『谷 千夏』の我執 ②
駅ビルの裏通りに面した従業員通用口を通り抜け、悠誠堂書店の店舗エリアへ向かう。途中、行き交う他店舗のスタッフと「お疲れさまでーす」と笑顔でやり取りをするのは、ここでは見慣れた光景だ。どこの店舗の誰なのか知らなくとも、同じビルで働く仲間同士、その一点だけで生じる妙な連帯感が確かにあった。
挨拶が途切れたところで、ジェッツコーラを開栓して一口飲んだ。ボトルを掴む手の平が、そろそろコーラの冷たさに慣れてきているのかと思っていたが、ああ、違う、早くもコーラの方がぬるくなっていたのだと、ぬるりと喉元を抜ける褐色の液体の温度で理解する。
悠誠堂の休憩室には先客がいた。
同じアルバイトの佐治凪沙さんだ。彼は私と同い年なのだが、10日前に入ったばかりの私とは違い、春からここで働いている言わば“先輩”である。
彼は今日、私と同じ時間のシフトに入っていた。まだまだ仕事を覚えられていない私とペアにすることで、店長は何かあった時のフォローを佐治さんに期待していると思われる。実際に仕事内容を細かく教えてくれているのはシフトリーダーの倉橋さんなのだが、如何せん彼女は社員陣からの信頼も厚く、その分任される仕事量も多い。そこに私の指導も加わっては負荷をかけすぎではないかと心配されているのだ。悠誠堂書店としてはこのまま倉橋さんにゆくゆくは社員として働いてほしかったらしく内々に打診もしたようだが彼女は断ったようだ。
勿論、こんな話は店長から聞いた訳でも倉橋さんが零していた訳でもない。後方の事務所の前で一人で資材の搬入作業をしていた昨日の午後、少し開いた事務所の扉の向こうで店長と副店長が話をしているのが漏れ聞こえてきたのだ。やはり、ここだけの話をする時には部屋の扉ぐらいは確認した方が良い。一つ勉強になった。
ちなみに、私は倉橋さんが第一志望の公務員試験に合格したことも知っている。
佐治さんが11時半前に出勤しているのは珍しかった。ここ何日かシフトが私と丸かぶりなのだが、気付いたのは彼は意外とぎりぎりの時間に出勤するということだ。もちろん遅刻する程のことはないのだが、日々の仕事ぶりから察するに、何事も余裕を持って行動するタイプなのではないかと勝手な想像していた私は少しだけがっかりした。
そして今、その佐治さんはロッカーの前のテーブルで何やら荷物の整理整頓をしているらしかった。左手でエプロンを取り出しながら右手で水筒を掴んでいる。もしかしたら何かを探しているのかもしれない。
(ちゃんとエプロンは持ち帰って洗濯してくるタイプ……か)
浅はかな人間観察をしてすぐ“◯◯タイプ”と型にはめようとするのは私の悪い癖だ。
そんな私の気配に全く気付かないで、黙々と荷物整理をする佐治さんの背中の柔らかい曲線を暫く眺めていると、抑えきれない悪戯心がむくむくと湧いてくる。
私はゆっくりと摺り足で彼の背後に音を立てないように近寄ると、濡れたコーラのボトルを白い首筋にそっと当てた。
「うわぁ!」
佐治さんが短い痙攣とともに首をすくめて大声を出す。身体全体を強張らせて狼狽する姿が何処かで見た小動物のようで愛らしい。
私はその無防備な姿に満足して
「おっはようございまーす!」
と、佐治さんと同じぐらい大きい声を出して笑ってみせた。
「え!谷さん!?なになに、なんなの?」
彼は掴んでいた水筒を離して首筋に手をやりながらこちらを振り返った。
その顔は呆れながらも笑っている。
それなのに、私の姿がしっかりと彼の瞳におさまった瞬間、
「うぅわぁぁぁ!」
彼が左手を大きく振り、そのまま掴んだままのエプロンを振り落とした。黒いエプロンが埃の舞う床へ優雅に落ちる。
佐治さんがあげた声はあまりに大きく、私もうっかり目を白黒させてしまったし、もしかすると売り場にまで響いているのではないかと心配になるほどだった。
「……………せっかく洗ったのに、また汚れちゃいますよ。黒って埃が目立つから……って、私が驚かせたくせに余計なお世話ですよね」
エプロンを拾い上げて埃を払うように軽く叩いて佐治さんに渡す。
彼は未だ動かないまま、その黒々とした瞳を見開き私の仕草をただ見つめていた。
確かに仕掛けたのは私だが、思いがけず特大の反応が返ってきてしまったので、どこか後ろめたくもなってくる。もしここが橋の上とかだったら、佐治さんは下に落ちていたかもしれないな、などと思い、心許無いこの薄い胸に幾ばくかの罪悪感がこみ上げてこなくもなかったが、いや、そんな場所でこんな悪戯はしないし、と思い直して一人首肯した。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないですかー、そんなに私のノーメイクってやばいですか?」
おどけた表情を作りながら、一向に受け取ってくれないエプロンを軽く八分の一に折りたたんで、佐治さんのリュックがあるテーブルの上に置く。
「あ…………」
そこでようやく佐治さんの口が僅かに震えた。
「…………いや、そういう訳じゃなくて……………うん、自分でもびっくりするほど驚いちゃって、なんかごめん。あ、ノーメイクとかにじゃなくて、首の冷たさに」
「はは。“ノーメイク”ってわざわざ念押ししなくていいし。でも、まじでごめんなさい。私もここまでびっくりされるとは思わなかった。これから気をつけて悪戯するようにします」
びしっ、と刑事ドラマでよく見る敬礼をする。
「え、もう俺には悪戯はしないでよ。心臓弱いんだから」
佐治さんも私に相乗りするように、どこか芝居がかった動きで両手で左の胸を押さえる。その姿は例えようのない滑稽さで自然と二人とも笑みが洩れた。
「心臓、弱いんですか?」
わざと突っ込んでみる。
「…………ううん、ずっと健康優良児」
そんな戯れ言で笑い合ったまま、私は鞄の中からコウサギチャンの目印チャームを取り出してコーラの胴に巻きつけた。目印チャームの輪の部分にピンクのヘアゴムを通したお手製だ。
休憩室の奥にある冷蔵庫の扉を開けると、それぞれのスタッフ名が書かれた付箋をひらひらとつけたボトルがぎっしりと並んでいる。ここを見れば、今日のメンバーが大体わかるので毎回それとなく目を通すようにしている。
「佐治さんもドリンク入れますか?あと一本ぐらいなら入りそう」
振り返って声をかけると、既にリュックをロッカーにしまいエプロンを身に着けている彼と目が合った。もうすっかりいつも通りの佐治さんだ。
「…………そういえば、なんで今日、来るの早いんですか?」
気になることは早めに解決する。それが私の信条だ。
「ん?」
佐治さんはきょとんとした顔で半ば食い入るように私を見つめたあと、ばつが悪そうに先程私に冷やされた首筋に右手をやって視線を外した。
「………今日、早番だと思って間違えて早く来ちゃってさ。ずっとここで時間潰してたんだよね」
恥ずかしそうに明後日の方向を向く表情が可愛い。彼は皮膚が薄いのか、頬がどことなく赤い気もする。
「やばっ!早番って!え、じゃあ、えーっと二時間も時間潰してたんですか!?」
私は両手で口元を覆って大袈裟に驚いてみせた。相手がこうやって騒いでくれた方が逆に恥ずかしさが消えることを、私は経験上よく知っている。
「でも一冊本買って読んでたら割とあっと言う間だったよ」
案の定、佐治さんの表情から赤みが引いた。
リュックから「これ」と言って新書を取り出して見せてくれる。“看板建築の歴史”とタイトルにある。そういえば、佐治さんは建築学科だと初めて会った時の自己紹介で話していたっけ。
そんな彼の挙動に安心して私もロッカーに鞄を突っ込むと、奥にあるエプロンの塊を引っ張りだした。
「私だったら店長と交渉してその日の早番にしてもらいますけどね」
「でもそれじゃ、遅番が一人減って最後が狂うじゃん。なんか申し訳ないよ」
佐治さんはリュックの中のビニール袋からコンビニのロゴマークがついたジャスミン茶を取り出すと、冷蔵庫の横に置いてある付箋とペンで名前を書きながら呟くようにそう言った。
(なんだろう、この人。優しいんだか抜けてるんだかよくわかんないな)
冷蔵庫の扉を開ける佐治さんの後ろ姿をぼんやりと見ていたら、やらねばならない大事なことをすっかり忘れていることに気付く。私はその場でぴょんぴょんと小さく何度もジャンプした。
「佐治さん、いい人ー!って、そんなこと話してる場合じゃなかった。メイクしないと間に合わないじゃん!」
私は、じゃっ!と手刀を切って鞄からポーチを取り出すと一目散に化粧室へと走る。全ては自業自得だ。




