思い出に縛られた二人
愛し合っているのに、すれ違ってしまう。
傷つけたいわけじゃない。
離れたいわけでもない。
それでも過去の傷は、ときに今の幸せを壊そうとします。
第6ページでは、婚約した二人に初めて訪れる大きな試練を描きます。
婚約してから、一か月が過ぎた。
指輪は美月の左手で静かに輝いていた。
朝、顔を洗うときも。
仕事中にパソコンを打つときも。
料理をするときも。
その指輪を見るたびに、美月は胸が温かくなった。
――私は、この人と家族になるんだ。
そう思うだけで、今まで知らなかった幸せが心を満たした。
一方で悠真も、以前よりよく笑うようになった。
結婚式場のパンフレットを二人で眺めたり、新居の家具を見に行ったり、休日にはスーパーで「どっちの洗剤が安いかな」と真剣に話し合ったり。
そんな何気ない時間さえ愛しかった。
しかし、幸せが大きくなるほど、悠真の心の奥では別の感情も膨らんでいた。
――失いたくない。
その想いだった。
ある日、美月から一通のメッセージが届く。
『今日は会社の歓迎会だから少し遅くなるね』
たった一文。
以前なら「楽しんできて」と返して終わりだった。
でも今は違う。
悠真の胸がざわつく。
歓迎会。
お酒。
帰りが遅い。
頭では何も問題ないと理解している。
それなのに心が勝手に悪い未来を想像してしまう。
事故。
事件。
突然の別れ。
陽菜を失った日の記憶が、音もなく近づいてきた。
『何時くらいになる?』
すぐ返信する。
『まだわからない』
『迎えに行こうか?』
『大丈夫』
その笑顔の絵文字を見ても、不安は消えなかった。
夜九時。
十時。
十一時。
時計を見る回数が増えていく。
スマートフォンを握る手にも力が入る。
既読はつく。
でも返信は短い。
『もう少しかかる』
その一文だけ。
悠真はソファから立ち上がった。
部屋の中を何度も歩く。
テレビはついているが、何も頭に入らない。
十一時四十分。
玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま。」
少し疲れた笑顔で美月が入ってくる。
「ごめんね、遅くなっちゃった。」
悠真は思わず強い口調になった。
「何で電話しなかったの?」
美月は驚いたように目を瞬かせた。
「え?」
「心配した。」
「メッセージ送ったよ?」
「それだけじゃ足りない。」
部屋の空気が一気に変わる。
美月はバッグを置き、ゆっくり悠真を見た。
「悠真。」
「何。」
「怒ってる?」
「怒ってない。」
「怒ってるよ。」
その言葉が、悠真の心を逆なでした。
「心配してるだけ。」
「わかってる。」
「じゃあどうして。」
「会社の歓迎会だったんだよ。」
「それでも。」
「帰れないわけじゃない。」
「でも!」
声が大きくなる。
美月は少しだけ肩を震わせた。
悠真はすぐ後悔した。
怒鳴りたいわけじゃない。
ただ怖かっただけなのだ。
でも、その怖さをうまく伝えられない。
「ごめん。」
悠真が小さく言う。
しかし美月は首を振った。
「私も、ごめん。」
「違う。」
「違わない。」
少し沈黙が流れる。
美月は静かに息を吐いた。
「悠真。」
「うん。」
「私ね。」
「結婚しても。」
「仕事は続けたい。」
突然の話だった。
悠真は少し戸惑う。
「もちろん。」
「歓迎会もある。」
「付き合いもある。」
「帰りが遅くなる日もある。」
「……うん。」
「そのたびに今日みたいになるなら。」
美月は少しだけ目を伏せた。
「苦しい。」
その一言が胸に刺さる。
悠真は何も言えなかった。
苦しめたいわけじゃない。
守りたいだけ。
でも、その守りたいが、美月を苦しめている。
その事実が何より苦しかった。
翌日。
二人はほとんど会話をしないまま朝を迎えた。
「行ってきます。」
「……行ってらっしゃい。」
いつもの笑顔がない。
玄関の扉が閉まる音だけが部屋へ響いた。
仕事中も悠真は集中できなかった。
美月を傷つけた。
でも、自分も苦しい。
どうすればいいのかわからない。
一方、美月も仕事へ集中できなかった。
昨日の悠真の顔が何度も浮かぶ。
あの人は怒っていたわけじゃない。
怖かっただけ。
それはわかる。
でも。
「何時に帰るの?」
「誰といるの?」
「電話して。」
その積み重ねが、少しずつ息苦しくなっていた。
昼休み。
美月は親友の絵里奈を呼び出した。
「珍しいね。」
絵里奈は美月の顔を見るなり言った。
「喧嘩?」
美月は苦笑した。
「顔に出てる?」
「めちゃくちゃ。」
美月は昨日の出来事を全部話した。
絵里奈は最後まで黙って聞いていた。
「悠真くん。」
「悪い人じゃない。」
「うん。」
「むしろすごく優しい。」
「うん。」
「でも。」
絵里奈はコーヒーを一口飲む。
「優しさが、不安に負け始めてる。」
その言葉に、美月は黙った。
図星だった。
悠真は愛している。
でも愛が強くなるほど、不安も大きくなっている。
「結婚前だから余計だね。」
絵里奈が言う。
「幸せになれる直前って、一番怖いから。」
美月は静かに頷いた。
その夜。
悠真は早く帰宅した。
美月の好きなシチューを作ろうと思った。
料理なんて得意じゃない。
でも謝りたかった。
素直に。
ちゃんと。
美月が帰ってくる頃には、部屋中にシチューの匂いが広がっていた。
時計は七時。
七時半。
八時。
美月は帰ってこない。
スマートフォンを見る。
連絡はない。
胸がまたざわつき始める。
昨日と同じだ。
やめろ。
考えるな。
大丈夫だ。
自分へ何度も言い聞かせる。
でも止められない。
八時十五分。
悠真はとうとう電話をかけた。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
呼吸が苦しくなる。
その瞬間だった。
玄関の扉が開いた。
「ただいま。」
美月だった。
悠真は思わず立ち上がる。
「どうして電話出ないんだ!」
その声は、自分でも驚くほど大きかった。
美月は悲しそうに笑う。
「会議中だった。」
「一言くらい。」
「会議中は無理だよ。」
「でも。」
「悠真。」
美月はゆっくり言った。
「お願いだから。」
その目には涙が浮かんでいた。
「私を信じて。」
その一言は、小さかった。
けれど悠真の胸には、何よりも重く響いた。
信じたい。
誰よりも信じたい。
でも、その言葉が一番難しかった。
陽菜を失った日から、「大丈夫」という言葉を信じることが怖くなってしまったからだ。
悠真は唇を噛み締めた。
「信じてる。」
そう答えた。
しかし、その声には自分でもわかるほど迷いがあった。
美月は静かに首を横へ振る。
「違う。」
「え……?」
「信じようとしてる。」
「でも、本当は怖い。」
図星だった。
悠真は何も言えない。
「私は。」
美月はゆっくり続ける。
「悠真が心配してくれることは嬉しい。」
「本当に嬉しい。」
「でもね。」
一歩近づく。
「心配され続けると。」
少しだけ笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「私は悪いことをしてる人みたいな気持ちになる。」
悠真は息を止めた。
そんなふうに思わせていたなんて、考えもしなかった。
「違う。」
思わず声を上げる。
「そんなつもりじゃない。」
「わかってる。」
美月は優しく頷いた。
「だから苦しいの。」
「悠真は悪くない。」
「私も悪くない。」
「でも苦しい。」
部屋に静寂が落ちる。
シチューの湯気だけが静かに立ち上っていた。
悠真は椅子へ座り込む。
両手で顔を覆う。
「俺。」
小さく呟いた。
「また同じことしてる。」
陽菜を守れなかった。
その後悔が、今度は美月を縛っている。
守りたい。
失いたくない。
その気持ちが、美月から自由を奪っている。
「最低だ。」
悠真は震える声で言った。
「俺は結局、自分が怖いだけなんだ。」
美月はゆっくり隣へ座った。
「最低じゃない。」
「最低だよ。」
「違う。」
「美月を苦しめてる。」
「違う。」
美月は首を振る。
「苦しいのは。」
悠真を見つめる。
「二人とも。」
その言葉に、悠真は顔を上げた。
「私は。」
美月は続ける。
「悠真がどれだけ怖い思いをしてきたか知ってる。」
「陽菜さんのことも。」
「だから責められない。」
「でも。」
一粒涙が落ちる。
「私も。」
「息が苦しくなる日がある。」
悠真は何も言えなかった。
美月は笑おうとした。
でも笑えなかった。
「昔ね。」
静かに話し始める。
「母に毎日言われてた。」
“どこにいるの?”
“誰といるの?”
“何時に帰るの?”
“ちゃんとしなさい。”
“期待を裏切らないで。”
「だから。」
「誰かに行動を確認されるたび。」
「昔へ戻ったみたいになる。」
悠真は目を見開いた。
知らなかった。
そんな傷があったなんて。
「ごめん。」
悠真は震える声で言う。
「本当に、ごめん。」
美月は涙を拭きながら微笑んだ。
「謝らないで。」
「でも。」
「謝るより。」
少しだけ首を傾げる。
「一緒に考えてほしい。」
「どうしたら。」
「二人とも苦しくならないか。」
その言葉は、喧嘩ではなかった。
責め合いでもなかった。
二人で未来を探そうという提案だった。
悠真はゆっくり頷く。
「……うん。」
「考える。」
「一緒に。」
しばらく沈黙が続く。
時計の針だけが静かに動いていた。
しかし、その静けさは以前とは違っていた。
お互いを責める沈黙ではない。
考えるための沈黙だった。
その夜。
二人はシチューを食べた。
もう温かくはなかった。
少し冷めていた。
それでも美月は一口食べて笑った。
「おいしい。」
「本当?」
「うん。」
「ルー焦がしたけど。」
「知ってる。」
二人は少しだけ笑った。
けれど笑顔は長く続かなかった。
食器を洗い終えたあと、美月がぽつりと言った。
「少しだけ。」
「距離を置こうか。」
悠真の手が止まる。
「え……。」
「別れたいわけじゃない。」
「でも。」
「このままだと。」
美月は苦しそうに息を吐いた。
「お互い壊れちゃう。」
その言葉は正しかった。
だからこそ辛かった。
「少しだけ。」
「考える時間がほしい。」
悠真は何も言えなかった。
引き止めたい。
嫌だと言いたい。
でも。
今のままでは、本当に二人とも壊れてしまう。
「……わかった。」
やっとそれだけ言えた。
美月は泣きながら笑った。
「ありがとう。」
「明日。」
「少しだけ実家へ帰るね。」
悠真は頷いた。
その夜。
二人は同じベッドで眠った。
けれど互いに背中を向けたままだった。
こんなに近いのに。
こんなに遠い。
手を伸ばせば届く距離なのに。
誰も手を伸ばせなかった。
悠真は眠れなかった。
天井を見つめながら思う。
また失うのだろうか。
また守れないのだろうか。
その恐怖だけが頭を埋め尽くしていた。
一方、美月も眠れなかった。
悠真を愛している。
誰よりも。
だから離れたいわけじゃない。
でも、このままでは笑えなくなる。
愛しているからこそ、少し離れるしかない。
それが今できる唯一の選択だった。
朝。
目覚ましが鳴る前に、美月は起きた。
静かに荷物をまとめる。
大きな旅行鞄ではない。
二泊分だけ入る、小さなバッグ。
悠真はその音で目を覚ました。
二人は目が合う。
何も言えない。
「行ってくる。」
美月が小さく言った。
「……うん。」
「少しだけだから。」
「うん。」
「ちゃんと戻るから。」
その約束を聞いても、悠真の心は安心できなかった。
玄関の扉が閉まる。
静かだった部屋が、急に広く感じた。
テーブルには二人分のマグカップ。
洗面所には二本並んだ歯ブラシ。
ソファには美月が置き忘れたクッション。
どこを見ても、美月がいる。
なのに、いない。
悠真はリビングへ座り込んだ。
静かな部屋で、一人呟く。
「怖い。」
誰に聞かせるでもない。
心の底からこぼれた本音だった。
一方、美月は電車の窓から流れる街を眺めていた。
涙はもう止まっていた。
でも胸は痛かった。
悠真を愛している。
だから離れる。
そんな恋があるなんて思わなかった。
二人とも悪くない。
二人とも愛している。
それなのに。
過去という見えない鎖が、二人を少しずつ縛っていた。
愛だけでは乗り越えられない現実がある。
そのことを、二人は初めて知った夜だった。
第6ページでは、婚約した二人が初めて大きくすれ違い、「少し距離を置く」という苦しい決断をしました。
悠真は「失う怖さ」に縛られ、美月は「縛られる怖さ」に苦しんでいました。
どちらも相手を愛しているからこそ生まれた痛みです。
しかし、この別れ話は終わりではありません。
次の第7ページ「本当の気持ち」では、離れて初めて気づく本音と、お互いが本当に求めていたものが描かれます。
「怖かった。」
その一言が、二人の運命をもう一度動かし始めます。




