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Memories  作者: あーちゃん


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6/10

思い出に縛られた二人

愛し合っているのに、すれ違ってしまう。


傷つけたいわけじゃない。

離れたいわけでもない。


それでも過去の傷は、ときに今の幸せを壊そうとします。


第6ページでは、婚約した二人に初めて訪れる大きな試練を描きます。

婚約してから、一か月が過ぎた。


 指輪は美月の左手で静かに輝いていた。


 朝、顔を洗うときも。


 仕事中にパソコンを打つときも。


 料理をするときも。


 その指輪を見るたびに、美月は胸が温かくなった。


 ――私は、この人と家族になるんだ。


 そう思うだけで、今まで知らなかった幸せが心を満たした。


 一方で悠真も、以前よりよく笑うようになった。


 結婚式場のパンフレットを二人で眺めたり、新居の家具を見に行ったり、休日にはスーパーで「どっちの洗剤が安いかな」と真剣に話し合ったり。


 そんな何気ない時間さえ愛しかった。


 しかし、幸せが大きくなるほど、悠真の心の奥では別の感情も膨らんでいた。


 ――失いたくない。


 その想いだった。


 ある日、美月から一通のメッセージが届く。


『今日は会社の歓迎会だから少し遅くなるね』


 たった一文。


 以前なら「楽しんできて」と返して終わりだった。


 でも今は違う。


 悠真の胸がざわつく。


 歓迎会。


 お酒。


 帰りが遅い。


 頭では何も問題ないと理解している。


 それなのに心が勝手に悪い未来を想像してしまう。


 事故。


 事件。


 突然の別れ。


 陽菜を失った日の記憶が、音もなく近づいてきた。


『何時くらいになる?』


 すぐ返信する。


『まだわからない』


『迎えに行こうか?』


『大丈夫』


 その笑顔の絵文字を見ても、不安は消えなかった。


 夜九時。


 十時。


 十一時。


 時計を見る回数が増えていく。


 スマートフォンを握る手にも力が入る。


 既読はつく。


 でも返信は短い。


『もう少しかかる』


 その一文だけ。


 悠真はソファから立ち上がった。


 部屋の中を何度も歩く。


 テレビはついているが、何も頭に入らない。


 十一時四十分。


 玄関の鍵が開く音がした。


「ただいま。」


 少し疲れた笑顔で美月が入ってくる。


「ごめんね、遅くなっちゃった。」


 悠真は思わず強い口調になった。


「何で電話しなかったの?」


 美月は驚いたように目を瞬かせた。


「え?」


「心配した。」


「メッセージ送ったよ?」


「それだけじゃ足りない。」


 部屋の空気が一気に変わる。


 美月はバッグを置き、ゆっくり悠真を見た。


「悠真。」


「何。」


「怒ってる?」


「怒ってない。」


「怒ってるよ。」


 その言葉が、悠真の心を逆なでした。


「心配してるだけ。」


「わかってる。」


「じゃあどうして。」


「会社の歓迎会だったんだよ。」


「それでも。」


「帰れないわけじゃない。」


「でも!」


 声が大きくなる。


 美月は少しだけ肩を震わせた。


 悠真はすぐ後悔した。


 怒鳴りたいわけじゃない。


 ただ怖かっただけなのだ。


 でも、その怖さをうまく伝えられない。


「ごめん。」


 悠真が小さく言う。


 しかし美月は首を振った。


「私も、ごめん。」


「違う。」


「違わない。」


 少し沈黙が流れる。


 美月は静かに息を吐いた。


「悠真。」


「うん。」


「私ね。」


「結婚しても。」


「仕事は続けたい。」


 突然の話だった。


 悠真は少し戸惑う。


「もちろん。」


「歓迎会もある。」


「付き合いもある。」


「帰りが遅くなる日もある。」


「……うん。」


「そのたびに今日みたいになるなら。」


 美月は少しだけ目を伏せた。


「苦しい。」


 その一言が胸に刺さる。


 悠真は何も言えなかった。


 苦しめたいわけじゃない。


 守りたいだけ。


 でも、その守りたいが、美月を苦しめている。


 その事実が何より苦しかった。


 翌日。


 二人はほとんど会話をしないまま朝を迎えた。


「行ってきます。」


「……行ってらっしゃい。」


 いつもの笑顔がない。


 玄関の扉が閉まる音だけが部屋へ響いた。


 仕事中も悠真は集中できなかった。


 美月を傷つけた。


 でも、自分も苦しい。


 どうすればいいのかわからない。


 一方、美月も仕事へ集中できなかった。


 昨日の悠真の顔が何度も浮かぶ。


 あの人は怒っていたわけじゃない。


 怖かっただけ。


 それはわかる。


 でも。


 「何時に帰るの?」


 「誰といるの?」


 「電話して。」


 その積み重ねが、少しずつ息苦しくなっていた。


 昼休み。


 美月は親友の絵里奈を呼び出した。


「珍しいね。」


 絵里奈は美月の顔を見るなり言った。


「喧嘩?」


 美月は苦笑した。


「顔に出てる?」


「めちゃくちゃ。」


 美月は昨日の出来事を全部話した。


 絵里奈は最後まで黙って聞いていた。


「悠真くん。」


「悪い人じゃない。」


「うん。」


「むしろすごく優しい。」


「うん。」


「でも。」


 絵里奈はコーヒーを一口飲む。


「優しさが、不安に負け始めてる。」


 その言葉に、美月は黙った。


 図星だった。


 悠真は愛している。


 でも愛が強くなるほど、不安も大きくなっている。


「結婚前だから余計だね。」


 絵里奈が言う。


「幸せになれる直前って、一番怖いから。」


 美月は静かに頷いた。


 その夜。


 悠真は早く帰宅した。


 美月の好きなシチューを作ろうと思った。


 料理なんて得意じゃない。


 でも謝りたかった。


 素直に。


 ちゃんと。


 美月が帰ってくる頃には、部屋中にシチューの匂いが広がっていた。


 時計は七時。


 七時半。


 八時。


 美月は帰ってこない。


 スマートフォンを見る。


 連絡はない。


 胸がまたざわつき始める。


 昨日と同じだ。


 やめろ。


 考えるな。


 大丈夫だ。


 自分へ何度も言い聞かせる。


 でも止められない。


 八時十五分。


 悠真はとうとう電話をかけた。


 呼び出し音。


 一回。


 二回。


 三回。


 出ない。


 呼吸が苦しくなる。


 その瞬間だった。


 玄関の扉が開いた。


「ただいま。」


 美月だった。


 悠真は思わず立ち上がる。


「どうして電話出ないんだ!」


 その声は、自分でも驚くほど大きかった。


 美月は悲しそうに笑う。


「会議中だった。」


「一言くらい。」


「会議中は無理だよ。」


「でも。」


「悠真。」


 美月はゆっくり言った。


「お願いだから。」


 その目には涙が浮かんでいた。


「私を信じて。」


 その一言は、小さかった。


 けれど悠真の胸には、何よりも重く響いた。


 信じたい。


 誰よりも信じたい。


 でも、その言葉が一番難しかった。


 陽菜を失った日から、「大丈夫」という言葉を信じることが怖くなってしまったからだ。


 悠真は唇を噛み締めた。


「信じてる。」


 そう答えた。


 しかし、その声には自分でもわかるほど迷いがあった。


 美月は静かに首を横へ振る。


「違う。」


「え……?」


「信じようとしてる。」


「でも、本当は怖い。」


 図星だった。


 悠真は何も言えない。


「私は。」


 美月はゆっくり続ける。


「悠真が心配してくれることは嬉しい。」


「本当に嬉しい。」


「でもね。」


 一歩近づく。


「心配され続けると。」


 少しだけ笑った。


 泣きそうな笑顔だった。


「私は悪いことをしてる人みたいな気持ちになる。」


 悠真は息を止めた。


 そんなふうに思わせていたなんて、考えもしなかった。


「違う。」


 思わず声を上げる。


「そんなつもりじゃない。」


「わかってる。」


 美月は優しく頷いた。


「だから苦しいの。」


「悠真は悪くない。」


「私も悪くない。」


「でも苦しい。」


 部屋に静寂が落ちる。


 シチューの湯気だけが静かに立ち上っていた。


 悠真は椅子へ座り込む。


 両手で顔を覆う。


「俺。」


 小さく呟いた。


「また同じことしてる。」


 陽菜を守れなかった。


 その後悔が、今度は美月を縛っている。


 守りたい。


 失いたくない。


 その気持ちが、美月から自由を奪っている。


「最低だ。」


 悠真は震える声で言った。


「俺は結局、自分が怖いだけなんだ。」


 美月はゆっくり隣へ座った。


「最低じゃない。」


「最低だよ。」


「違う。」


「美月を苦しめてる。」


「違う。」


 美月は首を振る。


「苦しいのは。」


 悠真を見つめる。


「二人とも。」


 その言葉に、悠真は顔を上げた。


「私は。」


 美月は続ける。


「悠真がどれだけ怖い思いをしてきたか知ってる。」


「陽菜さんのことも。」


「だから責められない。」


「でも。」


 一粒涙が落ちる。


「私も。」


「息が苦しくなる日がある。」


 悠真は何も言えなかった。


 美月は笑おうとした。


 でも笑えなかった。


「昔ね。」


 静かに話し始める。


「母に毎日言われてた。」


 “どこにいるの?”


 “誰といるの?”


 “何時に帰るの?”


 “ちゃんとしなさい。”


 “期待を裏切らないで。”


「だから。」


「誰かに行動を確認されるたび。」


「昔へ戻ったみたいになる。」


 悠真は目を見開いた。


 知らなかった。


 そんな傷があったなんて。


「ごめん。」


 悠真は震える声で言う。


「本当に、ごめん。」


 美月は涙を拭きながら微笑んだ。


「謝らないで。」


「でも。」


「謝るより。」


 少しだけ首を傾げる。


「一緒に考えてほしい。」


「どうしたら。」


「二人とも苦しくならないか。」


 その言葉は、喧嘩ではなかった。


 責め合いでもなかった。


 二人で未来を探そうという提案だった。


 悠真はゆっくり頷く。


「……うん。」


「考える。」


「一緒に。」


 しばらく沈黙が続く。


 時計の針だけが静かに動いていた。


 しかし、その静けさは以前とは違っていた。


 お互いを責める沈黙ではない。


 考えるための沈黙だった。


 その夜。


 二人はシチューを食べた。


 もう温かくはなかった。


 少し冷めていた。


 それでも美月は一口食べて笑った。


「おいしい。」


「本当?」


「うん。」


「ルー焦がしたけど。」


「知ってる。」


 二人は少しだけ笑った。


 けれど笑顔は長く続かなかった。


 食器を洗い終えたあと、美月がぽつりと言った。


「少しだけ。」


「距離を置こうか。」


 悠真の手が止まる。


「え……。」


「別れたいわけじゃない。」


「でも。」


「このままだと。」


 美月は苦しそうに息を吐いた。


「お互い壊れちゃう。」


 その言葉は正しかった。


 だからこそ辛かった。


「少しだけ。」


「考える時間がほしい。」


 悠真は何も言えなかった。


 引き止めたい。


 嫌だと言いたい。


 でも。


 今のままでは、本当に二人とも壊れてしまう。


「……わかった。」


 やっとそれだけ言えた。


 美月は泣きながら笑った。


「ありがとう。」


「明日。」


「少しだけ実家へ帰るね。」


 悠真は頷いた。


 その夜。


 二人は同じベッドで眠った。


 けれど互いに背中を向けたままだった。


 こんなに近いのに。


 こんなに遠い。


 手を伸ばせば届く距離なのに。


 誰も手を伸ばせなかった。


 悠真は眠れなかった。


 天井を見つめながら思う。


 また失うのだろうか。


 また守れないのだろうか。


 その恐怖だけが頭を埋め尽くしていた。


 一方、美月も眠れなかった。


 悠真を愛している。


 誰よりも。


 だから離れたいわけじゃない。


 でも、このままでは笑えなくなる。


 愛しているからこそ、少し離れるしかない。


 それが今できる唯一の選択だった。


 朝。


 目覚ましが鳴る前に、美月は起きた。


 静かに荷物をまとめる。


 大きな旅行鞄ではない。


 二泊分だけ入る、小さなバッグ。


 悠真はその音で目を覚ました。


 二人は目が合う。


 何も言えない。


「行ってくる。」


 美月が小さく言った。


「……うん。」


「少しだけだから。」


「うん。」


「ちゃんと戻るから。」


 その約束を聞いても、悠真の心は安心できなかった。


 玄関の扉が閉まる。


 静かだった部屋が、急に広く感じた。


 テーブルには二人分のマグカップ。


 洗面所には二本並んだ歯ブラシ。


 ソファには美月が置き忘れたクッション。


 どこを見ても、美月がいる。


 なのに、いない。


 悠真はリビングへ座り込んだ。


 静かな部屋で、一人呟く。


「怖い。」


 誰に聞かせるでもない。


 心の底からこぼれた本音だった。


 一方、美月は電車の窓から流れる街を眺めていた。


 涙はもう止まっていた。


 でも胸は痛かった。


 悠真を愛している。


 だから離れる。


 そんな恋があるなんて思わなかった。


 二人とも悪くない。


 二人とも愛している。


 それなのに。


 過去という見えない鎖が、二人を少しずつ縛っていた。


 愛だけでは乗り越えられない現実がある。


 そのことを、二人は初めて知った夜だった。

第6ページでは、婚約した二人が初めて大きくすれ違い、「少し距離を置く」という苦しい決断をしました。


悠真は「失う怖さ」に縛られ、美月は「縛られる怖さ」に苦しんでいました。


どちらも相手を愛しているからこそ生まれた痛みです。


しかし、この別れ話は終わりではありません。


次の第7ページ「本当の気持ち」では、離れて初めて気づく本音と、お互いが本当に求めていたものが描かれます。


「怖かった。」


その一言が、二人の運命をもう一度動かし始めます。

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