本当の気持ち
本当に大切な人だからこそ、
傷つけたくなくて、本音を隠してしまう。
でも、言葉にしなければ伝わらない想いがあります。
第7ページでは、少し距離を置いた二人が、自分自身と向き合い、本当の気持ちに気づいていきます。
「怖かった。」
その一言が、二人の未来をもう一度動かし始めます。
美月が実家へ帰って三日が過ぎた。
たった三日。
それなのに悠真には、一か月にも一年にも感じられた。
部屋は静かだった。
朝起きても、「おはよう」と言う相手がいない。
食卓には一人分の皿だけ。
帰宅しても、玄関から「おかえり」と聞こえない。
冷蔵庫には、美月が作り置きしてくれたおかずがまだ少し残っていた。
ラップには、小さな付箋。
『無理しないでね』
たったそれだけの文字。
その笑顔の絵文字を見ただけで、悠真は胸が苦しくなった。
「俺……。」
リビングで一人呟く。
「何やってたんだろう。」
部屋中に美月の存在が残っている。
ソファに置かれたクッション。
洗面所の歯ブラシ。
本棚に並ぶ小説。
冷蔵庫に貼られた買い物メモ。
何も片付けられなかった。
片付けたら、本当にいなくなってしまう気がした。
仕事へ行っても集中できない。
会議中、何度もスマートフォンを見てしまう。
通知は来ない。
もちろんだ。
距離を置こうと言ったのは二人だった。
なのに、自分だけがその約束を守れない。
昼休み。
会社近くの公園で缶コーヒーを飲んでいると、後ろから声をかけられた。
「朝比奈。」
振り返ると、会社の先輩・佐伯だった。
「珍しいな、お前が一人で昼飯。」
「少し気分転換です。」
佐伯は隣へ腰掛けた。
「何かあった?」
悠真は苦笑した。
「顔に出てます?」
「めちゃくちゃ。」
最近、そればかり言われる。
昔なら隠せていた感情が、今はすぐ表に出てしまう。
悠真は少し迷ったあと、小さく話し始めた。
「婚約者と……少し距離を置いてるんです。」
佐伯は黙って聞いていた。
「俺が。」
「心配しすぎて。」
「苦しめてしまいました。」
全部話し終えると、佐伯は缶コーヒーを一口飲んだ。
「朝比奈。」
「はい。」
「お前さ。」
「守るって何だと思う?」
突然の質問だった。
悠真は答えられない。
「危険から遠ざけること……ですか。」
佐伯は首を振った。
「半分正解。」
「え?」
「もう半分は。」
空を見上げながら言った。
「相手を信じること。」
悠真は黙った。
「子どもなら手を引っ張ればいい。」
「でも、大人は違う。」
「転ぶかもしれない。」
「失敗するかもしれない。」
「それでも信じて送り出す。」
「それも守るってことだ。」
その言葉が胸に刺さった。
自分は、美月を守ると言いながら。
本当は、自分の恐怖から逃げていただけなのかもしれない。
失うのが怖くて。
確認して。
縛って。
安心しようとしていた。
「怖かったんだな。」
佐伯が言う。
「はい。」
「でも。」
笑って立ち上がる。
「怖いのは、お前だけじゃないぞ。」
その一言を残し、佐伯は会社へ戻っていった。
悠真はしばらく公園に座ったまま動けなかった。
――怖いのは、お前だけじゃない。
その言葉が頭の中で何度も繰り返された。
一方、美月も実家で眠れない夜を過ごしていた。
子どもの頃使っていた部屋。
本棚。
机。
制服姿の写真。
何もかも昔のままだ。
それなのに、自分だけが変わってしまった気がした。
夜。
実家のリビングで一人紅茶を飲んでいると、祖母が隣へ座った。
「美月。」
「うん。」
「泣いたね。」
美月は驚いた。
「どうしてわかったの?」
祖母は優しく笑う。
「小さい頃から泣いたあとは、目が少し赤くなる。」
美月は思わず笑ってしまった。
「おばあちゃんには隠せない。」
「隠さなくていいんだよ。」
その言葉だけで、また涙が出そうになった。
「悠真くんと喧嘩したの?」
美月は静かに頷いた。
「別れたの?」
「違う。」
「じゃあ。」
「少し離れてるだけ。」
祖母は少し考えたあと、穏やかに言った。
「好きなの?」
美月は迷わなかった。
「大好き。」
「結婚したい?」
「したい。」
「じゃあ。」
祖母はお茶を飲みながら笑う。
「ちゃんと伝えなさい。」
「伝えたよ。」
「違う違う。」
首を横に振る。
「好きって言葉じゃない。」
「え?」
「怖いって気持ち。」
美月は言葉を失った。
「人はね。」
祖母は窓の外を見つめる。
「本当に好きな人には、強がっちゃうの。」
「嫌われたくないから。」
「でも。」
「結婚ってね。」
「弱い自分を見せ合える相手じゃないと続かない。」
その言葉が、美月の胸へ静かに落ちていく。
私は。
本当に全部話しただろうか。
悠真へ。
“苦しい”とは言った。
でも。
“怖い”とは、まだ言っていない。
母のようになることが怖い。
誰かに縛られることが怖い。
幸せを失うことが怖い。
その全部を、まだ言葉にできていなかった。
祖母は美月の手をそっと握った。
「美月。」
「うん。」
「強い子じゃなくていい。」
その一言に、美月は涙をこぼした。
「もう。」
祖母は優しく笑う。
「十分頑張ったでしょう。」
美月は泣きながら頷いた。
その頃。
悠真は部屋で一冊のアルバムを開いていた。
高校時代の写真。
陽菜と写った最後の文化祭。
あの日から何度も見返してきた写真だった。
しかし今日は違った。
写真の中の陽菜が笑っている。
その笑顔を見ながら、悠真は初めてこう思った。
――ごめん。
ずっと過去だけを見ていた。
陽菜を忘れないことと、前へ進まないことは違う。
もし陽菜が今ここにいたら。
きっと。
「幸せになって。」
そう言う気がした。
悠真は写真を胸へ抱きしめる。
涙が一粒落ちた。
それは後悔の涙ではなかった。
感謝と、別れと、前へ進む決意が混ざった涙だった。
その夜。
悠真はスマートフォンを開いた。
美月とのトーク画面。
何度も文字を打つ。
消す。
また打つ。
送れない。
距離を置こうと言ったのは自分たちだ。
でも。
どうしても伝えたいことがあった。
悠真は深呼吸をして、一通だけ送った。
『会いたい。』
たった三文字。
送信ボタンを押した瞬間、胸が大きく鳴った。
数分後。
スマートフォンが震えた。
美月からだった。
『私も。』
たった三文字だった。
それなのに、悠真は何度も画面を見返した。
美月も、同じ気持ちだった。
胸の奥で張りつめていたものが、少しだけほどける。
悠真はすぐに返信を打とうとした。
けれど指が止まる。
「今から会おう。」
そう送れば、きっと美月は来てくれる。
でも、それでは何も変わらない気がした。
大切なのは寂しさを埋めることではない。
もう一度、ちゃんと向き合うことだった。
悠真はゆっくり文字を打つ。
『明日、会える?』
送信。
数秒後。
『うん。』
それだけで十分だった。
翌日。
二人は初めて出会った図書館の近くにある、小さな公園で待ち合わせをした。
春に出会い、恋が始まった場所。
あの日と同じように風が吹き、木々が静かに揺れていた。
悠真が先に着いていた。
何度も腕時計を見る。
緊張して落ち着かない。
すると、公園の入口から美月が歩いてきた。
目が合う。
二人とも少しだけ笑った。
でも以前のようにすぐ隣へは行けない。
少しだけ距離があった。
「久しぶり。」
悠真が言う。
「三日しか経ってないのにね。」
美月は笑った。
「すごく長かった。」
「うん。」
「私も。」
ベンチへ並んで座る。
沈黙。
でも嫌な沈黙ではなかった。
お互いに言葉を探している時間だった。
最初に口を開いたのは悠真だった。
「ごめん。」
深く頭を下げる。
「美月を守るって言いながら。」
「苦しめてた。」
美月は静かに首を横へ振った。
「私も、ごめん。」
「一人で抱え込んで。」
「苦しいって言うだけで。」
「怖いって言えなかった。」
二人は同時に苦笑した。
「似てるね。」
悠真が言う。
「うん。」
美月も笑う。
「私たち。」
「似すぎてる。」
その言葉に、二人は少しだけ肩の力が抜けた。
悠真はゆっくり話し始めた。
「俺。」
「先輩に言われた。」
「守るって。」
「信じることでもあるって。」
美月は静かに聞いている。
「今まで。」
「美月を信じてないわけじゃなかった。」
「でも。」
言葉を探す。
「失うのが怖くて。」
「確認ばかりしてた。」
「美月を見てたんじゃなくて。」
「俺の不安だけ見てた。」
それが一番伝えたかったことだった。
美月は少し目を潤ませる。
「ありがとう。」
「ちゃんと言ってくれて。」
悠真は頷いた。
「もう一つある。」
「うん。」
「陽菜のこと。」
その名前を聞いても、美月は驚かなかった。
静かに待っている。
「ずっと。」
「忘れちゃいけないと思ってた。」
「幸せになったら。」
「陽菜を裏切る気がして。」
美月はそっと悠真の手を握った。
「違うよ。」
小さく言う。
「え?」
「陽菜さんを忘れないことと。」
「幸せになることは。」
「きっと別なんだよ。」
悠真は涙をこらえた。
「思い出は。」
美月は続ける。
「誰かを縛るためじゃない。」
「前へ進む力にもなる。」
その言葉を聞いた瞬間。
悠真の中で何かが静かにほどけた。
陽菜は思い出の中で笑っている。
その笑顔は、自分を責めるためではなく。
幸せを願ってくれている笑顔なのかもしれない。
「美月。」
「うん。」
「ありがとう。」
今度は美月が話し始めた。
「私も。」
「おばあちゃんに言われたの。」
「結婚って。」
「弱い自分を見せられる相手じゃないと続かないって。」
悠真は少し笑う。
「その通りだ。」
「うん。」
「だから。」
美月は深呼吸をした。
「怖かった。」
初めて、その言葉を口にした。
「お母さんみたいになるのが怖かった。」
「誰かに縛られて。」
「自分じゃなくなるのが怖かった。」
「だから。」
「悠真まで嫌いになりそうで。」
「距離を置きたいって言った。」
涙がこぼれる。
「本当は。」
「離れたくなんかなかった。」
悠真は美月の涙を見つめた。
「俺も。」
静かに答える。
「怖かった。」
「また。」
「大切な人を失うのが。」
二人は同じだった。
違う過去を持ちながら。
同じ恐怖を抱えていた。
だから傷つけ合ってしまった。
でも。
今なら少しわかる。
相手が敵ではなく。
戦う相手は、自分の過去だったことを。
「美月。」
「うん。」
「もう。」
悠真は笑った。
「全部一人で抱えない。」
「俺も。」
「怖い日は怖いって言う。」
「心配な日は心配って言う。」
「でも。」
「信じる。」
美月は何度も頷いた。
「私も。」
「我慢しない。」
「笑えない日は。」
「笑えないって言う。」
「泣きたい日は。」
「泣く。」
二人は自然と笑った。
その笑顔は、今までで一番自然だった。
強がっていない。
飾っていない。
本当の笑顔だった。
悠真はポケットから婚約指輪の保証書を取り出した。
「これ。」
「まだ財布に入れっぱなしだった。」
「落としたら困る。」
美月は笑った。
「ほんとに心配性。」
「うん。」
「でも。」
悠真は照れながら言う。
「少しずつ治す。」
「一緒に。」
美月はその言葉が嬉しかった。
治してあげる。
ではない。
一緒に。
その言葉が、夫婦になるということなのかもしれない。
帰り道。
二人は初めて出会った図書館へ寄った。
あの日と同じ窓際の席。
「ここだったね。」
美月が言う。
「うん。」
「私。」
「最初、悠真のこと。」
「ちょっと苦手だった。」
「知ってる。」
「知ってたの?」
「顔に書いてあった。」
二人は声を上げて笑った。
笑いながら涙が出る。
悲しいからではない。
戻ってこられた安心からだった。
図書館を出る頃には夕焼けが広がっていた。
オレンジ色の光が二人を包む。
悠真は立ち止まり、美月へ手を差し出した。
「帰ろう。」
「うん。」
美月は迷わずその手を握った。
今度は離さないように。
強く握るのではない。
いつでも握り返せるような優しい力で。
二人は並んで歩き始めた。
未来はまだ怖い。
不安も消えていない。
過去もなくならない。
でも。
一人で歩く未来ではない。
隣には、美月がいる。
美月の隣には、悠真がいる。
その事実だけで十分だった。
怖かった。
その一言を言えたから。
二人はもう一度、恋人ではなく。
人生を共に歩く相手として。
新しい一歩を踏み出した。
第7ページでは、距離を置いたことで初めて、お互いの「本当の気持ち」を言葉にすることができました。
「怖かった。」
その一言は、弱さではなく、信頼の証でした。
過去に縛られていた二人は、ようやく「一緒に過去を抱えて生きる」という答えを見つけ始めます。
次の第8ページ「思い出は消えない」では、それぞれの過去と正式に向き合い、「忘れる」のではなく「抱えて生きる」という決意を描きます。
物語はいよいよ、感動のクライマックスへ向かいます。




