渇愛 ②
仔ウサギの足痕のような雲を見上げて僕は小さく咳払いをした。
まだまだ日中は真夏日の暑さだが、朝晩にはひんやりとした秋風が頬や指先を撫でるようになり、確かに季節の移ろいを感じられる。
見上げていた雲も足痕から小魚へ少しずつ形を変えながら僕の頭上を優雅に通り過ぎていった。
動くものを見ると何故か落ち着く。
それは時間の経過を実感できるからだろうか。
忙しなく行き交う人々もそうだ。
陽の当たるハチ公の前に佇む僕を誰一人ちらりとも見ない。
誰かに見られない、振り返られないという幸福が確かにあることを不思議と実感する。
この世界は僕だけの舞台ではない。この街の外側で、地球の反対側で、僕の預かり知らぬ様々場所で、見ず知らずの誰かが自由気ままにそれぞれの営みを続けているということが、とにかく嬉しかった。
「じゃーーーん」
陽気な声が聞こえたような気がして我に返る。
僕は弾かれるように身体をしならせて反転し、その声の主を探すために目を凝らした。悟の声に似ている。が、ここは渋谷駅お決まりのハチ公前だ。通り過ぎる人々だけではなく、僕の目の前では外国人と思しき観光客が記念撮影を始めていて、果たしてどの方向から声をキャッチしたのか、皆目分からない。彼らが引き回す特大サイズのスーツケースが僕の足元に地鳴りを起こす。
つい数分前まで、周りは見知らぬ人ばかりという環境にどこか悦に入っていたはずなのに、“知っている人が見つからない”という事態の発生で途端に胸がさざ波たつ。その波間に浮かぶのは例えようのない醜い焦燥感だ。
一度自覚をしてしまうと、更に不安の沼地に沈んでいく心持ちになり、息苦しくもなる。
僕は逸る気持ちそのままに何とか大地に足を突っ張り、首だけを小動物のようにきょろきょろと右に左に回して悟の姿を探すが、寄せる人波の中に目的の姿は見当たらなかった。
「悟?」
声を出して呼んでみる。
か細い叫びを掻き消すように、僕の隣でハチ公を背にポーズをとる二人組が笑い声をあげた。空気が一層振れた気がする。
僕は横目でその二人組が自撮りしている画角を確認し、その中に写り込まないように少し横にずれた。
すると、誰かのネイビーの日傘が頭にぶつかり軽く髪を引っ掻いた。ひんやりと固い金属の感触を地肌がキャッチする。
「あ、すみません」
咄嗟に謝りながら、浮き上がった髪を右手で撫でつけて振り向いた。
すると
「ナギ、見てよ。日傘買ったんだ」
目の前のネイビーの傘が揺れて悟が現れる。
彼は日傘を得意気に掲げて
「日傘さしてると、何故かできる男に見えるよな」
と僕に満面の笑みを見せてくる。
日傘を使っているくせに、7月に会った時より幾分日に焼けた顔で、その底抜けに明るい声からも、彼の夏休みの充実ぶりが見て取れた。
「ちなみにオレも買ってる」
にょきりと悟の後ろからグレーの日傘をさした宮っちが姿を現す。
「あれだよな、別々の場所で買ってんのに、まさかの同じブランドな」
悟が宮っちの日傘を指さしてからからと笑った。
「しかもさ、悟、今もオレと同じ電車だったんだよ。偶然重なりすぎて怖いんだけど」
「いいじゃん、偶然じゃなくて運命って思えば楽しいじゃん」
悟と宮っちが応酬を繰り広げる。
(ああ、そうだ。こんな感じだった)
二ヶ月近く会わなかっただけで忘れていた、この懐かしくて軽くてくだらないノリ。
僕も途端に、残暑の熱が伝播してきたかのように胸の真ん中がじわりと温かくなって気持ちが浮き上がる。
「…………俺も日傘買おっかな。今日のところはどっちかに入れてよ」
そう言って悟と宮っちの間に割って入れば、彼らは僕を両腕を広げて受け入れてくれた。
こんなことで目頭が熱くなる僕は情緒不安定なのかもしれない。




