我執 ⑤
天井に埋め込まれた冷房の吹出口を見上げる。
羽根の部分の縁にちりちりと揺れる埃が見えた。あれが美しい装丁の上に落ちてくるのは嫌だなぁ、と思いながらひとつクシャミをする。そういえば、幼い頃自宅から徒歩5分の小児科クリニックでアレルギーテストをした時、スギやヒノキとともにハウスダストのアレルギーもあると言われた気がする。
明日の開店前にちょっと掃除してみようかな。
(………でも、それはやり過ぎかな。悪目立ちはしたくないしな………)
レジ周りを乾いたクロスで拭きながら、そんなどうでも良いことを考え、脳内だけで現実逃避をした。
それは今したがた谷さんに不思議なことを言われたからだ。
「え?………雰囲気?」
自分でも驚いてしまうほど素っ頓狂な声が出る。注文ノート上の罫線を指先で丁寧になぞりながら何かを反復している様子の谷さんが、びくりと肩を震わせてこちらを見た。ややあって、小さく笑う。人懐っこい笑顔が、僕の思い出の中の犬に似ている。
「え、今?時差ありすぎなんですけど」
目の前の彼女はなおも笑いながら、それでも店内を意識して少しだけ声を潜める。そして腰に両手を当てると僕の方に身体を向けた。
「あ。やっぱりだ。こういうのって本人は気付いていなかったりするんですよね」
何だか訳知り顔で少し偉そうな態度だ。別に不快には感じないが、もともと彼女に劣等感を抱いているこちらはやはり僅かに萎縮してしまう。
「雰囲気ってさ………そりゃ雰囲気あるって言葉は知ってるけどさ、それって結局何なの?」
僕はいつでもレジ対応ができるよう、身体は店内に向けたままカウンター前で背筋を伸ばした。どこからどう見ても真面目な店員に見えるだろう。僕にはお昼時の手薄なレジカウンターを守る責任もある。だから谷さんには声だけで応対する。
ただ、十分に声を潜めると、谷さんと違って通りづらい僕のくぐもった声は天井からの空調の音に負けそうだ。ちゃんと谷さんに声が届いているだろうか、と不安になった僕は、横目で彼女の様子を窺った。しかし、それは杞憂だったようで、
「うーん………何ですかね。オーラとかカリスマ性……………とかじゃないんですよね。わかります?」
谷さんは僕に向けていた身体を僕に倣うようにカウンターに向けると、何かを噛み締めるようにゆっくりと呟いた。
「わかんないな」
即答する。
「ははっ、そっか。でもね、私は佐治さんの“雰囲気”には惹かれるんですよー」
「全然わかんない」
頭を振りながら再び即答する。
こんな軽い気持ちで決めたアルバイト先で全く理解ができないという事柄にぶち当たるとは思わなかった。本当にこの世の中は、広い。自身の物事に対する認識と他人のそれとの齟齬が心地良いと思うには、僕はまだまだあまりにも未熟だ。
ちなみに、僕の中にある“雰囲気のある人”のイメージは、危険な香り漂うミステリアスさを持ちながら、どこか色っぽい人だ。
対して僕には、確かに前世云々の秘密はあるが、全身を鏡に映してくまなく観察したとしてもミステリアスを醸し出しているとは到底思えないし、ましてや危険どころか安全パイだけを選んで生きてきた人間だ。危険な香りよりもお花畑の匂いが似合いそうだ。色気については言わずもがな、だろう。
「……そんな真剣に考えこまないでくださいよ。嫌でした?雰囲気あるって言われるの」
「別に嫌な訳じゃないんだけど…………それが何なのかよくわからないなーって………」
静かに混乱している僕には、もはや素直な心境を吐露するしか術はない。
「ま、そういう感じも“雰囲気”出してますけどね」
だから、理解不能なことに理解不能のトッピングは止めてほしい。
「あ、倉橋さん、おかえりなさいー」
急に谷さんの声のトーンが上がり、昼休憩を終えた倉橋さんが僅かに眠そうな表情でカウンターに戻ってきた。
「うん、谷さん、お疲れ様。佐治さん、お昼休憩どうぞー」
後ろ手でエプロンの紐を固く結び直した倉橋さんが印象的な大きな瞳で僕に休憩の合図をする。
「あのあの!倉橋さんは、佐治さんは雰囲気あるって思いませんか?」
休憩を回さなければいけないのに、それを谷さんが制して話しかける。僕もカウンターを出ようと踏み出した右脚を止めた。
虚を突かれたような何とも言えない表情を浮かべた倉橋さんが、ふと右斜め上を見上げて何かをカウントするように口唇を動かした。
次いで何故か両手をエプロンのポケットに入れてそのまま黙る。
もしかしたら、全否定されるのではないか。
雰囲気があると言われたい訳ではないが、さすがにそれは皆無だと言われたくもない僕の感情が薄い胸板の下でせめぎ合う。
そんな僕の焦燥感を知ってか知らずか、倉橋さんはポケットに両手を突っ込んだまま一歩後ろへ下がると僕を上から下まで眺めてくる。
………………長い。
この三人の無言の時間が長く感じられて息が詰まりそうだ。
それがあまりにも長く僕が本当に気が遠くなりかけた時、倉橋さんは大きく瞬きをしてから、にやりと笑った。
「…………………あるね!」
そうきっぱりと言い切ると、谷さんと片手でハイタッチをして笑う。「ですよねー」と言う谷さんは、彼女にしては珍しくお客さんの存在を忘れているかのようなはしゃぎぶりだ。
この狭いカウンターの中で、終始僕についての話題が織り成されているのに、僕のまわりだけ一人疎外されてしまったような空虚なムードが漂う。居た堪れなくなった僕はパソコンの打刻システムの「休憩」ボタンを急いで押すと、こちらを見ない二人に会釈しながら中腰を保ってそそくさとカウンターを出た。
カウンター横には人気作家のエッセイの新刊を告げるポスターが貼られていた。そこに広がる作家先生の青春時代を過ごしたらしい風景の写真に少々既視感を覚えたが、早くバックヤードに戻りたいという逸る気持ちがそれを脳内から振り払う。
ポスターの前を通り過ぎる瞬間に目の端で捉えたそのエッセイ本のタイトルは「横浜生まれ、海風育ち」だった。




