我執 ③
(…………Aには弟がいる………)
ちらちらと青い葉の隙間から光が射して、足元の陰った歩道の上にプリズムのような不思議な空間を創り出す。そのうちの一つの光のブロックを何となく白いスニーカーの爪先で追いかけながら、僕は数分前にふいに現れたワンシーンを反芻していた。
ふと脳裏の片隅で何か重要な事実がしばし明滅しては消えた気がするが、僕はそれが光っている刹那とも言える時間内にそれが意味する真実を掴むことはできなかった。
だが、この僕を脳内の反対側で腕を組んで俯瞰しているもう一人の僕がそれを“重要事項”と直感していることはわかる。
(なんだろう………?)
まだピースが足りないのかもしれない。当たり前だ。僕はまだ19歳になったばかりだ。このたった19年という短い期間の中で常時前世を“観ている”訳ではないのだ。Aの辿ってきた人生を知るには圧倒的にピースが足りない。
ル・コルビュジエの建築物が見えてきた。
悟と宮っちは先程からずっと「今年こそ日傘を買うか否か」論争を繰り広げていたのだが、国立西洋美術館が見えてくると二人同時に「おっ」と声をあげて急に色めき立った。
ところで、実は僕は元来、美的センスというものに自信がない。いや、自信がないという言い回しは自身に対する言い訳のようなもので、実際に美的センスがあるかどうかとは別物だ。だから、そのような逃げ道のある言い方はやめよう。そうなのだ、僕には元来、美的センスがない。これが正しい。
今まで、計算や暗記物のテストなど答えが明確で明瞭なものはわりと得意だった。いつも成績も上々だった半面、美術、音楽、時に国語の読解は難解に感ぜられてきた。定期テストで主人公の心情理解の設問があるたびに、そんなもの主人公にしかわからないのだから問うてくるなよ、と内心憤怒しながらも、その実、変なところで要領だけは良いので、前後の比喩表現や行動の描写などを拾い集めて良い落とし所を探った。結局のところ国語も解法テクニックさえ習得すれば何とでもなると感じたのはそれから間もなくだが、やはり心のどこかでは「それが本当に主人公のその時の気持ちなのか」と疑い続けていることは否定できない。
そして美術や音楽に至っては全く歯が立たなかった。学校教育で取り上げられる範囲ならば何とかこなしてくることができたが、学校外で聴くことも多かった父が好きなクラシックや、母と観る機会のあった絵画についてはすべからく上手く言語化できた試しはなく、ただ「素敵だね」の一点張りで押し通してきた。実に「素敵だね」は使い勝手の良い言葉だ。だから今日、もし西洋美術館や国立博物館に入館する流れになったら、その時は「素敵」の大放出が待っているのだ。
そんな芸術音痴の僕の足が止まった。
そよそよと葉陰を揺らしていた風も凪いだ。
美しいものは美しい。それを実感することができるぐらいの感性がどうやら僕にも宿っているらしい。
眼前のおよそ自然界には存在しないシャープな切れ味鋭い四角い箱は陽光を反射する壁面も浮世離れしている。いや、むしろリアリティと理想の融合か。
ああ、これを正しく言語化できない自分が今こそ恨めしい。
そして、今、曲がりなりにも建築を学んでいる立場であるにも関わらず、僕にはこの建物を理解するに足り得る知識がぽっかりと欠落しているという紛れもない事実に、言いようのない恥ずかしさで身が縮む思いだった。
多くのカメラを構えた観光客が、美術館を被写体として傍から見れば半ば滑稽な動きをしながらシャッターを切っている。長い時間しゃがんだ結果右脚を痛めたのか膝に手を当てて苦悶の表情を浮かべる者、身体ごと大きく横へ傾けてつい隣に立つ他人にぶつかりそうになる者、世界遺産を背に思い思いのポーズを取りながら大笑いで記念写真を撮る者もいる。
僕もこの内なる“恥”の感情を写し取るようにスマートフォンのレンズを向けた。連写などという陳腐な行為は不敬にあたる。僕は両手でしっかりとスマホを固定しながら、一枚一枚念を込めるように撮影した。
「…………………美しいな」
背後から宮っちの低い声がする。
僕は振り返らずにただ首肯する。
違う角度からも見てみたい、と人にぶつからないよう細心の注意を払いながらスマホとともに横へスライドした。
スライドした先には悟がスマートフォンを持った腕をだらりと下げて美術館を見上げていた。
「これは中を見ないで帰る訳にはいかない」
誰かに呼びかけるにしてはとても小さく、隣の僕にも耳を澄ませなければ聞こえないぐらいの声量で悟は呟いた。求められていなくとも、僕は悟の肩を軽く叩いて大きく頷いた。
きっと今日の美術館の中で僕は「素敵」を連呼しない。
振り返れば駅の方角に見えるいくつか建ち並ぶビルの上に雲がちらりと見えた。いや、あればビルではなくて高い木々の群れかもしれない。すっかり我が物顔の太陽のせいで眩しく、すっと目を細めていると、薄茶の鳥が何羽か連なり暗雲から逃げるように飛んできては驚くほどのスピードで頭上を越えた。
今朝の天気予報では夕方頃に俄か雨のおそれありと字幕が出ていたが、その時間は早まるのかもしれない。
そうだ、日傘論争をしていた二人に言ってやろう。
「晴雨兼用なら、俺も欲しいな」
あの雲が流れ着く先を僕等は誰も知らない。




