我執 ④
「佐治さん、フェアの文庫のPOPつけてきて」
倉橋さんに声を掛けられ、僕は急いで釣り銭用の10円の棒金を崩すとレジのドロワーを閉めた。
「はい、わかりました」
右手を伸ばしてカラフルなPOPの束を受け取ると、倉橋さんが首を伸ばして僕の背を見ようとする。
「倉橋さん?」
「あ、やっぱり。エプロンの紐ほどけてるよ」
彼女に指摘されて左手を後ろにまわせば、腰の位置にあるはずの結び目が見当たらない。僕はPOP束をひとまずカウンターに置くと、はぁっと息をついてから今度は固く結び直した。最近、うっかりミスが続いていて自然と溜息が洩れてしまう。
8月に入り、僕はアルバイトに精を出していた。夏休みは僕のような学生バイトがシフトを埋める分、社員さん達が順番にまとまった休みを取る。この世とはまったくうまく噛み合うようにできているものだな、と唸りたくなる。ただ、連日の出勤で疲れが出始めているのも事実だ。気を引き締めなければならない。
そう言えば、倉橋さんの就職活動はどうなったのだろう。既に内定をもらっていることは知っているが、その後の公務員試験の結果はでたのだろうか。今や大学に入学した瞬間から就職のための活動を始める者も珍しくはない。サークル選びから、有名ゼミへの参加、ボランティア活動、インターン…………とやるべきことは枚挙にいとまがない。そもそも就職活動は大学名と学部を選ぶ段階から始まっているのだ。そう考えてみると、就職活動は高校時代にスタートしていると言えるかもしれない。いや、希望大学の難易度に手が届く高校に進学するには、それ相応の中学、そしてその中学を目指して小学生の時分から塾通い。そうか、究極的には就職活動はこの世に生を受けた瞬間から始まっているのだ。
そんなくだらない悟りを得ながら、僕は右手でラミネートされたPOPの束を持ち、左手でシルバーのPOPスタンドをがちゃがちゃと掴んで、平置きの文庫エリアへ向かう。左脇にはセロハンテープカッターを挟んでいる。少し気を抜けばそこそこ重量のあるテープカッターが足の甲へ落下して怪我をするだろう。そんなミスはしたくない。
僕は肩と二の腕に最大の力を入れ、当然ながら決してお客さんを傷つけることもないよう慎重に歩いた。
夏休みなので各出版社恒例の100冊フェアが最前で展開されているのだが、僕の目的地はその横の少し狭めの文庫棚のエンドで展開されている悠誠堂書店オリジナルのフェアだ。
ちょうどこの辺りにお客さんがいないタイミングを見計らって僕はそっとしゃがみ込む。夏のエアコンの冷気の層に浸りながらPOPスタンドの準備をした。エアコンが効いた夏の本屋はとても心地良い。
そっとセロハンテープを床に置いた時、
「あ、佐治さんだー。お疲れさまでっす」
後ろから声を掛けられた。声量は落としているがクリアなよく通る声質なので、離れた所にまばらに広がるお客さんにも聞こえたかもしれない。
すぐに声の主に気づいた僕は、振り向いて、
「お疲れさまです。今から?」
と見上げると、そこには先週からアルバイトに入った谷さんがいる。
「そう。もう12時ですよ。今日のお昼休憩、誰からですかね?」
「………あ、倉橋さんかも。俺は1時からだから」
手早くPOPをスタンドに挟み、見栄えのするよう右、左と位置を調整する。
谷さんは僕にぴったりとくっつくように並んでしゃがみ込むと、スタンドクリップに挟まれたPOPの裏面にセロハンテープを貼り固定してくれた。
彼女は僕と同い年ながら、しっかり屋といった印象で動きも常にてきぱきとしているばかりか、“今、何が行われていて、何を求められているか”という状況把握能力が頗る高い。ここで働き始めてまだ10日だというのに、既にスタッフの多大な信頼を勝ち得ている。今朝も朝礼のあとに店長が「谷さんの伸びしろはすごいね」と倉橋さんに話してかけているのが聞こえてきた。
そのせいだろうか。僕はこの10日間、彼女とシフトがかぶるとどこか引け目を感じて、せっかくのやる気が少しだけ削がれる。だが、これは誰にも内緒だ。
任された作業を全て終え、谷さんとカウンターに戻る。既に倉橋さんは昼休憩に入っており、店長ともう一人、社員の山口さんがレジを守っていた。山口さんは僕達を認めると
「二人にレジ任せていいかな。谷さん、1時まで倉橋さん戻ってこないけど、佐治さんに訊けば大丈夫だから」
僕のどの部分が“大丈夫”なのかはわからないが、褒めてもらえたようで素直に嬉しいと感じる。
「はい、佐治さんといると安心します」
そう答える谷さんは本当に如才ない。
僕はそんな彼女にお返しをするつもりで
「谷さんにはもう追いつかれましたよ」
と笑いながらテープカッターを作業台へ戻した。
山口さんは「なかなか良いバディになってるんじゃない?」と微笑みながら店長の背を追って後方の事務所へ小走りに消えていった。
暑い時間帯のお客さんはまばらだ。やはり皆日が落ちる頃を狙うのだろうか、ここのところ夕方の方が客数が多い。確かにうだるような暑さでは頭が働かないし、家を出る決心もつきにくい。
(今日もしばらくはこんな感じかなぁ)
僕はのんびりと谷さんと並んでレジを守ることに決めた。
しかし、谷さんは早速カウンターの下から緩く三つに折られた包装紙の束を取り出す。その束は、見た目はそれほど厚くもないのだが相当な重さがあることを知っている僕は、急いで少し腰を落とすとその端を支えた。
「ありがとうございます。紙って重いですよね」
「本も見た目より重量あるよね。もしかして包装紙切るの?」
「小さいサイズが少なくなっているみたいなので、今のうちに用意しちゃいましょう」
彼女が視線だけで、後ろの作業台の棚に大中小と仕分けされているラッピング用紙を示す。
「あ、ほんとだ。よく気づいたね」
「たまたま見えただけですよー」
屈託なく谷さんが笑う。
仕方ない。一人だけ、のんびりを決め込む訳にはいかなそうだ。どうやら文庫本を包む時に重宝する「小」サイズがあと数枚しかないようなので、僕もそのサイズに切り分けようと大判の包装紙を開いた。
横で谷さんが小柄な身体を右に左に動かしては小サイズを量産していく。
谷さんこそ人生を何周かしているのではないかと思うほど、動きに隙がない。
今だって常に笑っている訳ではないのに、用紙をカットしている今もどこか微笑みの欠片をその顔の隅々に湛えていて、たまにこのカウンターにやってくるお客さんに対してあからさまな表情の転換を行わない。その遷移はとても自然で叙情的だ。きっと彼女は不必要に他人に不快感を与えず、それどころか周囲に好意を抱かせるタイプだろう。それなのに少しだけ気後れしている僕の胸は、今、膨れあがる罪悪感で押し潰されそうに痛い。
そうだ。ただ一つ不思議なことがある。
それはやけに谷さんが僕に対し友好的なことだ。ちなみにその接し方の中に恋や愛だのといった甘酸っぱい感情は微塵も感じられない。その点に関しては流石の僕も寂しさも覚えたりする訳ではあるが、恋愛ではない種類好意でも勿論嬉しくもある。
ただ“なんでだろう”という思いは、ここのところ連日顔を合わせる彼女に対して日ごとに膨らんでいた。もしその解を得るとしたら、今が抜群のタイミングだろう。
「ねぇ、谷さん、なんで俺に優しいの?」
「ん?……私、優しいですかね?」
手を止めずに彼女が顔を上げる。手元のカッターを見ずに用紙を切る姿は確かに器用なのだが、少しひやひやする。
「優しいっていうか、最初っから距離近めだよね」
「ああ、それですか。嫌でした?だったら謝ります。ごめんなさい」
と、冗談めかして顔を大袈裟に曇らせるのだが、その表情が形容できないほど歪で滑稽で、僕はつい笑ってしまう。
「全然。謝んなくていいし。ただなんでかなって思ってて。誰か身近な人に似てるとか?」
僕は棚の中の小サイズの用紙と今切り終えた束を合わせてトントンと揃えながら核心に触れてみた。
彼女も綺麗な切り口の束を両手で差し出しながら
「別に家族や友達に似てる人とかいないですよ。なんていうのかなぁ………なんか佐治さん、“雰囲気”あるんですよね」
谷さんは、大した意味などない、とでもいう風に軽やかに言うと、カウンターの上に少し残った切屑をしなやかな右手で払う。そしてレジ下の鍵付きの引き出しから注文ノートを取り出して「今日、数原さんが頼んだ参考書が入荷したんでしたっけ?」と誰に訊くでもなくただ呟いて指先でページをなぞった。
(雰囲気……………が………ある……?)
僕だけが、急に無重力の宇宙に放り出されて、ただ行く先も知らず漂っているような気分だ。




