我執 ②
店を出るとむわっと飽和状態の熱の渦に巻き付かれた。熱気のカプセルの中で溺れているような気分になる。
「んくっ」
すぐに気管を塞がれたような苦しさを覚えて咳払いをした。
「どした?」
悟がグレーのボディバッグからミネラルウォーターを出して差し出してくれる。彼は他人を自らのエリアに招き入れて途端に飼い慣らしてしまうところがあるが、それ以前に人をよく観察し、いつだって気の遣える人だ。
僕は右手を軽く挙げて彼のボトルを辞退すると
「ありがとう。ちょっと外の暑さにびっくりしただけ」
喉に手を当てて外気の熱量と体温を馴染ませようとした。
「オレも水持ってっから何かあれば言えよ」
宮っちも両手を後ろへ持っていくとリュックのサイドを軽く小突いて僕に笑いかけた。
「ありがと。でも……実は俺も水持ってる」
「なんだよ、ナギ。わざわざ水出して損したわ」
冗談めかしてボディバッグのファスナーをギッと音を立てて勢いよく閉めた悟も笑顔だ。
見上げれば、空に果てなどないのだと信じられる青さで、太陽に纏わりつく白みがかった光が街全体に腕を伸ばす。
上野はこんなにも有名な街なのに、高層ビルがあまり見られず空が広い。僕はそれだけで深呼吸できそうな気がした。少し前に喉に巻きついた熱風はとうに僕の体温と同化している。
僕等は上野公園を北へ向かって歩いた。やはりここまできたら国立西洋美術館は見ておきたい。科博に寄るか、国立博物館まで行ってみるかは追々考えよう。
至る歩道の幅の広さに気が大きくなって三人横並びに歩く。太陽が南中に近づき短くなった日陰を歩けば後々の疲労感が軽減されることは皆分かっているのに、誰も歩道の端へ寄ろうとはしなかった。
「…………なんだか」
ちゃんとわくわくするよね、と、そう口にしようとしたところで、バチンと画面が切り替わった。
『お兄ちゃん!』
甲高い悲鳴のような呼びかけに僕が振り向くと、水色と白の半袖ボーダーTシャツに身を包んだ幼稚園児ぐらいの男の子が蝉の脱け殻を二つ小さな手の平にのせて差し出してくる。その子のベージュのパンツの膝は転んだのか泥だらけだ。
男の子の向こう側、こじんまりとした庭のような場所の奥には満開の百日紅が見える。ぼーと聞こえる低い耳鳴りが気になって耳朶を指先で引っ張るが消えてくれない。
男の子は蝉の脱け殻を僕の白い運動靴のつま先の前に恭しく並べると、百日紅の前にあった手洗い場の蛇口を勢いよく捻った。
蛇口の出口を両手で押さえつけて、豪快な水飛沫を飛ばしては大きく口を開けて転げそうになるほどに笑う。飛んできた水滴が僕の前髪と頬を濡らして、僕も彼によく似た笑い声で身体を揺らした。
目の前の虹色の光も僕達の笑い声とともにゆらゆらと揺れる。時折、虹色が集まって白く輝く空がとても綺麗だと思った。
古い映画のようなぎこちないつぎはぎの場面だった。見たのは一瞬だ。時間にしたら数秒だろう。
「ん?ナギ、どした?」
その数秒で足並みが乱れた僕を悟が振り返った。
「…………別にどうもしてないよ。暑いなぁって思っただけ」
「ふーん…………あ、そうだ」
悟が胸の前で祈るように手を合わせる。それを横目に僕はリュックを前に抱き直し、すっかり常温となったミネラルウォーターを口に含む。それでも低体温の僕の肌よりは若干低い温度の水は、いつもより柔らかくて喉への馴染みも良くどんどん飲める気がした。これは喉が渇いていた証なのだろうか。
「あとで、かっぱ橋行きたいんだが、行ってくれん?」
悟の突然の提案に、もはや僕等は驚かない。
「かっぱ橋って道具街の?」
リュックを背に背負い直して僕は問う。
「そう、鍋が欲しいんだよね、カレー用の」
「いいんじゃないか?こっから歩けばいいじゃん。歩くのが目的のサークルなんだからさ」
そう言う宮っちは寛大だ。もちろん僕とて不満はないが。
「そういえば、サークル申請出した?」
それよりも気になっているのはこちらの方だった。このサークルは果たして“公式”になるのだろうか。別に大学にお墨付きを頂きたい訳ではないのだが、ある程度の自分の立ち位置は知っておきたい性分ではある。
「ナギ…………出してるわけないじゃん。どう見たって人数足りないだろ。申請書をもらってすら、ない」
「え、うちの大学って人数の条件ないだろ?入学の時に勧誘されたとこ“今は一人だけでやってる”って言ってたぞ」
宮っちが大きな右手を翳して目許に日陰をつくりながら口を尖らせる。僕は、宮っちは背が高い分太陽に近くて暑そうだ、とどうでもいいことをぼんやりと考えてながら、背中が汗ばんでいることを少し気にしていた。
(今日は特別暑い気がするな)
僕は眩しさと暑さの連続に眉を顰めながら
「そうなの?ああ、なるほど。つまりは悟、面倒くさくなってきたんだろ、申請が」
そう悟に水を向けると
「……まあ、それもある。ちょっと調べたら、活動費もらったりすると、ちゃんと収支報告とか出さなきゃいけなくって。俺、会計とか苦手なんだよね。ナギが全部やってくれるならいいけど、さ」
と反撃を食らった。
会計か。数字が苦手ではないが、小学生の頃のお小遣い帳とは訳が違う。きっと煩雑な手続きがあるだろう。しかも悟のことだ。会計を承諾したら、そもそもの申請書の作成やいずれ発生するだろう活動報告まで全て任せてきそうだ。何故なら、宮っちからはバイト続きで“時間の捻出が難しい”オーラか放たれているからだ。消去法でも何でもなく、この人数ではすぐに僕に落ち着くのは目に見えている。
少々の煩悶のあとで
「………………うん、認可を得るのはもっと人数集まってからにしようか」
僕もそう言って両手を掲げて日差しを遮った。
「ナギも案外、面倒くさがり屋なんだな」
にやりと笑った悟には僕の心の裡が見透かされているようだ。
「なぁ、かっぱ橋の話はどうなった?」
宮っちが木陰を求めて少しずつ僕達から横道の方へ離れて行きながら、大きく呼びかけてきた。はなから彼はこの活動が“公式”であるかないかには興味がない。
「行く、行く。俺はどうしても良いカレー鍋が欲しいんだー」
悟は半ば叫ぶように声を張って宮っちを小走りに追いかける。
「そんなかさ張るもの買って、帰りの電車で泣き言言うなよな」
僕はそう言葉を放つと、一度駅の方を振り返ってひゅっと息を吸ってから、二人が逃げ込んだ木陰に向かってゆっくりと歩を進めた。




