我執 ⑦
(……………Aがバイトしてるとこ見たことないな……)
二切れのカツサンドのうち、少し迷って幾分だがカツが小さい方を手に取り、三角形の鋭角を口に含んだ。数回の短い咀嚼でそれをすぐに飲み込む。すぐさま二口目を口にすると早くもカツに辿り着いた。押し潰されたカツから滲むソースの甘さに酔いながら右手でジャスミン茶をたぐり寄せる。すっかり常温と化したジャスミン茶のペットボトルを今度は左手で掴み、右の親指と人差し指でキャップをゆるめると、はたと時が停止したように手を止めた。
(俺って割とAのこと知らないんだな)
横の椅子に相変わらず鎮座するリュックのファスナーを勢い良く開け、左腕を差し込む。背に当たる部分のモバイル用ポケットから薄いノートを引っ張り出すと、裏表紙をめくり手の平を上下にさするように押し当て裏表紙が戻ってくるのを防いだ。
(………逆に“知ってる”ことって何だろう)
今度は椅子の背にかけたエプロンのポケットを探りシャーペン付きの三色ボールペンを取り出す。だが、取り出したボールペンは赤が飛び出したままで、僕は借り物のエプロンのポケットに染みがついてはいけない、と狭い底を注意深く覗いてそれが大したことのない赤い点であることを確認した。
シャーペンを表す黒い突起をゆっくりと押し下げ、一つ息を吐く。
僕はAについてまとめてみることにした。“まとめる”とは少々大袈裟だが、とにかくAの人生を知るために箇条書きで思い出せることを全て書き出してみることにする。
これからは前世を思い出すたびにここに連ねていけば良い。
ぐりぐりと「・」をノートの一行目に書きながら、左手で残りのカツサンドを頬張った。お茶で半ば強制的に胃へと流し込み、ランチを終了とする。依然、細い窓からの日差しが眩しい。
・Aの名前は不明
・Aには弟がいる 年齢差は不明
・海の見える街に住んでいた
・坂道の上に建つ戸建に住んでいた
・高校には自転車で通っていた
・制服は濃紺ブレザーにネクタイ
ここ最近見た映像から書き込んでいく。とりあえずAの人生における時系列は今は横に置いておこう。それはいずれ年表を作って整理しても良い。
(そういえば大きな犬がいたな………名前は……)
・ココという名のレトリバーを飼っていた
曖昧な記憶を行ったり来たりしながら出来事を羅列していると、あれが脳内でチラチラと何度も浮かんでは消えて酷く不快だ。
仕方なくノートを捲り、まっさらな次の頁の下半分にペンを走らせる。そこには文字が自分の意思とは断絶したかのような滑らかさで綴られ、見慣れた僕の字とは微妙にずれていた。僕は「事」という漢字の縦線に不意にAの面影を見る。
(そう、Aはいつもこんな斜めった字を書いてた)
・Aは高校の卒業式の帰り道、事故に遭って死んだ
・寄り道をしてコンビニでジェッツコーラを買った後に事故に遭った
斜めに字を綴っていると自分の身体も徐々に斜となって気持ち悪かった。
やはり僕とAは別人だ、と再確認してどこか安堵もする。もちろん彼は僕とは別人格なのだが、僕は彼なしには存在しない。つまり、“彼を度々思い出す僕”こそが僕そのものという訳で、佐治凪沙はAと決して切り離すことができないというのもまた紛れもない事実だ。今までもそのことに思い至るたびに人生を二人分背負っているようで息苦しかった。
今もまた、彼の最期について、まさに今際の際の映像をじんわりと思い出すと自然と指に力が入った。指先が色を失う程の力がペン軸にかかり、突如としてずしんとした衝撃とともにシャーペンの芯が盛大に折れて、はっと我に返る。ノートの方々に黒い点が散らばってこの世の果ての何処かに存在する星座のようだ。
ノートを静かにひっくり返した。細かい黒鉛の粒がテーブルの上にぱらぱらと散らばる。
これはもともとドイツ語の前期試験用に使っていたノートなので、表表紙をめくるとドイツ語の単語が並んでいる。まだまだ僕には馴染みの薄い暗号のような文字列を眺めながら、ジャスミン茶を一口飲んだ。鼻の奥まで芳醇な香りが広がって、ようやく僕は落ち着きを取り戻す。
黒鉛の粉を右手で払い、反射的に手が汚れていないか手の平を見つめた時、不思議とあることに気付く。
(………そういえば、Aは左利きだったかもしれない)
見てきた思い出の映像の中にそんな描写はあっただろうか。
いや、ない。
あったのは確かな「感覚」だ。




