君に出会った春
第2ページでは、悠真と美月の出会いを描きます。
最初から運命のように惹かれ合ったわけではなく、むしろ少し苦手だと思った相手。
けれど春の光の中で、二人の距離は少しずつ変わっていきます。
美月と初めて会った日のことを、悠真は今でもよく覚えている。
それは、桜が満開になる少し前の春だった。
冬の冷たさがまだ街の端に残っていて、けれど昼間の光だけはやわらかく、駅前の植え込みには小さな花が咲き始めていた。人々の服装も少しずつ軽くなり、誰もが新しい季節に向かって歩いているように見えた。
けれどその頃の悠真は、春があまり好きではなかった。
春は、始まりの季節だと言われる。
新しい出会い。新しい生活。新しい希望。
周りの人たちが前を向くほど、悠真は自分だけが過去に置き去りにされているような気がした。
会社に入って四年目。
仕事には慣れていた。慣れすぎて、毎日をこなすことも上手くなっていた。朝起きて、スーツを着て、電車に乗り、会社へ行き、資料を作り、会議に出て、適当に笑い、家に帰る。
大きな不満はない。
けれど、胸が弾むような喜びもなかった。
毎日は静かで、平坦で、どこか色が薄かった。
そんな春の日、悠真は取引先との合同プロジェクトの顔合わせに出席することになった。
会議室に入ったとき、すでに数人が席についていた。その中に、美月がいた。
白石美月。
第一印象は、綺麗な人、だった。
けれどそれは、恋に落ちるような意味ではなかった。むしろ悠真は、少し苦手かもしれないと思った。
美月は背筋をまっすぐ伸ばし、資料に目を通していた。肩までの髪はきちんと整えられ、淡い色のブラウスに紺のジャケットを合わせている。無駄な動きがなく、表情も落ち着いていて、隙がない人に見えた。
悠真は、隙のない人が苦手だった。
そういう人の前では、自分の弱さが余計に浮き彫りになる気がするからだ。
「本日から担当させていただきます、白石美月です。よろしくお願いいたします」
美月の声は、よく通った。
明るすぎず、冷たすぎず、聞き取りやすい声だった。
悠真も名刺を差し出した。
「朝比奈悠真です。よろしくお願いします」
美月は名刺を受け取り、丁寧に頭を下げた。
そのとき、彼女の視線が一瞬だけ悠真の目に重なった。
まっすぐな目だった。
何かを見透かされるようで、悠真はすぐに視線を外した。
会議は滞りなく進んだ。
美月は仕事ができた。
発言は的確で、資料の読み込みも早く、曖昧な点があればその場で確認する。誰かを責めるような言い方はしないのに、必要なことははっきり言う。
悠真は内心、少しやりづらいと思った。
自分はなるべく波風を立てずに進めたいタイプだった。問題があっても、まずは自分で抱えて、できるだけ周りに迷惑をかけないようにする。
けれど美月は違った。
わからないことを、わからないと言う。
無理なことを、無理だと言う。
その姿勢は正しい。
正しいけれど、悠真には少し眩しかった。
会議の終盤、美月が悠真の作成した資料の一部を指差した。
「朝比奈さん、こちらの数字ですが、先方からいただいた最新データと少し差があります」
「え?」
「昨日共有されたファイルでは、この数値が三パーセントほど変わっていました」
会議室の視線が悠真に集まった。
悠真は資料を確認した。確かに、古いデータのままだった。
「すみません。こちらの確認不足です」
「いえ、共有が直前だったので仕方ないと思います。ただ、次回提出までには修正が必要です」
美月の言葉は淡々としていた。
責められているわけではない。
それなのに悠真は、胸の奥が小さくざわついた。
会議が終わったあと、悠真は一人で資料を見直していた。自分のミスなのだから、早く修正しなければと思った。
すると、会議室の扉が開いた。
美月だった。
「あの、朝比奈さん」
「はい」
「先ほどのデータ、私のほうで変更箇所まとめてあります。送りますね」
「あ、ありがとうございます」
「それと、言い方がきつく聞こえていたらすみません」
悠真は少し驚いた。
「いえ。事実なので」
「でも、みんなの前で言う必要があったかは、少し迷いました」
美月はそう言って、申し訳なさそうに眉を下げた。
その表情を見て、悠真は初めて、彼女がただ冷静なだけの人ではないのだと気づいた。
「助かりました。あのまま提出してたら、もっと迷惑かけてたので」
「そう言ってもらえると、少し安心します」
美月は小さく笑った。
その笑顔は、会議中のきちんとした表情とは違っていた。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けたような笑顔。
悠真は、その笑顔を見て少しだけ印象を変えた。
隙がない人ではなく、隙を見せないようにしている人なのかもしれない。
その日から、悠真と美月は仕事で関わる時間が増えた。
最初は必要最低限の会話だけだった。
資料の確認。スケジュール調整。メールの返信。会議の準備。
けれど何度も顔を合わせるうちに、少しずつ仕事以外の言葉も交わすようになった。
「朝比奈さん、コーヒーはブラック派ですか?」
「そうですね。甘いのはあまり」
「意外です」
「意外?」
「疲れてる顔してるから、甘いもの好きかと思いました」
「疲れてる顔って」
「あ、すみません。悪口じゃなくて」
「ほぼ悪口ですよ」
「違います。心配です」
美月は真面目な顔でそう言った。
悠真は思わず笑ってしまった。
美月は言葉の選び方が少し不器用だった。丁寧でしっかりしているのに、ふとした瞬間に正直すぎることを言う。
その正直さが、最初は苦手だった。
けれど慣れてくると、少し心地よかった。
美月は余計な嘘をつかない。
お世辞もあまり言わない。
だからこそ、彼女の言葉は信じられる気がした。
ある日の夕方、二人は残業で会社に残っていた。
外は雨だった。
窓ガラスを流れる雨粒を見て、悠真は少しだけ呼吸が浅くなるのを感じた。
雨の日は、いつもそうだった。
美月は隣の席で資料を直していたが、ふと手を止めた。
「朝比奈さん」
「はい」
「雨、苦手ですか?」
悠真は驚いて美月を見た。
「どうして?」
「雨が降ると、少し顔色が変わるので」
「そんなにわかります?」
「わかります」
美月はあっさりと言った。
悠真は苦笑した。
「観察力ありますね」
「仕事柄です」
「何の仕事柄ですか」
「人の顔色を見る仕事です」
美月はそう言って笑った。
でも、悠真にはその言葉が少しだけ寂しく聞こえた。
人の顔色を見る仕事。
それは職業としてではなく、もっと昔から身についた癖のようにも聞こえた。
「雨が苦手というか……少し、昔のことを思い出すだけです」
悠真は、そこまで言ってから自分で驚いた。
普段なら、そんなことは言わない。
けれど美月の前では、不思議と少しだけ本当のことが漏れてしまう。
美月は深く聞いてこなかった。
「そうですか」
ただそれだけ言って、自分のデスクの引き出しから小さなチョコレートを取り出した。
「どうぞ」
「え?」
「甘いもの、あまり好きじゃないかもしれないですけど。雨の日には、少し甘いものがあったほうがいい気がします」
悠真はチョコレートを受け取った。
銀色の包み紙に包まれた、小さな一粒。
「ありがとうございます」
「いえ」
美月はまた資料に視線を戻した。
それ以上、何も言わなかった。
その距離感がありがたかった。
踏み込まない優しさ。
聞かない優しさ。
でも、気づいてくれる優しさ。
悠真はチョコレートを口に入れた。甘さが舌の上でゆっくり溶ける。
雨の音が、少しだけ遠くなった気がした。
プロジェクトが進むにつれ、二人はよく一緒に帰るようになった。
同じ路線だったわけではない。
けれど会社から駅までの道が同じだった。
最初は本当に偶然だった。
けれどそのうち、どちらともなく帰る時間を合わせるようになった。
「朝比奈さん、今日も遅いですね」
「白石さんも」
「私は要領が悪いので」
「白石さんが要領悪かったら、僕はどうなるんですか」
「丁寧すぎる人、ですかね」
「それは褒めてます?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「心配です」
美月はいつも、最後に心配と言った。
悠真はその言葉を少しずつ待つようになっていた。
心配されることは、昔は苦手だった。
自分が弱い人間だと言われているようで、情けなくなるから。
でも美月の心配は、押しつけがましくなかった。
ただ、ちゃんと見ているよ、と言われている気がした。
ある金曜日、プロジェクトの小さな山場が終わった。
会議は無事に終わり、先方からも良い反応をもらえた。社内の空気も少し緩み、誰かが「軽く飲みに行きませんか」と言った。
悠真は断るつもりだった。
大人数の飲み会は得意ではない。
けれど美月が参加すると聞いて、少し迷った。
結局、参加した。
居酒屋の隅の席で、悠真はいつものように聞き役に回っていた。周りが笑い、話し、グラスを重ねる中で、悠真は無理に輪に入ろうとはしなかった。
美月は少し離れた席にいた。
けれど時々、悠真のほうを見ていた。
目が合うと、軽く笑う。
それだけで、悠真はその場にいられる気がした。
二時間ほどして、飲み会が終わった。
外に出ると、夜風が少し冷たかった。
「朝比奈さん、大丈夫ですか?」
美月が隣に来た。
「大丈夫です。飲んでないので」
「そうじゃなくて」
「え?」
「疲れてそうだったから」
悠真は笑った。
「また顔に出てました?」
「少し」
「隠すの下手ですね、僕」
「私はわかりやすい人、嫌いじゃないです」
美月が何気なく言ったその言葉に、悠真の心臓が小さく跳ねた。
嫌いじゃない。
ただそれだけの言葉なのに、妙に残った。
駅までの道を二人で歩いた。
金曜の夜の街は賑やかで、酔った人たちの声やタクシーのライトがあちこちにあふれていた。
美月は少し歩くのが遅かった。
悠真は自然と歩幅を合わせた。
「朝比奈さんって、優しいですよね」
突然、美月が言った。
「そうですか?」
「はい」
「自分ではあまり」
「優しい人ほど、自分でそう思ってない気がします」
悠真は返事に困った。
優しいと言われるたびに、胸の奥が少し痛む。
自分は優しいのではなく、臆病なだけだと思っていた。
誰かを傷つけるのが怖い。
嫌われるのが怖い。
失うのが怖い。
だから、穏やかでいようとしているだけ。
「白石さんこそ、優しいですよ」
悠真がそう言うと、美月は少し驚いた顔をした。
「私が?」
「はい」
「初めて言われました」
「そうなんですか?」
「しっかりしてる、とか、冷静だね、はよく言われます。でも優しいは、あまり」
「じゃあ、僕の見る目があるんですね」
冗談っぽく言うと、美月は少しだけ笑った。
その笑顔が、街灯の下でやわらかく見えた。
悠真はその瞬間、胸の奥に小さな変化を感じた。
まだ恋とは呼べない。
けれど、もうただの仕事相手ではなかった。
もっと話してみたい。
もっと知りたい。
この人がどんなふうに笑って、どんなことに傷ついて、どんな夜を越えてきたのか知りたい。
そんな気持ちが、静かに芽を出した。
春の終わり頃、プロジェクトは無事に一段落した。
打ち上げの日、悠真は美月と二人で少しだけ遅れて会場を出た。
「終わりましたね」
美月が言った。
「終わりましたね」
「朝比奈さんには、たくさん助けてもらいました」
「僕のほうこそ」
「また一緒に仕事できたらいいですね」
美月の言葉に、悠真は少しだけ寂しさを覚えた。
仕事が終われば、会う理由がなくなる。
そのことに気づいて、初めて自分の気持ちの大きさを知った。
「白石さん」
「はい」
「よかったら、今度……仕事じゃなくて、ご飯でも行きませんか」
言った瞬間、悠真は心臓が痛いほど鳴るのを感じた。
自分から誰かを誘うなんて、いつ以来だろう。
美月は一瞬驚いたように目を見開いた。
その沈黙が怖かった。
断られるかもしれない。
困らせたかもしれない。
そう思った瞬間、悠真はすぐに言葉を重ねようとした。
「あ、無理なら全然」
「行きたいです」
美月が言った。
悠真は言葉を失った。
「え?」
「行きたいです。仕事じゃなくて」
美月は少しだけ照れたように笑った。
悠真はその笑顔を見て、胸の奥が春の光にほどけていくような感覚を覚えた。
その日から、二人の関係は少しずつ変わっていった。
最初の食事は、小さな洋食屋だった。
美月はオムライスを頼み、悠真はハンバーグを頼んだ。
「子どもみたいですね、私たち」
美月が笑った。
「いいじゃないですか。大人だってオムライス食べます」
「朝比奈さん、意外とそういうところ真面目に返しますよね」
「ふざけ方がわからないんです」
「それ、ちょっとわかります」
二人で笑った。
仕事の話をしないつもりだったのに、最初はどうしても仕事の話になった。けれど少しずつ、好きな映画の話、休日の過ごし方、子どもの頃に好きだったもの、苦手な食べ物、家族の話へと広がっていった。
美月は、昔から人に頼るのが苦手だと言った。
「頼るくらいなら、自分でやったほうが早いって思っちゃうんです」
「疲れませんか?」
「疲れます」
「ですよね」
「でも、頼り方がわからないんです」
美月はそう言って笑った。
その笑顔は、少し寂しそうだった。
悠真はその表情を見て、自分と似ていると思った。
傷つき方は違う。
抱えているものもきっと違う。
でも、誰かに甘えることが苦手なところは似ている。
帰り道、美月が言った。
「今日、楽しかったです」
「僕も」
「また、行きますか?」
「はい」
「じゃあ、また」
その「また」が、悠真にはたまらなく嬉しかった。
また会える。
また話せる。
また笑える。
それは小さな約束だった。
でも悠真にとって、約束は怖いものでもあった。
それでもそのときは、怖さよりも嬉しさのほうが少しだけ勝っていた。
何度か食事を重ねたあと、二人は休日に会うようになった。
映画を観たり、カフェに行ったり、何も買わないのに雑貨屋をのぞいたりした。
美月は綺麗なものを見るのが好きだった。
ガラスのコップ、小さな花瓶、淡い色のハンカチ。
でも、自分のために買うことは少なかった。
「欲しくないんですか?」
「欲しいけど、なくても困らないから」
「欲しいなら買えばいいのに」
「そういうの、ちょっと苦手です。自分のために何かを選ぶの」
その言葉を聞いたとき、悠真は胸が痛んだ。
美月はいつも、誰かのためなら迷わず動く。
けれど自分のためになると、急に遠慮する。
悠真は小さな青い花瓶を手に取った。
「これ、似合いそうです」
「私に?」
「はい」
「花瓶が似合うってどういうことですか」
「わからないけど、白石さんの部屋にありそう」
「見たことないのに」
「想像です」
美月は困ったように笑った。
その日、悠真はその花瓶を買った。
「受け取れません」
「じゃあ、僕の家に置きます」
「え?」
「でも、白石さんに似合うと思って買ったので、たぶん見るたびに白石さんを思い出します」
「それは……ずるいです」
「じゃあ、受け取ってください」
美月はしばらく迷ってから、小さく「ありがとうございます」と言った。
その頬が少し赤くなっていた。
悠真は、その赤みを見て、自分の中の気持ちがもうごまかせないほど大きくなっていることに気づいた。
好きだ。
その言葉は、まだ胸の中にしまったままだった。
けれど確かに、そこにあった。
告白したのは、桜が散り始めた頃だった。
仕事帰り、二人で夜の公園を歩いていた。
昼間は花見客で賑わっていたはずの公園も、夜には静かだった。街灯に照らされた桜の花びらが、風に揺れて舞っている。
美月は足元に落ちた花びらを見ながら言った。
「桜って、咲くのも散るのも早いですね」
「そうですね」
「だから綺麗なのかな」
「なくなるってわかってるから?」
「うん。ずっと咲いてたら、こんなに見上げないかもしれない」
美月の言葉に、悠真は胸がざわついた。
なくなるから綺麗。
失うかもしれないから、大切に思う。
その考え方は、美しくもあり、怖くもあった。
悠真は立ち止まった。
美月も少し遅れて振り返る。
「朝比奈さん?」
「白石さん」
「はい」
「好きです」
言った瞬間、時間が止まったように感じた。
夜風が吹き、桜の花びらが二人の間を通り過ぎていく。
美月は何も言わなかった。
悠真は続けた。
「仕事で会うのも、食事に行くのも、休日に会うのも、全部楽しかったです。でも、最近はそれだけじゃ足りなくなってきました」
声が震えていた。
それでも止められなかった。
「もっと一緒にいたいです。仕事相手でも、友達でもなくて。ちゃんと、あなたの隣にいたい」
美月は俯いた。
長い沈黙だった。
悠真は、その沈黙の中で何度も後悔しかけた。
言わなければよかった。
この関係を壊してしまったかもしれない。
でも、言わずに離れていくことのほうが、きっともっと苦しかった。
やがて美月が顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「私、恋愛って少し怖いんです」
美月の声は小さかった。
「誰かを好きになると、自分が自分じゃなくなるみたいで。期待して、傷ついて、嫌われないように頑張ってしまうから」
悠真は黙って聞いていた。
「でも、朝比奈さんといると、少しだけ息がしやすいです」
美月は涙をこらえるように笑った。
「私も、好きです」
その言葉を聞いた瞬間、悠真の中で何かが静かに震えた。
嬉しさと、怖さ。
温かさと、不安。
すべてが一度に押し寄せてきた。
それでも悠真は、美月に手を伸ばした。
美月も、その手を取った。
二人の手は少し冷えていた。
けれど重なったところから、ゆっくり温かくなっていった。
その春から、悠真の毎日は少しずつ色を取り戻した。
朝の空が綺麗だと思うようになった。
帰り道のスーパーの明かりにほっとするようになった。
休日の予定を考えることが楽しくなった。
誰かに「おはよう」と送ること。
「お疲れさま」と言われること。
くだらないスタンプで笑うこと。
そんな小さなことが、一つひとつ悠真の生活に積もっていった。
美月に出会う前、悠真は未来という言葉から目をそらしていた。
どうせいつか壊れるなら、最初から深く望まないほうがいい。
そう思っていた。
けれど美月は、悠真の心に春を連れてきた。
眩しすぎない、けれど確かに温かい春。
怖さが消えたわけではない。
過去を忘れたわけでもない。
それでも、もう一度誰かを好きになってもいいのだと、美月が教えてくれた。
出会ったばかりの頃、悠真は美月のことを少し苦手だと思った。
隙がなくて、まっすぐで、自分の弱さを見抜かれそうで怖かった。
けれど本当は、そのまっすぐさに救われていたのかもしれない。
見ないふりをしていた寂しさも、隠していた不安も、美月は無理に暴くことなく、ただそっと隣に立ってくれた。
君に出会った春。
それは悠真にとって、ただ恋が始まった季節ではなかった。
止まっていた時間が、もう一度ゆっくり動き出した季節だった。
そして悠真はまだ知らなかった。
美月もまた、笑顔の奥に消えない記憶を抱えていることを。
春の光の中で始まった恋は、やがて二人の過去を照らしていく。
優しさだけでは届かない場所へ。
好きという言葉だけでは癒せない傷へ。
それでも二人は、この春に出会った。
出会ってしまった。
それが偶然だったのか、運命だったのか、悠真にはまだわからない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
美月と出会う前の自分には、もう戻れない。
そして、戻りたいとも思わなかった。
第2ページでは、悠真と美月が出会い、仕事相手から少しずつ特別な存在へ変わっていく春を描きました。
最初は苦手だった相手が、いつの間にか心を救ってくれる存在になる。
次の第3ページ「忘れられない人」では、悠真が抱えている過去と、突然失った初恋の記憶に触れていきます。




