我執 ⑨
早番のシフトだった僕は、店内の中央部分の柱を仰ぎ見た。そこには白地に黒いローマ数字が描かれたシンプルな時計が掛かっている。長針が頂点をまわったことをしっかりと確認すると横にいる倉橋さんに声をかけた。
「5時になったんで、俺、上がっても大丈夫ですか?」
「そっか、もうそんな時間なんだね。うん、大丈夫。あとは谷さんといけそう」
日が傾き、駅も混み始める時間だ。ベテランの倉橋さんは僕より一時間長く18時上がりだ。
僕は倉橋さんと、その向こうで発注作業をしている山口さんに軽く会釈するとカウンターを出た。後方への扉へ向かう途中で、資材を倉庫に取りに行っていた谷さんに会う。
「お疲れさま」
谷さんにも挨拶をすると
「お疲れさまでーす」
と、日中の疲れを微塵も感じさせない明るい声が返ってきた。
にこっと白い八重歯を少しだけ覗かせて笑う谷さんの笑顔は毎度ながら愛らしい。
“ところで、谷さんが言う雰囲気って何なの?”という問いが喉元まで出かかっていたが、彼女は未だ仕事時間内であるし、この話に水を向けてしまうと長くなってしまいそうな予感も若干ながらしていたため、本当は昼からずっと気になっていたのだが今日のところは口にするのは止めておくことにした。
相変わらず重い扉を再び肩口で押しながらバックヤードへ抜ける。
扉の横の小さなデスクに一台のノートパソコンがあり、そこに素早く従業員番号とパスワードを入力して退勤の打刻をすると、後ろ手にエプロンの紐を解いた。
この瞬間が僕は好きだ。
慣れてきたとは言え、“仕事”をしているという責任は就業時間中ずっと背中に憑き物のようにずっとついてまわっている。
(いや、ちょっと違うな)
背中というより両ポケットに押し込まれているという方が近い。そういえば理科の時間に使う分銅を誤って右足の甲の上に落として悶絶したことがあったが、あれ位の小さな重りを常にポケットに入れている感覚だ。それはとても小さいのに、つい背を丸めたくなるようなずっしりとした重さがある。だからこそ、店名の入ったエプロンを取り外した時の解放感は何にも代えがたい。
(あ、そうだ)
右ポケットからレシートを取り出して二つに折りたたむと黒いチノパンのポケットに滑り込ませる。エプロンのポケットに入れたままでは何かの拍子に誰かに見られかねない。
(……………どうしたものかな)
そう心の裡で呟きながらも、胸の奥に確かに存在する僅かな期待に近い感情が、夏空の入道雲のようにむくむくと膨れていく。この逸る気持ちが暴走しないように、僕はポケットを上から擦るように押さえつけてぎゅっと握り締めた。
僕が「アルバイトをしたい」と両親に宣言したのはこの春で二度目だ。
初めてアルバイトを意識したのは高校に入学した春だった。僕は中学時代の三年間、テニス部に所属していたのだが、それを高校でも続けるべきか考え倦ねていた。そもそも中学でテニス部を選んだのは、新しいクラスで一番初めに仲良くなった吉田が仮入部の時期に僕をテニス部に誘ってきたからに他ならない。彼は小学生の頃に隣の駅からバスで15分の場所にあったテニスクラブに通っていたそうで、僕とは違って初心者ではないどころか、上級生も一目置く程の腕前だった。
僕はラケットを握ったこともなければ、テレビ観戦すらしたこともなく、テニスなんて全くの未知の領域ではあったのだけれど、利発なヨッシーこと吉田がそばにいてくれるならば心強いと安易に入部届を出した。
結局、どんなに頑張って練習に励んだところで、僕といえば試合では勝ったり負けたりの連続で、一年次から主力メンバーだったヨッシーとの差はどんどん開いていくばかりだった。それに比例するかのようにモチベーションも徐々に低下していき、ヨッシーに強豪校からスポーツ推薦の話がちらほらと舞い込む頃には、僕の部活にかける情熱はもはや枯渇寸前だった。
それでも部活を引退した時には少なからず喪失感があり、高校に入学したらまたテニス部に入ってみようかという気持ちにもなったのだが、それから受験やら卒業やらで半年間もテニスから離れると、不思議なことにテニスを離れて寂しいと感じたそれ自体が瑣末なことのようにも思えてくる。
そして、無事に第一希望の都立高校に入学した頃にはテニスはもはや選択肢になかった。
「アルバイト、始めようと思うんだ」
高校入学から二週間が経ち、教室の窓からの見える緑の多い鮮やかな景色にも幾分慣れてきた頃、僕は家族で囲んだ夕食の席でそう切り出した。
「高校生なんだからいいんじゃないか」
プレミアムビールを手酌でグラスに勢い良く注ぎながら、父は穏やかに微笑んでそう同意してくれた。
殊更アルバイトに興味があった訳ではないが、部活に加入しない言い訳として僕は“社会勉強としてのアルバイト”を思いついた。中学の時のヨッシーのように何かに引っ張っていってくれる友人も今のところ出会っていないし、だからと言って今一度部活に熱中したいという願望もなかった。一度はテニス部以外の部活を選んでみることも考えたのだが、高校の部活においては多くの場合中学での経験者が集う。特別にやりたいことがあるならば別だが、僕のような曖昧な動機の未経験者が長く続けられるとは思えない。そのような消去法を経て、高校の放課後を少しでも有意義なものにしたいならアルバイトを始めるのが無難だろうと解を出したのだ。
僕は奥に置かれたサラダ皿を引き寄せ、ドレッシングをたっぷりかけながら
「まだ何にするかは決めてないんだけどね」
と既にほろ酔い加減の父親にはにかんで見せる。この父の表情から得られる感触から、自分の判断は間違っていなかったという安心感に満たされる。いつもは避けがちなスパイシーなドレッシングも今夜は甘く感じた。味覚にまで満足感が伝播しているようだ。
夜のゆったりとした時間に身を委ねて、今日学校で起きた些細な出来事を報告しては父と笑い合う。最近では照れもあってなかなか頷く以外は話すことがない夕食の場が、今は時間を巻き戻したかのように平和的だ。
何のアルバイトをするかなどは後々考えれば良い。父の言質をとった僕はいつになく浮かれていた。
だから、矢を射ったかのように僕の鼓膜を鋭く震えさせた次の言葉には背筋を凍らせた。
「…………………………私は反対よ」




