる。そのためだったら、今はどれだけ泥水すすったって構わないの」

「自分のブランドか。……無謀だな。アパレルで独立して成功する確率がどれくらいか、データを見たことはあるのか?」

「データなんて関係ない。私がそう決めたの。やりたいことをやらないで、ただ安定した場所で安全に息をしてるだけなんて、生きてる意味がない」

 結衣の大きな瞳が、店の照明を反射して爛々と輝いていた。その真っ直ぐすぎる視線に射抜かれ、涼平は一瞬、言葉を失った。

 涼平の周囲にいる人間は、皆賢く、リスクを避けて生きている。同期たちは休日のゴルフ接待や社内政治に精を出し、いかにして出世の最短ルートを歩むかを計算し尽くしている。涼平自身も、それが「正しい大人」の生き方だと信じて疑わなかった。

 だが、目の前にいるこの小柄な女性はどうだ。計算も打算もなく、ただ自身の内側から湧き上がる強烈な熱量だけで、茨の道を全速力で駆け抜けようとしている。

 それは、涼平の辞書にはない生き方だった。危なっかしくて、不器用で、到底理解できない。しかし――なぜか涼平は、そんな結衣から目を離すことができなかったのだ。

「……勝手にしろ。だが、倒れるのだけは勘弁してくれよな。俺は非効率な看病はご免だからな」

 呆れたように肩をすくめた涼平だったが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。

 結衣もまた、涼平の冷たい言葉の裏にある、不器用な優しさに気づいていた。彼は決して、結衣の夢を頭ごなしに否定しているわけではない。ただ、彼なりのロジックで心配してくれているだけなのだ。

「倒れないよ。私はめちゃくちゃ頑丈にできてるから」

 結衣は網の上で完璧に焼き上がったカルビを一切れ、涼平の皿にポイッと乗せた。

「ほら、涼平も食べなよ。いつも数字ばっかり見てて、人間らしい感情を忘れてるんじゃない?」

「余計なお世話だ」

 二人の間に、不思議な沈黙が落ちた。それは決して気まずいものではなく、全く異なる世界に住む二つの魂が、互いの存在を認め合い、かすかに触れ合った瞬間の静寂だった。

 店を出ると、冷たい12月の風が二人の間を吹き抜けた。結衣が身震いをした瞬間、涼平が自分の首に巻いていたカシミヤの重厚なマフラーを無言で外し、結衣の首にぐるりと巻きつけた。

「え、いいよ、涼平が寒いじゃん」

「俺はコートが厚手だからいい。それより、明日も朝から晩までパターン引きなんだろ。風邪ひかれて倒れられたら、次飯に誘う時に迷惑だ」

 素っ気ない言葉とは裏腹に、マフラーからは涼平の体温と、かすかなシトラス系の香水がふわりと香った。結衣はマフラーに顔を少し埋め、その温もりに包まれながら小さく笑った。

「……ありがとう。次はお給料出たら、私が奢るね」

「期待しないで待ってるよ」

 駅の改札で手を振って別れる時、結衣はふと振り返り、雑踏の中に消えていく涼平の広い背中を見つめた。

 何もかもが正反対の彼。絶対に交わるはずのない二つの視線。しかし、この夜を境に、二人の運命の歯車はゆっくりと、そして確実に噛み合い始めていた。

 まだ何者でもない、何一つ手にしていない2005年の冬。

 結衣の胸の中では、ブランド設立という野望と、そして涼平に対する名前のつかない新しい感情が、熱く脈打ち始めていた。未来がどれほど過酷で、どれほど予測不能な波乱に満ちているかなど、この時の二人には知る由もなかった。

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