茨
出来のいい作品に出会った。本当に久々のことだった。
私は、自分が書いている物語と少し比べて落ち込んだ。私の物語は、浅い。
浅いだけでない。感情的にも弱いし、キャラクターにも魅力がない。
優っている部分がひとつもないように感じられて、私は自分の作家としての現在の地点がいかに低い場所にあるか思い知ったような気持ちになった。
この世にでき悪い作品はいくらでもある。また自分の趣味に合わない作品や理解できない作品も。そういうのを見れば、自分の書いているものは決して悪くないもののように思えるけれど、自分が認めざるを得ないような優れた作品を見るたびに、私は自分にそれと並ぶようなものが書けるだろうかと思い、ひどく落ち込む。
今書いているものは、どうしようもなくくだらなくて価値のないものだと思ってしまう。自分がそれに何か月、何百万字捧げていようとも。
悲しいのは、その自分が優れていると思った作品から、自分自身が特に何も学べていないこと。新たな発見も、新たな視点も、得られてはいないということ。なぜなら、私が書きたいと思っていることの隣接領域だから、知識的な面でも、精神的な面でも、大きな差異がないから。
そして優れた作品というのはたいてい、作者すらもどうやって書かれたのかわからないことが多くて、当然外から見ても同じこと。学び取ることなどできない要素が多すぎる。一回きりのもの。技巧ではどうにもならないもの。
私は自分がふとひどく平凡な人間のように思えた。何のとりえもない、何も与えられていない、ただ苦しんでいるだけの人間。
物語を書くのに才能がいるなどと考えるのは無粋であり、物語を作者の自己満足とつなげて考えるのは邪道だ。
私はいつだって供物をささげるように物語を書かなければならないと思ってきた。自分の精神を材料にして、できる限りおいしいスープを作る。
でもその材料はひどく、それを扱う腕も悪かったなら、私はどうやって自分の存在を受け入れればいいと言うのだろう。
あるのは劣等感ではなく困惑である。
絶望したり苦悩しているのではなく、私は途方に暮れているのである。
私がどれだけ劣った存在であろうとも、存在している限り存在を続けるしかないし、書くことしかできない存在は書き続けるしかない。どんな劣った、悪趣味な目的であろうとも、手が動き限りはその手の動くままにするしかないのだから、私は物語を書き続けることに変わりはない。
何を書くのか。何を目指すのか。お前は何なのか。何になろうとしていて、何を選ぼうとしているのか。
もともとわかっていたわけではないが、こうした途方もない問いが再び私の前に大きく立ち上がったような気がしてならない。
私は私が満たしたいと思っている自分の基準に達していない。でもそれに達して満足している自分を私はおそらく軽蔑するだろうから、どれだけ背伸びしても今は届かないことがもしかすると一番いいことなのかもしれないと思うのは、私のこの病的な楽観主義的で神秘主義的な考え方のせいだろうか。
私は今でも自分の道は何か大きな力によって整えられているように感じている。何か危険なことがあったり、すべてを損なってしまうような誤った道や選択に近付いていった時に、私がそうと気づくより先にその道を塞ぎ、物理的に私の選択肢を狭め、私を導いている何かしらの存在があるような気がしてならない。
私がやらなければならないことから逃げ出そうとするたび、あるいは私がやらなければならないことを阻害するような何かを私が求めるたび、現実は私からそれを取り上げる。どれだけ努力しても手に入らないほど遠いかなたに投げ捨てて、私の手に残されたちっぽけなものに目を向けるよう仕向けている。
私はそれに感謝してきた。自分でも自分を滑稽だと思いながら。
それが私を孤独にしている原因のひとつかもしれないとも思いながら。




