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Memories  作者: あーちゃん


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3/10

忘れられない人

第3ページでは、悠真の高校時代に触れていきます。

今の悠真が「幸せ」を怖がる理由。

それは、かつて大切な人を突然失った記憶にありました。

悠真には、忘れられない人がいた。


 それは、美月と出会うずっと前のことだった。


 まだ制服を着て、未来という言葉をどこか他人事のように思っていた高校二年の春。悠真は、同じクラスの少女に恋をしていた。


 名前は、七瀬陽菜。


 明るくて、よく笑う子だった。


 教室の窓際の席で、いつも友達に囲まれていて、誰かが落ち込んでいるとすぐに気づく。けれど自分がつらいときは、なぜか平気なふりをする。そんな子だった。


 悠真が陽菜と話すようになったのは、図書室がきっかけだった。


 悠真は放課後、よく図書室に逃げていた。部活にも入らず、友達が多いわけでもなく、家に早く帰りたい理由もなかった。静かな本棚の間にいると、自分が誰にも見つからない場所へ隠れているようで安心できた。


 ある日、悠真が窓際の席で本を読んでいると、隣に陽菜が座った。


「朝比奈くんって、いつもここにいるよね」


 突然そう言われて、悠真は驚いた。


「……そんなにいる?」


「いる。図書室の住人みたい」


「それ、褒めてる?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「ちょっと心配」


 その言葉を聞いたとき、悠真は思わず笑ってしまった。


 陽菜は美月とは全然違う人だった。


 陽菜は感情が表情に出やすく、思ったことをすぐ口にした。怒ると頬をふくらませ、嬉しいときは本当に嬉しそうに笑った。泣きそうなときでさえ、笑ってごまかそうとした。


 悠真は、そんな陽菜のまぶしさが少し苦手で、でも目を離せなかった。


 陽菜はそれから、時々図書室に来るようになった。


「今日も住人発見」


「住人じゃない」


「じゃあ管理人?」


「もっと違う」


「本の妖精?」


「嫌だよ」


 二人は、くだらない話をたくさんした。


 好きな本の話。苦手な先生の話。給食ではなく購買のパンを取り合う話。将来何になりたいかという、当時の悠真にはまだ答えのない話。


 陽菜は看護師になりたいと言っていた。


「人の役に立てる人になりたいんだ」


「七瀬ならなれると思う」


「ほんと?」


「うん。人の顔色見るの、上手いし」


「それ、褒めてる?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「ちょっと心配」


 陽菜は声を立てて笑った。


 その笑い声が、悠真は好きだった。


 春が過ぎ、夏になり、二人は少しずつ近づいた。


 放課後に一緒に帰ることが増えた。駅までの短い道を、わざとゆっくり歩いた。陽菜はアイスが好きで、コンビニの前を通るたびに「今日は買わない」と言いながら、結局買った。


「朝比奈くん、一口いる?」


「いい」


「遠慮しないで」


「してない。七瀬が食べたいんだろ」


「うん」


「じゃあ食べなよ」


「でも、分けたほうがおいしい気がするじゃん」


 陽菜はそう言って、勝手に悠真の分までスプーンを差し出した。


 悠真は仕方なく一口食べた。


 甘かった。


 アイスの味よりも、陽菜が嬉しそうに笑った顔のほうをよく覚えている。


 告白したのは、夏祭りの帰りだった。


 花火が終わったあと、人混みを避けるように二人で少し遠回りした。浴衣姿の陽菜はいつもより大人びて見えて、悠真は何度も言葉に詰まった。


「朝比奈くん、今日なんか変」


「変じゃない」


「変だよ。いつもより喋らない」


「いつもそんな喋ってない」


「それはそうだけど」


 陽菜が笑った。


 その横顔を見たとき、悠真はもう言わずにはいられなかった。


「七瀬」


「ん?」


「好きだ」


 陽菜は立ち止まった。


 遠くでまだ花火の余韻のような音がしていた。


 悠真は心臓が壊れそうだった。


 陽菜は少しだけ俯いて、それから小さな声で言った。


「遅いよ」


「え?」


「私、けっこう前から好きだったのに」


 その瞬間のことを、悠真は今でも覚えている。


 夜風。


 浴衣の袖。


 陽菜の照れた笑顔。


 手を繋いだときの、少し汗ばんだ温もり。


 あの夏、悠真は初めて、未来というものを少しだけ信じた。


 来年も一緒に祭りに行きたい。


 卒業しても会いたい。


 大人になっても、陽菜の隣にいたい。


 そんなことを、初めて本気で思った。


 けれど幸せな時間は、あまりに早く過ぎた。


 秋になり、冬が来て、二人は受験の話をするようになった。


 陽菜は看護の専門学校を目指していた。悠真は大学進学を考えていた。進む道は違っても、別れることは想像していなかった。


「離れても大丈夫だよ」


 陽菜はよくそう言った。


「電車で会える距離だし、スマホもあるし」


「七瀬、忙しくなるだろ」


「それは朝比奈くんもでしょ」


「まあ」


「でも大丈夫。私たち、ちゃんと続くよ」


 陽菜はいつも、未来を疑わなかった。


 悠真はその強さに甘えていた。


 そして、その言葉を信じたかった。


 高校三年の梅雨の日だった。


 朝から雨が降っていた。


 空は暗く、教室の窓には水滴がいくつも流れていた。湿った制服の匂い、黒板に残るチョークの粉、廊下を走る誰かの足音。何もかも、今でも鮮明に覚えている。


 その日、陽菜は学校を休んだ。


 珍しいことだった。


 悠真は昼休みにメッセージを送った。


『大丈夫?』


 しばらくして、返事が来た。


『ちょっと熱っぽいだけ。大丈夫』


 そのあと、くまが布団に入っているスタンプが送られてきた。


 悠真は安心した。


『無理するなよ』


『朝比奈くんも勉強しなよ』


『してる』


『絶対してない』


『してるって』


 そんなやり取りをした。


 何でもない会話。


 最後になってしまうなんて、思いもしなかった。


 放課後、雨はさらに強くなっていた。


 悠真は陽菜の家にプリントを届けようか迷った。けれど陽菜から「寝てるから大丈夫」と返事が来ていたし、迷惑かもしれないと思った。


 そのとき送ったメッセージが、最後だった。


『明日は来いよ』


 既読はつかなかった。


 最初は寝ているのだと思った。


 一時間経っても、二時間経っても、既読はつかなかった。


 電話をかけた。


 出なかった。


 胸の奥がざわついた。


 でも、まさかと思った。


 まさか、そんなことが起こるはずがないと思った。


 夜になって、担任から電話が来た。


 陽菜が事故に遭ったと聞いた。


 雨の中、病院へ向かう母親を迎えに行こうとして、横断歩道で車にはねられたのだと。


 悠真は、電話口の声が途中から聞こえなくなった。


 気づけば、傘も持たずに家を飛び出していた。


 病院の白い廊下。


 濡れた靴。


 消毒液の匂い。


 泣き崩れる陽菜の母親。


 そして、もう目を開けない陽菜。


 悠真は何もできなかった。


 名前を呼ぶことも、泣くことも、怒ることもできなかった。


 ただ、そこに立っていた。


 陽菜の手は冷たかった。


 いつもあんなに温かかった手が、信じられないほど冷たかった。


 悠真はその手を握りながら、何度も心の中で謝った。


 ごめん。


 行けばよかった。


 迎えに行けばよかった。


 電話に出るまでかけ続ければよかった。


 明日は来いよ、なんて送らなければよかった。


 もっと優しい言葉を送ればよかった。


 好きだと、もっと言えばよかった。


 ありがとうと、言えばよかった。


 けれど、どれだけ謝っても陽菜は戻らなかった。


 葬儀の日も雨だった。


 制服姿のクラスメイトたちが、みんな泣いていた。


 悠真だけは、涙が出なかった。


 泣いたら本当になってしまう気がした。


 陽菜がいない現実を、受け入れなければならなくなる気がした。


 祭りの日に繋いだ手。


 図書室で笑った声。


 アイスを分けた夏。


 看護師になりたいと語った瞳。


 それらが全部、思い出になってしまうことが怖かった。


 人は死ぬ。


 そんな当たり前のことを、悠真はそのとき初めて知った。


 昨日まで笑っていた人が、今日いなくなる。


 また明日と言った相手に、もう二度と会えなくなる。


 約束は、必ず守られるものではない。


 未来は、簡単に奪われる。


 その日から、悠真の中で何かが変わった。


 大学に進学しても、社会人になっても、陽菜の記憶は消えなかった。


 雨の日になると、あの夜の病院の匂いが蘇る。


 電話に出ない相手を待つ時間が、異様に怖くなる。


 幸せな約束をするたびに、守れなかった約束が胸を刺す。


 誰かを好きになることも、怖くなった。


 大切になればなるほど、失ったときに壊れてしまう。


 だから悠真は、深く誰かを愛さないようにしていた。


 人と距離を取り、穏やかに笑い、必要以上に踏み込まない。


 そうすれば、もうあんな痛みを味わわずに済むと思っていた。


 美月に出会うまでは。


 美月は、陽菜に似ていなかった。


 顔も、声も、性格も違う。


 陽菜は太陽みたいに明るく、美月は月明かりみたいに静かだった。


 陽菜はまっすぐ手を引いてくれる人で、美月は隣に立って歩幅を合わせてくれる人だった。


 だからこそ、悠真は油断した。


 似ていないから大丈夫だと思った。


 でも、好きになる気持ちは同じだった。


 美月を大切に思うほど、陽菜を失った日の記憶が近づいてくる。


 美月が笑うたびに、この笑顔を失いたくないと思う。


 美月が「また明日」と言うたびに、その言葉が怖くなる。


 美月が未来の話をするたびに、悠真の心は喜びと恐怖で引き裂かれそうになる。


 日曜日、悠真は実家へ向かう電車の中で、窓の外を見ていた。


 隣には美月がいた。


 彼女は少し緊張した顔で、膝の上に置いたバッグの持ち手を握っている。


「緊張してる?」


 悠真が聞くと、美月は小さく頷いた。


「してる。変なこと言ったらどうしよう」


「大丈夫。うちの母さん、たぶん美月のことすぐ好きになるよ」


「ほんと?」


「ほんと」


「お父さんは?」


「父さんは無口だけど、悪い人じゃない」


「それ、余計緊張する」


 美月は苦笑した。


 その横顔を見て、悠真は胸が温かくなった。


 自分の家族に、美月を紹介する。


 かつて陽菜と描けなかった未来を、美月と歩こうとしている。


 その事実は幸せで、同時に苦しかった。


 実家の最寄り駅に着いたとき、空は少し曇っていた。


 雨は降っていない。


 けれど湿った風が吹いていた。


 悠真の実家は、駅から歩いて十五分ほどの場所にある。古い住宅街の一角。庭には母が育てている花が並び、玄関先には小さな鉢植えが置かれていた。


 インターホンを押す前、美月が小さく息を吸った。


「大丈夫?」


「うん」


「無理しなくていい」


「悠真こそ」


 その言葉に、悠真は少し笑った。


「俺?」


「さっきから、顔が少し怖い」


 美月はやはり、よく見ている。


 悠真は隠すように笑った。


「緊張してるだけ」


「本当に?」


「うん」


 嘘ではなかった。


 でも、全部ではなかった。


 玄関が開き、母が明るい声で迎えた。


「いらっしゃい、美月さん。会えるの楽しみにしてたの」


「はじめまして。白石美月です。本日はお招きいただきありがとうございます」


「そんなにかしこまらないで。悠真にはもったいないくらい綺麗な人ね」


「母さん」


 悠真が慌てると、美月は少し赤くなって笑った。


 父はリビングで新聞を読んでいた。


 美月が挨拶をすると、父は短く「よろしく」と言って頭を下げた。


 不器用な父なりの歓迎だった。


 食卓には母の手料理が並んでいた。


 煮物、焼き魚、卵焼き、味噌汁。


 美月は一つひとつに「おいしいです」と言い、母は嬉しそうに笑った。


 穏やかな時間だった。


 家族がいて、美月がいて、笑い声があって。


 悠真はその光景を見ながら、胸が締め付けられた。


 幸せな景色だ。


 でも、その中に陽菜はいない。


 当然のことなのに、ふいにその事実が胸を刺した。


 もし陽菜が生きていたら。


 そんな考えても仕方のないことが、頭をよぎる。


 陽菜も、いつか誰かの家族に挨拶をしたのだろうか。


 看護師になって、忙しく働いて、誰かを好きになって、幸せになったのだろうか。


 その未来は、もうどこにもない。


「悠真?」


 美月の声で、悠真は我に返った。


「どうしたの?」


「いや、何でもない」


 また言ってしまった。


 何でもない。


 その言葉で、何度自分を閉じ込めてきただろう。


 食後、母がアルバムを出してきた。


「悠真の小さい頃の写真、見る?」


「見たいです」


「見なくていい」


「見たい」


 美月が即答したので、悠真は諦めた。


 アルバムには幼い頃の悠真の写真が並んでいた。運動会で転んで泣いている写真。誕生日ケーキの前で眠そうにしている写真。中学の入学式の写真。


 ページをめくる手が、高校時代の写真のところで止まった。


 そこに、陽菜が写っていた。


 文化祭の写真だった。


 クラス全員で撮った一枚。


 端のほうで、陽菜が笑っている。


 悠真の隣ではない。


 けれど同じ空間にいる。


 胸が一瞬で冷えた。


 美月もその変化に気づいたのか、写真に視線を落としたまま何も言わなかった。


 母が少し声を落とした。


「この子、七瀬さんね」


 悠真は息を止めた。


 母は後悔したように口元を押さえた。


「ごめん、悠真」


「……いいよ」


 美月が静かに悠真を見た。


 悠真は逃げたかった。


 でも、逃げられなかった。


 陽菜の笑顔が、アルバムの中にある。


 あの日から何年も経ったのに、写真の中の彼女はずっと高校生のままだ。


 笑っている。


 何も知らずに。


 未来が奪われることも、自分が誰かの記憶の中だけで生き続けることも知らずに。


 悠真は立ち上がった。


「少し、外出る」


「あ、悠真」


 美月の声が聞こえたが、振り返れなかった。


 玄関を出ると、空から細かい雨が落ち始めていた。


 また雨だ。


 悠真は庭先で立ち止まり、深く息を吸った。


 胸が苦しい。


 陽菜を忘れたわけじゃない。


 忘れたいわけでもない。


 でも、美月と幸せになろうとするたびに、陽菜を置いていくような罪悪感があった。


 自分だけが大人になっていく。


 自分だけが新しい人を好きになって、未来を考えている。


 陽菜は十七歳のままなのに。


「悠真」


 後ろから美月の声がした。


 振り返ると、美月が傘を持って立っていた。


「濡れるよ」


「……ごめん」


「謝らなくていい」


 美月は悠真の隣に立ち、傘を差しかけた。


 小さな傘の下で、二人の肩が触れた。


 しばらく沈黙が続いた。


 雨の音だけが、庭の花に落ちている。


「さっきの人?」


 美月が静かに聞いた。


 悠真は頷いた。


「前に話してくれた、雨の日の人」


「うん」


「大切な人だったんだね」


「……初めて好きになった人だった」


 言葉にした瞬間、胸が痛んだ。


 でも、美月は手を離さなかった。


「話せる?」


 責めるでもなく、無理に聞き出すでもなく、美月はそう言った。


 悠真は雨を見つめた。


 今まで誰にも詳しく話せなかった。


 話したら、あの日に戻ってしまいそうだった。


 でも、美月には知ってほしいと思った。


 自分がなぜ怖がるのか。


 なぜ未来を約束することに怯えるのか。


 美月を愛しているのに、不安になる理由を。


「高校のとき、同じクラスだった」


 悠真はゆっくり話し始めた。


 図書室で出会ったこと。


 夏祭りで告白したこと。


 看護師になりたいと言っていたこと。


 雨の日に連絡が取れなくなったこと。


 事故のこと。


 病院の白い廊下のこと。


 冷たくなった手のこと。


 話しながら、何度も声が詰まった。


 美月は一度も口を挟まなかった。


 ただ、傘を持つ手とは反対の手で、悠真の手を握っていた。


 話し終えたとき、悠真はひどく疲れていた。


 でも、胸の奥に少しだけ空気が入ったような気がした。


「美月」


「うん」


「俺、美月のことが好きだよ」


「うん」


「でも、怖い」


 その言葉は、情けないほど正直だった。


「美月を失うのが怖い。連絡が取れないだけで、また同じことが起きるんじゃないかって思う。未来の話をすると、守れなかった約束を思い出す」


 美月の手に力が入った。


「それでも、美月といたい」


 悠真は初めて、陽菜の記憶と美月への気持ちを同じ場所に置いた。


 どちらかを選ぶものではないのかもしれない。


 忘れることと、進むことは違う。


 陽菜を覚えたまま、美月を愛してもいいのかもしれない。


 まだ、そう信じきれない。


 でも、そうであってほしいと思った。


 美月はしばらく黙っていた。


 やがて、小さく言った。


「話してくれて、ありがとう」


 悠真は首を振った。


「重かったよな」


「重いよ」


 美月は正直に言った。


 悠真の胸が一瞬強ばる。


 けれど美月は続けた。


「でも、大切な重さだと思う」


「大切な、重さ」


「その人が悠真の中にちゃんといるから、今の悠真がいるんでしょ」


 美月の声は震えていた。


「私は、その人の代わりにはなれないし、なりたくない。でも、その人を忘れさせるために悠真の隣にいるんじゃなくて、悠真が抱えているものごと、一緒に生きていきたいって思ってる」


 悠真は言葉を失った。


 雨が傘を叩く音が、少しだけ優しく聞こえた。


「私も、いつか話すね」


 美月が言った。


「私の中にも、まだ誰にも話せてないことがあるから」


 悠真は美月を見た。


 その横顔は、いつもより少し弱く見えた。


 美月もまた、何かを抱えている。


 それでも彼女は今、悠真の過去を受け止めようとしてくれている。


「うん」


 悠真は頷いた。


「待ってる」


 美月は小さく笑った。


 二人はしばらく、雨の中で並んで立っていた。


 やがて母が玄関から顔を出し、「風邪ひくわよ」と声をかけた。


 美月が「はい」と返事をし、悠真の手を引いた。


 その手は温かかった。


 陽菜の手の温もりとは違う。


 でも、確かに今ここにある温もりだった。


 家に戻る前、悠真は庭先に咲く小さな花を見た。


 雨に濡れて、少しうつむいている。


 それでも花は、折れずにそこに咲いていた。


 思い出は消えない。


 忘れられない人は、心の中に残り続ける。


 けれど、その記憶は未来を壊すためだけにあるのではないのかもしれない。


 陽菜と過ごした日々があったから、悠真は誰かを大切に思うことの意味を知った。


 失う痛みを知ったから、美月の手を離したくないと思う。


 怖さは、愛の裏側にある。


 そう簡単には消えない。


 それでも悠真は、美月と並んで玄関へ戻りながら、初めて少しだけ思った。


 陽菜を忘れなくても、美月を愛していい。


 過去を抱えたままでも、前へ進んでいい。


 その夜、実家から帰る電車の中で、美月は悠真の肩にもたれて眠っていた。


 緊張して疲れたのだろう。


 悠真は窓の外に流れる夜景を見ながら、美月の手をそっと握った。


 雨はもう上がっていた。


 窓ガラスに残った水滴が、街の灯りを小さく歪ませている。


 悠真は目を閉じた。


 陽菜の笑顔が浮かんだ。


 図書室で笑う声。


 夏祭りの夜の手。


 最後に送った、何でもないメッセージ。


 胸は痛んだ。


 でも、その痛みの中に、少しだけ温かさもあった。


 忘れられない人。


 忘れてはいけない人。


 そして今、隣で眠る大切な人。


 悠真は、美月の寝息を聞きながら静かに思った。


 過去があるから、今の自分がいる。


 思い出は消えない。


 でも、思い出だけで生きていくわけじゃない。


 明日もまた、美月と朝を迎える。


 その当たり前のようで当たり前ではない一日を、今度こそ大切にしたい。


 悠真は美月の手を握り直した。


 すると美月が眠ったまま、少しだけ指を絡めてきた。


 その小さな反応に、悠真は泣きそうになった。


 未来を約束するのは、まだ怖い。


 でも、今日この手を握ることならできる。


 そう思えた夜だった。

第3ページでは、悠真が抱えていた「忘れられない人」の記憶を描きました。

陽菜を失った痛みが、今の悠真の不安や恐怖につながっています。

次の第4ページ「笑顔の奥の涙」では、美月が隠してきた過去と、彼女が“強い人”を演じ続けてきた理由を描いていきます。

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