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『谷 千夏』の我執 ③

(メイクしてなかったぐらいであんなに驚くなんて)

昨日の休憩室での出来事を今一度思い出しては苦笑する。

電車が到着したばかりなのか、夜の改札口前には既に老若男女の人波が出来上がっていて、それを逆行してホームまで泳ぎ着くには少々骨が折れた。

ホームは隅々まで埃と汗の匂いで満ちている。

その空気を乱すように、自分と同い年ぐらいの二人組の女性がそれぞれ鞄に三個もコウサギチャンのぬいぐるみをつけて目の前を通り過ぎた。私はそれを無意識に、しかしどこか冷めきった眼で追いかける。

二人ともいわゆる地雷系ファッションで、既存の“可愛い”の型にすっぽりと嵌まったような出で立ちだ。彼女らの、二歩歩いては立ち止まって何かを囁き、また三歩歩いては肩を叩いて笑い合う姿は、この年代特有の甘美な香りと気怠さを纏っている。きっと彼女達は、まさに自分達が大きな幸せを享受していることに気付かないだろう。もしかしたら「それほど不幸ではないけど、まだまだ幸せじゃない」とさえ思っているかもしれない。欲深い私達はとかく“幸せ”のハードルを上げがちだ。

だから私は敢えて思い込む。

大きく息を吸う。

噎せ返るほどの熱を孕んだ夜の空気の塊が喉の奥で一回転して肺に落ちた。

「私は幸せだ」

息を吐くと同時に宣言する。

静かになりかけていたホームで急に声をあげたからか、私とそう離れていない位置にいた彼女達が振り向いた。私は曖昧な笑みを浮かべて誰に向けるでもなく微かに会釈する。彼女達はシンクロするような動きで一瞬お互いの顔を見合わせたが、すぐにこちらのことなど興味を失ったようで再びエスカレーターへ向けて歩き出す。その歩き方もまるで示し合わせたかのように瓜二つだ。歩調のタイミングをはかるように爪先は摺り足で踵の接地はとんでもなく甘い。ヒール特有の心地良い足音が台無しだ。

(あの人とおんなじ歩き方………流行ってんのかな)

昼間に接客した黒一色の女性を脳裏に思い浮かべては心の一点が薄気味悪くざわめくのを感じた。


(あの人、レシートにアカウント書いて佐治さんに渡してたよね)

彼女は私が渡したレシートをすぐに裏返すと鞄の外ポケットからボールペンを取り出して何やら書き込んでいた。それはレジカウンターで行われていたことだが、勿論私は覗き込んだりしていない。

でも、私にはそれが連絡先だと理解る。私は常に無意識に人を観察している。それは時に自分でも辟易するぐらいに、だ。

実際、私はその黒ずくめの女性をレジに来る前から観察していた。文庫コーナーで休憩戻りの佐治さんに遭遇していることも知っている。佐治さんの強張ったような緊張したような表情を見るに、あれは知り合いに違いない。想定外の場所で出くわして困惑している顔だった。てっきり女性に話しかけるのかと思ったが、彼はそうはしなかった。つまりは気軽に声を掛けられるような親しい仲ではないということだ。

私は瞬時に脳内をぐるぐると巡らせて、誰にも気づかれないよう、並んでいた次の客の会計を進めながら、相変わらず佐治さんが棒立ちになっている文庫棚へと真っ直ぐ向かう彼女を盗み見ていた。

聞こえはしないけれども女が何か言葉を発し、レシートを差し出す。そして彼は躊躇いなくそれを受け取った。

連絡先を渡すという目的を達した彼女はすぐに踵を返すと出口へ向かう。あの摺り足をブレンドした忌々しい歩き方で。

佐治さんに視線を戻すと、ようやくレシート裏のアカウントに気付いたようだった。一見無表情にも見えるその眼と口唇に困惑と共に小さな歓びの欠片が見えた気がした。

(佐治さんも、そういうタイプだったかぁ………残念)

悔し紛れに、私は新しく用意した型に無理矢理彼を押し込めて、勝手に残念がる。

(黒いあの人、こんなに暑い日が続いているのにサラサラの綺麗な髪だったな。お会計の時に一瞬合った眼は漆黒というより茶味がかっていて、それが全体の黒いシルエットに妙に映えていたし。カラコンかと疑ったけど、私の観察眼ではあれはナチュラル……)

脳が彼女を識別したがって勝手に右往左往するのを私は止められない。

忘れられないほどの衝撃だったのはカバーをつけた文庫本を受け取る細く長い指だ。手入れされた爪と肌のキメ、何より透き通る白さが涼やかだった。きっと触れたらひんやりとしている。まるで家事などしたこともないような、羨ましくて妬ましい手。

(そりゃそうだよな。普通は家事なんかしないよな。やってもお手伝い程度か………)

彼女と私は生まれつきの属性が違うのだと自覚する。

とうに彼女が店から去り、倉橋さんに一言断りをいれてやっと私が休憩に入った後も、あの人の姿をいちいち思い出しては一つ一つ腹に落とし込むために咀嚼していた。


コウサギチャン好きの二人組は無事にホームを立ち去り、おそらく今頃は改札の外で立ち話に話を咲かせている頃だろう。それとも、あの覚束ない歩き方で夜通しお喋りができるファミレスでも探し歩いているか。

私は、ようやく到着した一分遅れの各駅停車に乗り込むと、ドア近くの角の座席を陣取る。

幸い自宅は上りの各停で三つ目の駅にあるので、この時間の車内は比較的空いている。

すれ違う下り電車の車内の膨れ上がった様子を流し見て、一つ溜息をついた。通り過ぎた電車が暴いた窓に映る自分の姿は今日も予想通り疲れていた。

(佐治さんは、あの人に連絡するのかな……)

座席の背もたれに全体重をかけるように深く凭れて、もう何度目かわからない今日の出来事を思い返す。

佐治さんはとても穏やかで理性的だ。

そしてどこか危うい。

ただし、その“危うさ”の正体は私にはまだ分からない。それをひょんなことから今日私は「雰囲気がある」と表現してみた。佐治さんはひどく驚いていたが、倉橋さんには伝わったようだ。

別に危うさの正体など分からなくて良い。大事なのは不安定な要素があればあるほど魅力が増すという事実だ。それは第三者がつい補完したくなるというような引力に他ならない。

その引力を彼はきっと生まれながらに持ち合わせている。

だって私は既に引き寄せられかけているのだから。


ほら、やっぱりこの世界は歪んでいる。

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