幸せなのに、怖かった
幸せな時間ほど、なぜか怖くなることがある。
失いたくないものができた瞬間、人は初めて「失う怖さ」を知る。
これは、愛しているからこそ不安になってしまう二人の物語です。
朝比奈悠真は、目の前で眠っている白石美月の横顔を、息をひそめるように見つめていた。
カーテンの隙間から朝の光が細く差し込み、彼女の頬に淡い線を落としている。まだ冬の名残を残した春先の朝で、窓の外には薄い雲が広がっていた。どこか冷たそうな空なのに、この部屋の中だけは不思議とあたたかかった。
美月はいつも、眠ると少しだけ幼く見える。
普段はしっかりしていて、仕事も早くて、誰に対しても穏やかで、感情を荒げることなんてほとんどない。けれど、眠っているときの彼女は無防備で、眉間の力も抜けて、何かを守ろうとする鎧を脱いだみたいに見えた。
悠真は、その寝顔を見るたびに胸の奥がやわらかくなる。
同時に、怖くなる。
こんなに大切な人が、自分の隣で眠っている。
たったそれだけのことが、信じられないくらい幸せで、信じられないくらい不安だった。
「……ん」
美月が小さく声を漏らし、寝返りを打った。布団から片手が出て、悠真の指先に触れる。触れた瞬間、悠真は反射的にその手を握り返した。
温かい。
ちゃんと、ここにいる。
そう思うのに、心のどこかで別の声がする。
いつか、いなくなるかもしれない。
その声は、何年経っても消えなかった。
悠真は美月の手を握ったまま、天井を見上げた。白い天井。見慣れた照明。二人で選んだベージュのカーテン。美月が好きだと言って買った小さな観葉植物。ダイニングテーブルの上には、昨日二人で飲んだマグカップが並んでいる。
特別なものなんて何もない。
ただの日常。
けれど悠真にとっては、その何もない日常こそが、いちばん壊れやすいものに思えた。
美月と付き合って、三年が経つ。
最初は、ここまで深く誰かを好きになるとは思っていなかった。
仕事帰りに会って、くだらない話をして、週末に映画を観て、疲れた日にはコンビニのご飯で済ませて、どちらかが風邪をひけば薬を買いに走る。そんな日々を重ねているうちに、彼女は悠真の生活の中へ、少しずつ、でも確かに入り込んできた。
気づいたときには、美月のいない未来を想像することのほうが難しくなっていた。
そして最近、二人の間には自然と結婚の話が増えていた。
美月が友人の結婚式に出席した日、帰り道にぽつりと言った。
「結婚式って、なんかすごいね」
「何が?」
「今日来てくれた人たちの前で、この人と生きていきますって言うんだよ。すごい勇気だなって思った」
その横顔は笑っていたけれど、どこか遠くを見ているようでもあった。
悠真はそのとき、言いかけた。
俺たちも、いつか。
けれど言えなかった。
言葉にした瞬間、何かが壊れてしまう気がしたから。
未来を口にすることが、悠真は昔から苦手だった。
約束という言葉も、少し怖い。
守れなかった約束を、悠真は知っている。
届かなかった言葉を、知っている。
もう会えない人の名前を、心の奥にしまったまま生きている。
美月は、そんな悠真の深い部分をまだ知らない。
知っているのは、表面だけだ。
悠真が少し無口で、心配性で、急に黙り込むことがあること。人混みがあまり得意ではないこと。雨の日にぼんやり窓の外を見る癖があること。昔の話をあまりしないこと。
でも、その理由までは話していない。
話せなかった。
大切にしたい人にほど、暗いものを見せるのが怖かった。
美月が目を覚ましたのは、七時を少し過ぎた頃だった。
「……おはよう」
まだ眠そうな声で、美月が言った。
「おはよう」
「起きてたの?」
「少し前に」
「また早起き」
「年寄りだから」
「二十八で年寄りなら、私はどうなるの」
「美月は永遠に若い」
「雑に褒めたでしょ」
美月は小さく笑って、布団の中で悠真の肩に額を寄せた。その仕草があまりに自然で、悠真は胸が詰まりそうになった。
こういう瞬間が、たまらなく好きだった。
何気ない会話。眠そうな声。近い距離。二人分の体温。
それなのに、幸せだと思えば思うほど、心の底に黒い不安が落ちていく。
「今日、何時に帰れそう?」
美月が聞いた。
「たぶん、七時くらい」
「じゃあ、ご飯作って待ってる」
「無理しなくていいよ。仕事あるだろ」
「大丈夫。今日は早く終わる日だから」
「ほんとに?」
「ほんとに。疑い深いなあ」
美月はそう言って笑った。
悠真も笑った。
けれど、その笑顔の奥で、ふと考えてしまう。
この人がいなくなったら、自分はどうなるんだろう。
そんなことを考える自分が嫌だった。
美月は何も悪くない。今、目の前にいてくれている。笑ってくれている。自分のためにご飯を作ると言ってくれている。
それなのに悠真は、まだ起きてもいない未来の不幸に怯えている。
美月がキッチンに立つ背中を見ながら、悠真は洗面所へ向かった。鏡に映った自分の顔は、ひどく疲れて見えた。寝不足というほどではない。ただ、心の奥にずっと重たい荷物を抱えている人間の顔だった。
顔を洗い、水を止める。
静かになった洗面所で、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、母からのメッセージだった。
『今度の日曜日、時間ある? お父さんが美月さんに会いたいって』
悠真はしばらく画面を見つめた。
両親には、美月と結婚を考えていることを少しだけ伝えてある。母は喜んだ。父も口数は少ないが、反対はしていないらしい。
家族に紹介する。
その行為が、急に現実味を帯びて迫ってきた。
結婚。
家族。
未来。
そのどれもが幸せな言葉のはずなのに、悠真には少しだけ眩しすぎた。
「悠真? 大丈夫?」
扉の向こうから美月の声がした。
「大丈夫」
すぐに答えた。
それはもう癖だった。
大丈夫じゃないときほど、早く大丈夫と言ってしまう。
洗面所を出ると、美月がトーストを皿にのせていた。スクランブルエッグとサラダ。二人分のコーヒー。朝の光の中で見る食卓は、まるで雑誌の一ページみたいに整っていた。
「すごい。朝からちゃんとしてる」
「冷蔵庫の卵、今日までだったから」
「現実的な理由だった」
「生活ってそういうものでしょ」
美月は笑って言った。
生活。
その言葉が、悠真の胸に静かに残った。
二人で向かい合って朝食を食べた。テレビでは天気予報が流れていて、午後から少し雨が降るかもしれないと言っていた。美月は洗濯物をどうしようか迷っていて、悠真はコーヒーを飲みながら曖昧に相槌を打った。
「ねえ」
「ん?」
「日曜日、悠真のご両親のところ行く?」
悠真は、思わず手を止めた。
「母さんから連絡あったの、見えた?」
「見えたわけじゃないよ。ただ、そろそろそういう話になるかなって思って」
美月は平然としているように見えた。
でも、よく見るとマグカップを持つ指先に少し力が入っていた。
「嫌だったら、まだいいよ」
悠真がそう言うと、美月は首を振った。
「嫌じゃない。緊張はするけど」
「無理しなくていい」
「悠真こそ」
「俺?」
「うん。無理してない?」
その言葉に、悠真はすぐ答えられなかった。
美月は時々、まっすぐ心の奥を見てくる。
普段は穏やかなのに、本当に大事なことになると、ごまかしを許してくれない目をする。
「してないよ」
悠真は笑った。
うまく笑えたかは、わからなかった。
美月はしばらく悠真を見つめていたが、それ以上は何も聞かなかった。
「じゃあ、日曜日行こう」
「うん」
「ちゃんとした服、着ていくね」
「普段のでいいよ」
「だめ。第一印象大事」
「もう何回か会ってるだろ」
「結婚を考えてる相手として会うのは、また違うでしょ」
結婚。
その二文字が、また胸を揺らした。
悠真は、フォークを置いた。
「美月」
「ん?」
「……怖くない?」
「何が?」
「結婚とか、未来とか」
美月は少し驚いたように瞬きをした。
悠真自身も、自分がそんなことを口にしたことに驚いていた。
言うつもりなんてなかった。
でも、言葉はもう出てしまっていた。
美月はすぐには答えなかった。窓の外を一度見て、それからゆっくりと悠真に視線を戻した。
「怖いよ」
その答えは、悠真が思っていたよりも静かだった。
「怖いんだ」
「うん。だって、絶対なんてないもん」
美月はそう言って、少し寂しそうに笑った。
「どれだけ好きでも、ずっと一緒にいられる保証なんてないし、明日何が起きるかもわからないし。人の気持ちだって変わるかもしれない。だから怖いよ」
「……そうだよな」
「でも、怖いからやめる、とは思わない」
悠真は顔を上げた。
美月はマグカップを両手で包みながら、言葉を探すように続けた。
「怖いってことは、それだけ大事ってことだと思うから」
その言葉が、悠真の中に静かに落ちた。
大事だから、怖い。
失いたくないから、不安になる。
美月は、悠真がずっと抱えてきた感情に、名前をつけてくれたようだった。
けれど悠真は、そこで安心することができなかった。
むしろ余計に、胸が苦しくなった。
美月も怖いのだ。
それなのに、前を向こうとしている。
自分だけが、過去に足を取られている気がした。
出勤の時間が近づき、二人はそれぞれ支度をした。美月は鏡の前で髪を結び、悠真はネクタイを締めた。いつもの朝。いつもの流れ。
玄関で靴を履いていると、美月がふいに悠真の袖を引いた。
「今日、早く帰ってきてね」
「ご飯作るから?」
「それもあるけど」
「けど?」
「ただ、早く会いたいから」
その何気ない一言に、悠真の胸は強く締め付けられた。
早く会いたい。
そんな言葉を、まっすぐ言える美月が眩しかった。
「俺も」
悠真はそう答えた。
本当は、もっと言いたいことがあった。
ありがとう。
好きだよ。
怖いけど、手を離したくない。
でも言葉にならなかった。
代わりに、美月の頭を軽く撫でた。
「子ども扱いしてる」
「してない」
「してる顔」
「どんな顔だよ」
二人で笑い合って、玄関の扉を開けた。
外の空気は少し冷たかった。駅までの道を並んで歩く。通勤する人たちが同じ方向へ流れていく。自転車のベルの音、コンビニの自動ドア、信号待ちの車。街はいつもどおり忙しく動いていた。
美月は悠真の隣で、今日の仕事の予定を話していた。午後から会議があること。新人の子が少し元気がないこと。帰りにスーパーで何を買おうか迷っていること。
悠真は相槌を打ちながら、その横顔を見ていた。
好きだと思った。
何度でも思った。
そして、そのたびに怖くなった。
駅前で二人は別れる。
「じゃあ、また夜ね」
「うん。気をつけて」
「悠真も」
美月が改札へ向かって歩いていく。その背中が人混みに紛れていくまで、悠真は立ち止まって見送った。
見えなくなる瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
たった数時間離れるだけ。
夜にはまた会える。
それなのに、心のどこかがざわつく。
悠真は自分に言い聞かせるように、深く息を吸った。
大丈夫。
何も起きない。
今日も普通に仕事をして、夜になったら家に帰って、美月の作ったご飯を食べる。くだらない話をして、風呂に入って、明日の予定を確認して、同じベッドで眠る。
そんな一日になる。
そうなるはずだ。
会社に着いてからも、悠真の心はどこか落ち着かなかった。
パソコンを開き、メールを確認し、資料を作り、会議に出る。体はいつもどおり動いているのに、頭の片隅ではずっと朝の会話を反芻していた。
怖いよ。
でも、怖いからやめるとは思わない。
美月の声が耳の奥に残っている。
昼休み、悠真はスマートフォンを取り出した。美月からメッセージが届いていた。
『今日、ハンバーグでいい?』
その下に、くまがフライパンを持っているスタンプが送られてきていた。
悠真は思わず笑った。
『最高』
すぐに返信する。
『じゃあ早く帰ってきて』
『努力します』
『絶対』
『はい』
短いやり取り。
それだけで、胸が温かくなる。
けれど同時に、また怖くなる。
幸せは、どうしてこんなに人を臆病にするのだろう。
悠真はスマートフォンを伏せて、窓の外を見た。昼過ぎの空は少し曇り始めていた。天気予報どおり、雨が近いのかもしれない。
雨の日は、少し苦手だった。
昔から、雨音を聞くと過去の記憶が浮かんでくる。
忘れたくても忘れられない声。
約束したのに守れなかった日。
濡れたアスファルトの匂い。
手の中からこぼれ落ちた温もり。
悠真は目を閉じた。
記憶はいつも突然やってくる。
幸せな時間の隙間に、まるで自分の居場所を主張するみたいに入り込んでくる。
忘れたわけではない。
忘れられるはずがない。
ただ、今は美月がいる。
そう思うことで、悠真は何度も自分を保ってきた。
夕方になると、雨が降り始めた。
会社の窓ガラスに細かい水滴がつき、街の色が少し滲んで見えた。悠真は時計を見た。十八時四十分。もうすぐ帰れる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美月からだった。
『ごめん、少し遅くなるかも』
悠真の指が止まった。
ただの残業だ。
そう思えばいい。
誰にでもあることだ。
けれど胸の奥が、急にざわめいた。
『仕事?』
すぐに送る。
既読はついた。
でも、返事が来ない。
一分。
二分。
三分。
たったそれだけの時間が、異様に長く感じた。
悠真は画面を見つめたまま、呼吸が浅くなっていることに気づいた。
大丈夫。
何もない。
そう思おうとするほど、過去の記憶が近づいてくる。
あの日も、雨だった。
返事が来なかった。
何度電話しても繋がらなかった。
最後に見たメッセージは、何気ない言葉だった。
悠真は椅子から立ち上がった。
「朝比奈? どうした?」
同僚が声をかける。
「すみません、今日は上がります」
「お、お疲れ」
悠真は荷物を掴み、会社を出た。
雨は思ったより強くなっていた。傘を開く余裕もなく、駅へ向かって歩く。スマートフォンを握りしめた手に力が入る。
美月からは、まだ返事がない。
ただそれだけ。
本当に、ただそれだけのこと。
なのに悠真の心は、もう普通ではいられなかった。
駅に着く直前、電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
出ない。
悠真の足が止まった。
雨粒が頬を伝う。それが雨なのか汗なのか、自分でもわからなかった。
もう一度かけようとした瞬間、画面が切り替わった。
美月からの着信だった。
「美月!」
思わず大きな声が出た。
『ごめん、今出た』
電話の向こうで、美月の声がした。
いつもの声。
少し慌てたような、でもちゃんと生きている声。
悠真は、その場で息を吐いた。
全身から力が抜けそうになった。
「何かあった?」
『ううん。会議が長引いて、そのあと課長に捕まってた。スマホ見られなくて、ごめん』
「……そっか」
『どうしたの? 声、変だよ』
「いや」
『悠真?』
「何でもない」
また言ってしまった。
大丈夫じゃないのに。
何でもなくないのに。
『今どこ?』
「駅」
『雨、大丈夫?』
「大丈夫」
『傘持ってる?』
「持ってる」
本当はまだ差していなかった。
『ちゃんと差してね。風邪ひくよ』
「うん」
美月の声を聞いているだけで、さっきまでの恐怖が少しずつ薄れていく。
同時に、自分がどれほどおかしくなっていたのかも見えてきた。
たった数分、返事がなかっただけ。
それだけで、過去に引き戻された。
美月に何かあったわけでもないのに、勝手に最悪を想像して、勝手に怖くなって、勝手に息ができなくなった。
こんな自分を、美月に知られたくなかった。
『悠真』
「ん?」
『本当に、大丈夫?』
電話の向こうの美月の声が、少しだけ低くなった。
悠真は答えられなかった。
駅前の人混みが、雨の音に混じって遠くなる。
美月は黙って待っていた。
急かさず、責めず、ただそこにいてくれる。
その沈黙が優しすぎて、悠真は苦しくなった。
「……怖かった」
気づけば、そう言っていた。
『え?』
「返事がなくて、電話も出なくて、それだけなのに……怖かった」
電話の向こうで、美月が息をのむ気配がした。
「ごめん。重いよな。こんなの」
『重いとかじゃないよ』
「でも」
『今、帰れる?』
「うん」
『じゃあ、帰ってきて。話そう』
「……うん」
『ハンバーグ、焦げる前には帰ってきてね』
最後に美月が少しだけ冗談っぽく言った。
悠真は小さく笑った。
「努力します」
『絶対』
「はい」
電話を切ったあと、悠真はようやく傘を開いた。
雨はまだ降っていた。
けれどさっきより、少しだけ息がしやすくなっていた。
家に帰ると、玄関の明かりがついていた。
その光を見た瞬間、悠真の胸はまた痛んだ。
ただいま、と言える場所。
おかえり、と返してくれる人。
それは当たり前なんかじゃない。
失ったことのある人間だけが知っている、奇跡みたいな日常だった。
「おかえり」
キッチンから美月が顔を出した。
エプロン姿で、髪をひとつに結んでいる。頬に少し赤みがあって、フライパンの熱のせいかもしれなかった。
「ただいま」
悠真は靴を脱ぎながら言った。
美月は悠真の濡れた髪を見て、眉をひそめた。
「傘、ちゃんと差した?」
「途中から」
「もう」
美月はタオルを持ってきて、悠真の頭にかぶせた。
「子どもじゃないんだから」
「ごめん」
「謝ることじゃないけど」
美月の手が、タオル越しに悠真の髪を拭く。
その優しさに、悠真は泣きそうになった。
泣くほどのことじゃない。
でも、泣きそうだった。
「美月」
「ん?」
「ごめん」
「だから、何に謝ってるの」
「わからない」
正直に言うと、美月は少し困ったように笑った。
「じゃあ、謝らなくていいよ」
食卓には、少し焦げ目のついたハンバーグが並んでいた。味噌汁とサラダ、炊きたてのご飯。美月は「ちょっと焼きすぎた」と言ったけれど、悠真にはそれがとてもおいしそうに見えた。
二人で食卓についた。
しばらくは普通に食べた。今日の仕事のこと、スーパーで卵が安かったこと、日曜日に何時に家を出るかということ。
けれど会話が途切れた瞬間、美月が箸を置いた。
「悠真」
「うん」
「さっきの、聞いてもいい?」
悠真は視線を落とした。
来ると思っていた。
でも、まだ準備はできていなかった。
「何が怖かったの?」
美月の声は優しかった。
責める響きはない。
だからこそ、逃げられなかった。
悠真は箸を置き、深く息を吸った。
「昔、同じようなことがあった」
「同じようなこと?」
「雨の日に、連絡が取れなくなった人がいて」
そこまで言って、言葉が止まった。
名前を出すことができなかった。
出したら、過去の扉が開いてしまう気がした。
美月は何も言わず、悠真を見ていた。
「その人は、もういない」
部屋の中が静かになった。
雨音だけが、窓の外で続いている。
悠真は自分の手元を見つめた。指先が少し震えていた。
「だから、返事が来ないとか、電話に出ないとか、そういうのが……だめなんだと思う。頭ではわかってる。美月が悪いわけじゃないって。でも、勝手に怖くなる」
言い終えたあと、悠真はすぐに後悔した。
こんなことを言われたら、美月は困るだろう。
これからは返信を急がなきゃいけないと思わせてしまうかもしれない。電話に出られないたびに、悠真のことを気にするようになるかもしれない。
自分の傷で、美月を縛りたくなかった。
「ごめん。今の、忘れて」
「忘れないよ」
美月は静かに言った。
悠真が顔を上げると、美月はまっすぐこちらを見ていた。
「忘れない。でも、怖がらせないようにするために覚えるんじゃないよ」
「え?」
「悠真が、何を怖いと思ってるのか知りたいから覚えるの」
その言葉に、悠真は息を止めた。
「私、全部うまくできるかわからない。仕事中は返事できないこともあるし、電話に出られないときもあると思う。でも、悠真が何も言わずに一人で怖くなってるのは、嫌だ」
「……美月」
「面倒とか、重いとか、そういうことじゃない。好きな人が苦しんでるのに、知らないふりしたくないだけ」
悠真の胸の奥で、何かが崩れそうになった。
ずっと、誰にも見せないようにしていた場所。
触れられたら壊れると思っていた場所。
美月はそこに、無理やり踏み込むのではなく、そっと灯りを置くように近づいてきた。
「私もね」
美月が小さく言った。
「怖いこと、あるよ」
悠真は顔を上げた。
美月は少しだけ目を伏せていた。
「でも、今日は悠真の話を聞く日。私のことは、また今度話す」
「……あるんだ」
「うん。ある」
美月は笑った。
その笑顔は、いつもより少し寂しかった。
悠真は初めて気づいた。
美月にも、悠真の知らない過去がある。
彼女もまた、何かを抱えている。
自分だけが傷ついているわけじゃない。
自分だけが怖いわけじゃない。
二人は、それぞれ違う記憶を抱えながら、同じ食卓についている。
その事実が、悠真には不思議だった。
「悠真」
「うん」
「幸せなのに怖いって、変じゃないと思う」
美月はゆっくりと言った。
「幸せだから怖いんだよ。失いたくないから。不安になるんだよ」
朝にも似たような言葉を聞いた。
けれど夜のこの部屋で、雨音の中で聞くその言葉は、朝よりも深く悠真の胸に届いた。
「でもね」
美月は続けた。
「怖いからって、幸せを手放さなくていいと思う」
悠真は何も言えなかった。
その言葉が、あまりにもほしかった言葉だったから。
ずっと誰かに言ってほしかった。
怖くてもいい。
不安でもいい。
それでも、幸せでいていい。
悠真は目を伏せた。
涙が出そうだった。
でも、泣くのはまだ少し恥ずかしかった。
「ご飯、冷めるね」
美月が言った。
「うん」
「食べよ」
「うん」
二人はまた箸を持った。
少し焦げたハンバーグは、驚くほどおいしかった。
食後、美月が皿を洗い、悠真が隣で拭いた。並んでキッチンに立つことにも、もう慣れていたはずなのに、その日は一つひとつの動作が特別に感じた。
皿を拭く。
棚に戻す。
蛇口を閉める。
美月が手を洗う。
悠真がタオルを渡す。
そんな小さなことのすべてが、生活だった。
壊したくないと思った。
守りたいと思った。
けれど、守るというのは閉じ込めることではないのだと、悠真は少しだけわかった気がした。
大切な人を失わないように怯えることと、大切な人と今を生きることは、きっと違う。
寝る前、二人はソファに並んで座った。
テレビはついていたけれど、ほとんど見ていなかった。美月は悠真の肩にもたれ、悠真は彼女の手を握っていた。
「日曜日、緊張するなあ」
美月がつぶやいた。
「うちの親、そんな怖くないよ」
「そういう問題じゃないの」
「じゃあどういう問題?」
「ちゃんと、悠真の大切な人たちに、ちゃんと見てもらいたい」
「大丈夫だよ」
「ほんと?」
「うん。美月なら大丈夫」
美月は少し照れたように笑った。
「じゃあ、信じる」
信じる。
その言葉は、簡単そうで、とても難しい。
悠真は美月の手を握り直した。
「俺も」
「何を?」
「信じる練習、する」
美月は悠真を見上げた。
「練習?」
「急には無理かもしれないけど。でも、ちゃんと信じたい。美月のことも、今の生活も」
美月は少し驚いた顔をして、それからゆっくり微笑んだ。
「うん。練習しよう」
「二人で?」
「二人で」
その夜、悠真はいつもより少しだけ安心して眠れた。
雨は夜更けまで降り続いていた。
窓を叩く雨音は、過去を連れてくる音でもあった。
けれどその日は、美月の寝息が隣にあった。
握った手の温もりがあった。
怖さが完全に消えたわけではない。
不安がなくなったわけでもない。
それでも悠真は、初めて思った。
怖いままでも、幸せでいていいのかもしれない。
幸せなのに、怖かった。
でも、その怖さを誰かに話せた夜、悠真の中で何かが少しだけ変わった。
思い出は消えない。
過去も、傷も、失った人の声も。
それでも人は、誰かの手を握りながら、今日を越えていくことができる。
悠真は眠りに落ちる直前、美月の手をもう一度だけ強く握った。
すると美月が、眠ったまま小さく握り返した。
その瞬間、悠真は胸の奥でそっと呟いた。
明日も、君の隣にいたい。
未来を約束するのは、まだ少し怖い。
それでも今夜だけは、この温もりを信じて眠ろうと思った。
第1ページでは、悠真が抱える「幸せになるほど怖くなる心」を描きました。
美月との穏やかな日常の中で、彼の過去の傷が少しずつ見え始めます。
次の第2ページ「君に出会った春」では、二人がどのように出会い、最初の印象から恋へ変わっていったのかを描いていきます。




