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渇愛 ①

その夜はいつもと違う匂いがした。

未だ夏を引き摺る無作法な風が網戸をすり抜けてリビングへ侵入してくるたびにレースカーテンがふわりと持ち上がっては、揺れて、落ちる。

今、ボタンダウンのシャツにブルーのネクタイを身につけた年嵩のある男性と対峙しているのは、品のある群青色のソファが印象的なリビングだ。目の前の三人掛けソファの右端に腰掛けている男性は左の人差し指と中指をそのシャープな顎に当て眉間に皺を寄せている。右手ではパンフレットのような薄い冊子をぱらぱらと捲り、時折その手を止めては両手で顔を覆った。

覆った骨張っていながらも長い指の下で、果たしてどのような顔をしているのか、不思議なことに完全な想像ができてしまう。その事実に決まり悪くなって目線を横へ外すと網戸越しの庭に目を凝らした。

夜風が一層大きくカーテンを持ち上げる。今度は秋の虫の声も僅かに引き入れた。

顔を覆っていた男性が、再びページを捲り始める気配がして急いで視線を戻す。

だが、男性は二枚捲ったところで、ふと動きを止めた。ちらりとその手元を窺うと、冊子のある一ページに指先だけ触れている。そこにある何かの写真を慈しむようにふわりと柔らかく撫でる様子を見て、こちら側の縮こまった心臓がようやく正常な脈を取り戻した気がした。

と、急にぐちゃりと気味悪い音を立てて彼はそのページを持ち上げるように掴んだ。掴む彼の手の甲の血管がミミズのように浮き上がる。まるでその太さが彼の怒りの度合いを示しているかのようだった。

再び縮む心臓をどうにか宥めるようにポロシャツの胸元を掴んでは息を細く細く吐く。

何とか命を繋がなければ。

そんな心持ちで、過ぎ去りつつある夏の香りを惜しむようにただ時が過ぎるのを待った。


僕の目が覚めた時、背中と額に薄っすらと汗をかいていることがすぐに分かった。それでも、ゆっくりと手の甲を額に当てて確かめる。汗ばんだ額は少しだけ冷えていて、それが手の甲の皮膚を通して脳に「落ち着け」という信号を送り続けている。

僕は左向きから仰向けに体勢を変えて、薄暗い朝日に浮かぶ天井の小さな染みを見つめた。いつからあっただろうか。白い天井に蝶とも蛾とも見分けのつかない歪な茶色い汚れが僕を見下ろしている。そのまましばらく仰向けを続けていると、背中に張り付いたTシャツが冷たさを主張してきた。このまま再び眠りについてしまったら風邪を引くかもしれないと頭では分かっているのに、ただ今は動けない。

これは前世の記憶の断片に違いなかった。

(あのノートに記録しておかなきゃな。寝たら忘れそうだから、早めに………)

いつかのバイトの休憩中に始めた、ノートへの記録というタスクが思い浮かんで、僅かに首を捻り部屋の隅にあるリュックを見遣るが、このベッドから軽く手を伸ばしたところで到底触れることさえ叶わない距離に深く溜息をついては目一杯息を吸う。

ノートへ書き留めることは早々に諦め、怠さを感じる身体でようやく身じろぎをすると、右手でベッドの頭上を右左に探った。何度かシーツを爪で引っ掻いてスマホを探し当てる。大して明るくもない室内で重い瞼を無理矢理開き画面上のメモアプリを素早くタップする。ただ文字を連ねるだけ。文章にはしない。単語を句読点も改行もなく入力し、まるで暗号のようにその青白く光る画面上に記憶を縫い付けた。

覚えている限りの場面にそれぞれ紐付く単語を散々並べたあと、最後に浮かび上がった“保存しました”の文字を見てようやく安堵する。

ちょっとした疲労とともに、今できるべきことはやったという満足感を覚えると再び目を閉じてベッドに沈む。ものの数秒で、僕の脆弱な意識は宇宙の彼方へ飛んでいった。


アラームがいつもより近くで鳴るものだから、僕は弾かれるように飛び起きた。

「……びっくりした…………なんでこんな近くにあるんだよ………」

右の耳元でその存在を主張するスマートフォンを急いで掴み、その電子音を停止させる。

勿論、スマホが耳に接するように置かれていた理由は分かっている。早朝に夢と見紛ういつもの前世の記憶の一部が蘇ってきて、ノートに書き留める余裕を持ち合わせていなかった僕は、とりあえず手の届く場所にあったスマホを引き寄せてメモをしたのだ。

(あとでノートに書き写しておこう)

そう思いながら、今一度確認するためにメモアプリを立ち上げる。途端に漢字の羅列が目に飛び込んできて、数時間前の自分の余裕のなさに苦笑した。

それでも“男”、“ソファ”、“パンフレット”、“怒り”、“ポロシャツ”といった文字を眺めていると、あの時の全身が麻痺して硬直するような緊張感が襲ってくるような心持ちがした。


あのリビングの景色は何度か見たことがある。深緑のリーフ柄が特徴的なカーテンを覚えている。Aの自宅に違いなかった。すると、恐らく怒りに震えていた男性はAの父親だろう。今思えば、あの男性も何度か“見た”ような気がする。そういえば、彼は何の冊子を開いていたのだろうか。残念ながらそのページの内容までは思い出せない。

今回は音声がなかったからか、どのような場面が僕に降ってきたのかは非常に曖昧だ。まさか、あれは前世の記憶ではなくて本当にただの夢ということはあるまいか。

まだ覚醒しきっていない脳内をそれでもぐるぐると巡らせて、依然スマホ上の文字列を注視していると、突然画面がブラックアウトした。それは僕が二分で画面スリープするように設定しているから当然なのだが、突然の黒い画面に映った自分の姿があまりにも頼りなげでどきりとした。

(俺はこんな姿形をしているんだな……)

鏡のように何の忖度もなく正直に対象物を映し出した画面に向かって心の中で話しかけると、輪郭が少し歪んだ気がした。いつだって僕は自分自身を過大評価している。

(…………………………………………………)

どのくらいそのまま固まっていただろう。

遠くで微かな足音やテレビの音、話し声が聞こえてくる。それは父と母が互いに生じさせているいつもの生活音だった。

(俺は今日、確かに新しい朝を迎え、この見慣れた部屋で昨日の続きを味わおうとしているんだ)

画面の中の僕にそう唱えて、必死に輪郭を取り戻そうとした。それなのに反転した僕はなかなか頷いてくれない。


「ピコン」

急に画面に明るさが戻った。

悟からのメッセージが入ったのだ。

『今日、30分ぐらい遅れそう』

アプリを開こうとタップしたところで次のメッセージがやってきた。

『ってわけで、集合時間は10時半にするわ』

どうやら今日の“街歩きサークル第二回渋谷編”の予定変更の連絡だ。

長い夏が終わり、僕達は明日から後期の授業が始まる。お互いに逐一報告するようなことはなかったが、宮っちも含め、たまにやり取りをしたメールなどでそれぞれが余りある夏休みを有意義に費やせたことは確認できていた。僕とて、週に4日は書店バイトに精を出し、残りは大学の図書館に行って前期の復習をしたり、高校時代の友人達と久し振りの再会を喜びながらバーベキューや花火を楽しんだり、大いに十代最後の夏を謳歌した。

悟からは半月ほど前、九月の初め頃には“もう一回ぐらい街歩きしておきたいね”と話が出ていた。それから悟が宮っちにも連絡を回してくれて、三人の空いている日が合致したのが今日だった。

あの七月の終わりの灼熱の上野に比べれば九月下旬の今日は暑さも落ち着いているだろうと僕等は相当な高を括っていたが、今、ベッド脇のカーテンの隙間から差し込む光がそれは甘い考えだとあざ笑っているのが分かる。事実、ここ数日は盛夏がぶり返したような天気で、朝晩はまだ良いものの、昼間はうだるような暑さだ。

『よろしくー』

と悟がスタンプと共に更にメッセージを送ってくる。そのスタンプは柴犬が尻尾を激しく振るエフェクト付きで、彼のテンションの高さが窺えた。

「………ま、いっか」

僕も“了解”の文字付きのパンダのスタンプを送ってスマホをベッドの上に手放すと、力の限り両腕で目一杯の伸びをする。

「確かに新しい朝を迎え、昨日の続きを味わうんだ」

今度はそう声に出して勢いをつけてベッドから抜け出すと、重いカーテンを左右に開いてその眩しさに目を細めた。

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