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『谷 千夏』の我執 ①

私は穏やかな人が好きだ。それは男でも女でも、だ。


忙しく行き交う人々とビルの灯りが歪んで見える。

じりじりと街を灼いた昼を経て、湿度が高く息苦しい夜がやってきた。もしかしたら、これから雷雨でもあるのではないかと思う程、独特な匂いを孕んだ生温い風が私の切り揃えた前髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜて夜空へと消える。私は咄嗟に右手で前髪を押さえつけて溜息をついた。

(今日はアイロンが上手くいったのに……)

元々緩い癖っ毛の私は朝のスタイリングに時間がかかる。今日も今日とて苦心して完成させたこの前髪も荒ぶる風で台無しだ。ただ一点、運が良かったと思えるところがあるとしたら、今の私がバイトが終わりであとは自宅へ帰るだけだということだ。

(そうだ。むしろ私はラッキーだ)

そう無理矢理自分を納得させて憂鬱な気分が肚底に落ちる時を待つが、今日はなかなか上手くいかない。気持ちは晴れるどころか、次第に言葉にし難い焦燥感に変わる。

待っていても心が落ち着かない時は、落ち着かせるために行動するしかない。

私は、駅ビルの従業員通用口を出た先にある自動販売機まで前髪を押さえた右手はそのままに小走りで近づくと、ボタンを叩くように押してパスケースを決済パネルに押し付けた。

そう、こんな気分の時に買うものはジェッツコーラ一択だ。

鈍い音が足元から響いて、取り出し口のカバーが細かく震えた。それだけで、何かに勝利したような爽快感がこみ上げる。

腰を屈めてコーラのペットボトルを取り出すと、それは想像以上に冷たかった。

両手で一周分くるむように包んで暫しの快楽に身を委ね、理由のわからない背徳感のような苦しさを楽しんだ。

(この冷たさを超絶気持ち良いとか感じられる夏ってやっぱ最高だな)

と、こんなことですっかり気分が宥められる。案外私は単純なのだ。

キャップを回す指に力を込めて、一気に反時計回りに捻るとプシッという音とともに魅惑的な香辛料の香りが胸元で広がる。スパイシーな匂いに誘われるがままに口唇に飲み口を当てると、一気に喉に流し込んだ。炭酸が胃と食道を押し広げながら身体に染みていく様子を想像して少し愉快にもなる。

(コーラもいろいろあるけど、やっぱジェッツ最高)

途中、酸欠を起こしたように息苦しくなりながらも半分ぐらいまで一気に飲み進めて、ようやく身体の気怠さに私の意識が勝ち得た気がした。

自販機の前で一気飲みをする私を駅から溢れ出た人々が一瞥しては過ぎていく。私は、ようやく自分が歩道の真ん中で仁王立ちをして通行人の邪魔をいることに気付いて急いで自販機の横へと避難した。

そして、私もバイトの帰り道なのだと我に返る。

「今日もよく頑張ったぜぃ」

調子をつけて自分で自分を労いながら今度は駅の改札口へ向かうべく歩き始めて、ふと昨日の昼の出来事が頭をよぎった。


昨日のバイトも私は本日同様12時スタートだった。遅番シフトだと、ちょうど出勤時間が灼熱の太陽が本気を出し始める時間に被るため、家を出てこの駅ビルに辿り着くまでにヘアセットもメイクも台無しになる。流石に売場で眉のないすっぴん顔を晒すのだけは避けたい私は、対処方法を編み出した。この職場に着いてからメイクをするという方法だ。来るまでは日焼け止めさえしっかり塗っておけば良い。まあ、念のため眉だけは描いておくことにしているが。ヘアアイロンも最近では小型で軽量のモデルが増えたために、持ち歩きも十分楽になった。

一点、面倒なのは、ヘアメイクにかける時間を逆算して、少し早めに家を出なければならないということだ。

相変わらずの暑さの中、昨日も11時20分には従業員通用口をくぐった。

警備員に入館証を提示しようと大きめのトートバッグの中を探ったところで、ふとあることを思いついて踵を返した。

通用口の手前の例の自販機でジェッツコーラを買って行こうと思いついたのだ。仕事開始までに飲みきれなくても、休憩室には従業員用の冷蔵庫がある。各自の飲み物には名前を書くように、という注意書きの用紙が扉に貼ってあるが、最近のお気に入りキャラのコウサギチャンのガチャでゲットした目印チャームをつけて入れておけば、きっと誰も文句は言わないだろう。

自販機まで辿り着くと最上段のジェッツコーラを見上げて売り切れていないことを確認する。いつものようにパスケースのICカードをかざすと、ガコ、ガゴゴ……ガシャン、ドンッといつになく大仰な衝突音をただ耳を澄ませて聞いた。取り出し口の経年劣化で少し曇ったパネルの隙間から虹色のパッケージがちらりと見える。私は相変わらずそこに突っ立ったまま、この一本のペットボトルが自販機の中でどこを辿り、どこを曲がり、どこにぶつかって落下してくるのか暫し夢想した。

たまにこういった“見えない”部分を想像して楽しむのは私の幼い頃からの癖だ。

(ああ、やばい。暑すぎてぼーっとしてる。早くビルに入らないと熱中症になりそう)

首を振って、表面に既にいくつか水滴の浮かんだボトルを勢い良く掴むと、小走りに警備員の待つ通用口に向かった。

私は今週は明日までの五連勤だ。四連勤目の今日は流石に疲れが出てきている。こんな疲れの蓄積が熱中症の原因にもなると何かのコラムで見た記憶がある。今年の夏休みはしっかりと稼ぐと決めたのだ。体調を崩している暇などはない。そんな私の希望通りに週五回のシフトを組んでくれる悠誠堂書店の店長には感謝しかない。


だって、このままじゃ来年の学費もままならないのだから。

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