我執 ⑧
店内に戻るための白い扉を開ける。一見すると軽そうに見えるこの扉は意外と重くうっかりすると手首を痛めそうで酷く厄介だ。右肩を使って体重を少しかけながらゆっくりと開き床に残る境界を越えると、すぐに本屋特有の乾いた紙の香ばしい匂いとBGMのピアノの音に包まれた。
(……………ショパンだっけ)
その曲のタイトルこそ思い出せないが、とてもよく耳にする有名な旋律で、休憩室で今日も軽はずみで人生の終わり時を追体験してしまった僕のがさがさとした心の襞に、それはまるで優しい波が寄せるように馴染んでいく。
BGMは場の雰囲気を壊さないよう十分にボリュームが下げられており、むしろそれが何とも心地良い塩梅で客の滞在時間を延ばしている向きがある。僕は音楽全般に疎いのだが、ここのカウンターで作業している時に身体全体に染み込んでくるようなピアノのシャワーには、ついうっとりと身を委ねてしまう時がある。
『クラシックとは古いという意味じゃない。普遍って意味なんだ』
そういえば音楽好きの父がそんなことを言っていた、と思い出す。今朝も父は相変わらずせわしなく準備を整えると僕とは別段会話をすることもなく家を出て行った。毎日大変そうではあるが、母には「やり甲斐がある」とも話しているそうで、毎朝のドタバタにはどこか羨ましいと思える明るさがある。
(やり甲斐って何なんだろうな………)
僕はBGMと歩調を合わせてレジカウンターへと向かう。次の休憩は谷さんだ。僕が戻らないと彼女は休憩に入ることができない。
道すがら所々で乱れた平置きの雑誌を整えながら、店内をそれとなく見回した。たった一時間の休憩の間にもそれなりに書籍棚に動きがあったのか、通り道の両サイドの文庫棚にも“ゆるみ”が生まれている。僕はその光景を眺めるのが好きだ。本好きはまだ絶滅危惧種ではないと思えるから。
(谷さんに休憩に入ってもらったら、この辺の補充しようかな)
と、帯が外れかけた文庫を手にとる。丁寧に端を折り込んで元の位置に戻そうと前かがみになった時、右眼の端が黒塗りになった。
もしかして視界が欠けたのか?
いや、そうではない。一度瞬きをして眼球だけ左へ寄せ、眼に入ってくる見慣れた景色に安堵する。それでも急な影の出現に僅かに肩を震わせて右を見遣ると、ストレートボブの女性が黒い肩口の膨らんだブラウスから見える白い腕を伸ばして上段の文庫の背表紙に指をかけているところだった。その爪はレモンイエローに塗り潰されている。
「あっ……」
思わず声が洩れる。
少し背伸びをして文庫本を取ろうとする彼女を手伝うべきかと一瞬だけ悩んで、上げかけた手をもとの位置に戻した。きっとこれが一見の客だったら躊躇なく手伝えた筈だ。だが名を知らないとはいえ、わりと目立つ出で立ちの彼女は学内でも駅へと続く街路樹の下でもよく視界に入ってくる“見知った人”だ。それも僅かに言葉を交わしたことのある相手だ。だからこそ礼儀として、彼女の選んだ本を凝視するのは躊躇われた。
彼女は冷たい眼差しで流れるように僕を一瞥すると、一層高く背伸びをして最上段の一冊を手に取る。僕は彼女がバランスを崩さずに目的を達したことに息を詰めながらもどこか喜びを感じ、一人動揺した。
厚底のレースアップブーツの踵を鳴らして彼女がレジカウンターへと向かう。ほら、やっぱりBGMと合っていない。今日も彼女は不協和音を奏でる存在だ。
(ごめん、谷さん。お昼休憩もう少し待っててくれ)
そう心の奥で詫びながら、彼女の会計が終わるまで文庫コーナーの棚を緩慢な動きで整えながら、存在を消すように待つことに徹した。
ようやく僕の右目のさらに右半分が捉えている黒い影がふわりと動いて、その時を待っていた僕も漸くスニーカーの爪先をカウンターへ向けた。と、すぐに黒いチュールスカートが揺れながら近付いてきて、あと50センチの距離で止まる。止まったあとも揺れ続けたいスカートが僕と彼女の間で半円を描いた。
「これ、もらってくれる?」
差し出されたのは今しがた発行されたレシートだ。彼女は一冊しか購入していないので、当然ながら短く、真新しい「文庫 ✕1」という印字が眩しく黒光りする。
「あ、はい」
処分してほしいのだな、と素直に受け取ると、滑らかな筈の表面の凹凸が気になった。
(もしかして………)
急いで紙切れを裏返す。
すると神経質そうな縦長の文字の走り書きがあった。
『結城 莉子』
名前のすぐ下にはSNSのアカウントらしきアルファベットの羅列が見える。
「……………これって……?」
呟きながら顔を上げた時、もうそこには誰も居なかった。急いで店の出入り口の方角に目を走らせると、夏休み中の小学生の二人組が入ってくるところだった。夏休み特有の浮かれた様子で肘を小突きあう男の子の一人がかぶるスポーツブランドのロゴマークがついた青いキャップの向こうに一瞬だけ黒い残像を見た気がした。
店内の空調が切り替わって一層強い冷風が首筋に当たる。ややあって案の定、埃の塊が一つ落ちてきて平積みの文庫本の上に優雅に着地した。
僕はもはや暑いのか寒いのかわからない完全に麻痺してしまった身体をやっとの思いで動かすと、受け取った紙切れをポケットにしまってカウンターに向かった。




