我執 ⑪
悠誠堂書店から自宅まではたった二駅しか離れていないため、最寄り駅からマンションまで歩く時間を加えたとしても30分あれば余裕で帰宅することができる。
エレベーターを降りて誰もいない内廊下をゆっくり歩く。夕方のこのマンションで自宅の505号室に着くまでに誰かとすれ違うことは極めて稀だ。時々僕等以外は誰も住んでいないのではないかと錯覚するほど、エントランスも廊下も隅々まで一様に静かで、マンションが面している大通りの喧騒がまるで別世界のように思える。それとも別世界なのはこちら側なのだろうか、とも。
そんなことを考えながら僕がようやく自宅に着いた時、両親は未だ帰宅していなかった。
(そりゃそうだ。まだ5時半だもんな)
洗面台で丁寧に手を洗いながら、誰もいない気軽さについ鼻歌がでる。水音と僕の決して上手くない旋律がこの部屋で聞こえる唯一の生活音だ。
音は“生”を感じさせる。そこにある“営み”を感じさせる。だから、僕は本能的に歌を口ずさんだのかもしれなかった。
(……………なんだろう、この歌)
自分が歌っている筈なのに、それは自分の記憶にない旋律だ。だが、別に驚きはしない。僕の19年間の記憶の中にそれを見つけられない場合は大概“前世”の人生の中に答えがある。まだそれを思い出していないだけだ。
現在の僕はAの記憶を断片的にしか知らない。
それでも時として感じることがあるのだ。この鼻歌のように、意識の外側の何処かに本当は前世の記憶の全てが記憶されていて、それを神の采配で少しずつ少しずつ慣らすように映像化して僕に提示しているのではないか、と。
そのように考えてみると、不意に訪れる理由不明の“懐かしいという感覚”や今のように“身に覚えのない音楽や行動”にも合点がいく。脳内を切り開いてみれば、どこかに前世の記憶がきれいに内蔵されている筈で、しかもそれは僕がこの世に生まれた瞬間から存在するのだ。
『僕は何のために生まれたのだろう』
これは物心ついた時からの命題だった。当然、Aの享年を越えてもなお、その答えは見つからない。
その一方で僕は決めていることがある。
『Aが失った未来をなぞるだけのコピーには絶対になりたくはない』
手を洗うついでに顔も洗い、コップに二杯分の水道水を飲む。母の例の歪な完璧計画では飲み水はミネラルウォーターと決まっているのだが、ノンポリな僕はよく隠れて水道水で済ませることがある。母の目の届く場所では大人しくミネラルウォーターをコップに注ぐが、それは優しさではなく、予想可能な煩わしさを避けるためだ。
自室へ戻ると、まずエアコンのリモコンを探した。今日はベッド脇の木製の棚の上だ。何故ここにあるのかは記憶にないが、そんなことは今はどうでも良い。自宅に足を踏み入れた時から、充満する熱気の渦にのみ込まれてずきずきと頭が痛む。本能に導かれるように冷房の青いボタンを押して、設定温度を23度まで下げた。低く唸るような音をたててエアコンの羽根が上下に動き始めたことを確認すると、シンプルなデスクの上にリュックを下ろす。背当てと肩紐の裏が案の定汗で湿っているが、エアコンが効けばすぐに乾くだろう。
そんなことよりも、と僕はチノパンのポケットを探って二つ折りのレシートを取り出す。
「どうしたものかな………」
今度は言葉に出してみる。
「ゆうき………りこ」
そこに書かれた『結城 莉子』という名前も読み上げてみる。振り仮名が振られている訳ではないが、概ね読み方に間違いはないだろう。
名前の裏には「文庫 ✕1」の文字。感熱紙特有のてかりとした表面を眺めながら、彼女が購入した文庫本は何だったのだろうと思う。
彼女が何を選ぼうとしているか、僕は気遣いの内として見ないようにしたが、その実、少し気になってもいる。彼女がレジカウンターに向かったあと棚を見上げれば、きっとそこには文庫本一冊分の隙間ができているはずで、書店員の僕ならば、そこにあった筈の一冊を推理できるだろう。しかし、あの時の僕はその行動を選ばなかった。彼女に対し何を遠慮したのかは皆目分からないが、今頃になって、ちょっと惜しかったな、とも思っている自分の本心に気付いて、流石に苦笑せざるをえない。
(………好きな本が似ていたらいいな)
時間が経った今、そんなことを考える自分がいることが他人事のようにどこか不思議だった。
それもこれも全てはこのレシートの所為に違いない。
だが、たとえばこのSNSのアカウントを登録したとして、その先はどうしたら良いのだろう。
Aの人生でも味わうことのなかった展開に脳内が混乱しているのが分かる。その証拠に、僕は何故か再度エアコンのリモコンを探し、こともあろうか、つけたばかりのエアコンを一度消してしまった。一段高い機械音をたてながら送風口が閉じる様をぼんやりと見つめながら、今も右手でリモコンを弄んでいる。
我に返ってもう一度“冷房”と書かれたボタンに親指を当てると自然と笑いがこみ上げてきた。
困っているのか浮足立っているのか自分でも分からなくなっている。
冷風が出てくることを左手を翳して確認する。指先を掠める風が心地良かった。
僕はベッドの端に座ると目を瞑って部屋が冷やされていく過程を暫く感じることに集中した。
彼女には訊きたいことがある。
あの日、不躾に「似てる」と言われたその答えを知りたいのだ。




