我執 ⑩
僕はジャスミン茶が注がれたコップに手を伸ばした。最近の母は今までの紅茶党から宗旨変えをして、絶賛ジャスミン党を満喫中だ。お茶だけではなく、ボディソープやハンドクリームも“ジャスミンの香り”で揃える熱心さで、はじめは嗅ぎ慣れない芳醇の中に甘さが宿る独特な香りに終始胸がざわついて落ち着かなかったのだが、慣れとは恐いもので今となってはジャスミン茶もジャスミンの香りも僕の日常の一部分と化している。ちなみに、実際にジャスミンの花の香りを嗅いだことのない僕は、母を取り巻くその香りが果たして本物のそれにどれ程近いのか皆目分からない。別に本物の芳香に似ていなくても良いのだ。母にとっては、あのハンドクリームの香りこそが紛れもない“本物”なのだから。
「私は反対だから」
黙したままジャスミン茶を一口飲んだ僕に焦れたのか、母は同じことを繰り返し告げた。
「……………またか」
父がおもむろに席を立ちキッチンの冷蔵庫へ向かいながらそう呟いた。
ばたんと音を立てて冷蔵庫から二本目のビールを取り出し戻ってくると
「恵美子、また悪い癖が出てるぞ」
と、空になったグラスを左手で引き寄せながら静かに放った。
「俺は、アルバイトも学べることがたくさんあるって思ってるよ。そりゃ、凪沙の口からアルバイトって言葉が出てくるとは思わなかったから、ちょっと驚きはしたけどさ」
父が注ぐビールは泡ばかりだ。ああ、失敗したな、という表情を隠さず、彼はグラスに口唇を寄せた。
「だって、いつか……大学を出たら否応なしに働くのよ。別に今じゃなくていいじゃない。私はアルバイトよりももっと部活動とか留学とか、そういう学生時代じゃないとできないことに打ち込んでほしいの」
母は声を抑えながらも早口でまくし立てる。声を抑えたのは“感情的に大声で怒鳴り散らしては負けだ”という彼女なりのプライドで、父とこうやってやり合う時にそれが垣間見える瞬間が訪れると、僕はいつだって反射的に萎縮した。
今だって、僕は眼前の食事に手をつけることができずに、食べかけのサラダを見つめながらジャスミン茶のグラスを右手で撫でている。ダイニングの照明の光がレタスの上のドレッシングの中で妖しくも朧げに光っていた。
(………こんなことになるなら、言うんじゃなかった)
右手で温められて一層ぬるくなったお茶を一口飲みながら誰にも知られないようにゆっくりと溜息をつく。
両親はまだ議論のような口喧嘩をしているが、僕はいつものように聴力から意図的に意識を手放して、今はただドレッシングの粒を見つめることに集中する。
「……………って、だから、それが悪い癖だって言ってるんじゃないか。凪沙を恵美子の敷いたレールにのせるなよ。凪沙の未来は凪沙のものだろう?」
「でも、大人になるまでは私達の責任じゃない。私はいつだって強制なんかしていないでしょ。これは助言。レールじゃなくて、可能性の選択肢を与えているだけでしょ」
この夜の両親の意見交換もなかなか終わらない。
終止符を打つには、どうしても僕の一言が必要だった。
「部活なんだけどさ、本当はテニスやりたいんだけど、中学と違ってまだ仲の良い友達がいないから、ちょっと尻込みしてるんだよね」
今日の母親の中での終着地点を察した僕は、両親に気づかれないように留意しながら嘘をつく。
母は僕の言葉を若干食うように満足気な笑みを口の端に浮かべた。
それを見て、僕は心底ほっとする。
「凪沙、友達ができてから入るんじゃなくて、テニス部に入ってから友達をつくればいいじゃない。そんなことで躊躇するなんて…………。まだまだ考えが未熟ね」
少し意地悪さも漂う表情で煮込みハンバーグを口に運ぶ目の前の母の様子に、僕も改めて胸をなで下ろしてようやく箸を掴む。
隣で父が無言のままサラダを平らげていた。
いつだって場で揺れる空気の濃淡に敏感な父は、きっと僕の嘘に気づいただろう。それでも、それを助長するでも暴くでもなく、ただ黙して僕の思惑を尊重してくれる姿は父なりの優しさだと僕は思っている。
「このハンバーグ、いつもよりコクがあって美味いな」
「そう?いつもと材料は一緒なんだけど。私の腕が上がったのかしらね」
父が話題を変え、母の上機嫌をキープし続けてくれている。
僕は隣の父親に感謝しつつ、切り分けたハンバーグを頬張った。隠し味のワインの香りに少しだけ酔いそうだった。
母は完璧主義者で、父は理想主義者だ。
僕がそのことに薄っすらと気づいたのは小学生の頃だったか。
母の中には確固たる目指すべき家庭像があり、“完全なる夫と息子”はその家庭の必須要素だ。勿論、彼女自身も“完全な私であること”を自身に課している訳であり、仕事にも子育てにも手を抜かないストイックな部分は時に尊敬の念すら覚える。
だが、僕にはそれよりも彼女の決めたルールの厳格さに恐れも抱いていた。
明文化されている訳でもない彼女の中だけの規律を読み解くのにどれ程の時間と労力を要しただろう。ようやく母の道程に並走することができるかもしれないと実感したのは、小学校で卒業式の歌の練習をしている時だった。
体育館の入口から忍び込む風がぬるく身体に纏わりついて眠気を誘った。こうやって卒業式の練習をしているとこの場の雰囲気に慣れてしまって本番では感慨も涙め何も無くなってしまうのではないか、などとぼんやりと考えながら欠伸を堪えていた。
その時、いつも突然に襲ってくる“あの瞬間”が来た。僕が、春風に身を委ねているせいでいくらか呆けながら今回のパズルピースを追っていると、急にがくんと膝から力が抜けた感覚があった。僕はよろけながら後ろに並べられたパイプ椅子の上に尻餅をつく。隣り合うクラスメイトが怪訝そうに僕を覗きこんできたので、ははっと小さく笑って誤魔化した。
(ああ、そうだ………きっとそうに違いない)
初めて今までの母の態度や反応が孕む意味を理解したような気がした。
母が求める“息子”は前世などという曖昧模糊としたものに囚われてはならない。
何故なら、母の描く家庭像に“前世の記憶をもつ息子”など、はじめから想定されている筈もない異質物だからだ。
だから、僕はもう母に嬉々としてそれを詳らかに話してはいけないんだ。




