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我執 ①

前期試験の最終日の翌日、午前10時に悟と宮っちと僕は上野の駅前のカフェにいた。外は突き抜けるほどの快晴。ブラインド越しに見上げた空に雲は一つも見当たらない。試験を終えた僕の気持ちを表したような青空に自然と心も弾む。

今日は街歩きサークルの初回決行日だ。

悟がサークル内容を提起したのは6月下旬、それから今日まで約ひと月かかってしまったのは、僕等にとって初めて経験する大学の試験というものがあまりにも未知だったからだ。既存のサークルに参加していれば先輩達からの情報収集、それは傾向と対策も含めた効率的なものや更には過去問なども手に入り、一年生とて何らかのの心構えもできよう。しかしその流れから外れてしまった僕達は、とにかくレポートの類は期限よりだいぶ余裕をもって提出することにし、試験日にはその試験以外のことには微塵も憂いがないよう心掛けるほか術はなかった。一度、“街歩きサークル”という浮足立った存在はそれぞれの脳内の彼方に追いやることにして、僕等は図書館に日参し、久し振りに学生らしい勤勉なひと月を送った。

その甲斐があったからか、手応えという程の出来ではないとしても、少なくともどの科目も平均点は確実にとれているだろうという程度の達成感は得ることができた。

ああ、1ヶ月を有意義に使えて良かった、おかげで今日からの夏休みを楽しめる、とアイスカフェラテの心地良い冷たさを楽しみながら僕はぼんやりとブラインドの向こうの景色に思いを馳せた。


「で、どこから行ってみる?」

悟が親指でスマートフォンの画面を素早くスクロールしながらその他二人に問いかける。

僕は依然カフェラテを味わいながら、宮っちが悟の問いに答えるのを待つ。

「そうだなぁ」

宮っちは腕を組んでシーリングファンの回る天井を仰ぎ見た。しばしの沈黙が訪れる。だが、不安な気持ちにはならない。

(そういえば宮っちはなんでサークルに入らなかったんだっけ……?)

相変わらずぼんやりとそんなことを思いながら、僕も腕を組むと気怠く回るプロペラを見つめた。

(ああ、そうだ)

宮っちの場合はバイトに精を出したいがためにサークルには入らなかったパターンだ。何か必死に稼がなければならない理由でもあるのだろうか。出会ったばかりの頃はそんなことも考え、その事情でも探ってみようかとタイミングを窺っていた時期もあったが、“たまたまできた他校の彼女と頻繁に会いたいがため”という誰もが納得できる理由を彼の方から自然と知る機会があり、僕はどこかほっとした。危ない。うっかり他人のセンシティブかもしれなかった事情というものに首を突っ込みかけた。己を省みれば、確かに自分には知られたくないことが存在するのに、それを棚に上げて他人のエリアには野次馬的に踏み入ろうとする。あの日、彼女とシフトを合わせたバイトへ宮っちを送り出したあとでそう振り返って自らの下劣さに吐き気がした。


結局、悟と僕に誘われるがままに宮っちはこのサークルの構成員となった。傍からみれば彼と彼女の恋愛における熱量には少々差があるようで、彼女の莉子ちゃん(と宮っちは呼んでいる)は学業優先らしい。今回の初試験期間にもゆとりを持って臨みたいがためにしばらくアルバイトも休んでいるそうだ。ちなみに、宮っちはそのシフトの穴を埋めるのが彼氏の責任だと、試験期間も連日のようにアルバイトに出かけていた。今日は彼にとって久し振りの休日だが、莉子ちゃんはまだ試験中であるため会うことはできないそうだ。

何となくアンバランスのような二人がこのまま上手くやっていけるのか、僕は既に懐疑的ではあるのだが、それこそ余計なお世話というものだ。「歪な切り口の方が味がよく染み込むのよ」といつか母が煮物を作る時に呟いた言葉がふいに浮かんでは消える。


宮っちは大きな身体を小さな椅子の上で窮屈そうに左右に揺らしながら

「あ、科博は?国立科学博物館ってこのへんだよね。オレ、小学生の頃はよく恐竜博来てたよ」

とこれまた小さなテーブルに両腕で頬杖をついて僕を真っ直ぐ見つめてくる。これは援護射撃を求めている眼だなと直感した僕は

「俺も行ったことあるな。今、展示は何やってんだろ。夏は恐竜ってイメージがあるけど」

悟がそうしたようにスマートフォンの画面を親指で動かす。ところが、検索窓に“科博”と入力したところで右から手の平の影に遮られた。

「ナギっ!ちょいちょいちょい待てよ」

悟の左手だった。

僕のスマホ画面の上に精一杯開いた手の平を翳して視界を遮ってくる。あまりに勢いよく手を差し出してくるものだから、僕の前のカフェラテのグラスが軽く揺れた。外側の滴がグラスの溝を辿ってテーブルへと落ちる。

「恐竜じゃないだろ、上野って言ったら国立西洋美術館だろ。世界遺産忘れんなよー」

悟が両腕を広げながら大袈裟な呆れ顔を作ってアピールしてくる。

「ああ、ル・コルビュジエね。もちろん忘れてないよ。やっぱ外せないよね。国立博物館もあるけどそっちはいいの?」

空気を読んで間髪入れずに悟にもフォローを入れる僕は昔から変なところで要領が良い。

「建築学科の学生なんだから、まずは西洋美術館だろ。だから記念すべき第1回目の街歩きを上野にしたんだ」

「え、そうだったの?俺はてっきりパンダ目当てだと……」

「ナギ……。知らないのか?もうパンダいないんだぞ……」

そう言いながら肩に手を置いて項垂れる悟に僕は「えっ!」と声をあげて驚く。

今度は悟のカフェモカのグラスが音を立てる。

(えー…………パンダ、いないのかぁ)

そういえばそんなニュースを見たような気もする。東京生まれ、東京育ちでも中々パンダにはお目にかかれない。せっかくの上野だから、と心のどこかで期待していた僕はまだまだ子どもなのだろう。

「でもさ、それぞれ展示をまわってたら今日一日じゃ足りないんじゃないか?」

相変わらず頬杖をついて僕と悟の顔を交互に見ていた宮っちがもっともな疑問を呈する。

「そりゃあ、いちいち中に入ってたら時間もかかるよ。でも俺等は今日“街歩き”をするんだから、ぶらぶら建物だけ見ながら歩けばいいじゃん」

悟が氷が溶けて水っぽくなったアイスカフェモカを一気に飲み干し、若干上目遣いで話をまとめにかかる。特に押し切りたい意見もない僕は、そんな彼の案に乗ることにする。

正直なところ、僕はそれほど街歩きに興味はない。日頃から散歩や散策の趣味はなく、この世は自宅と大学とバイト先のトライアングルの世界で間に合っていると言い切っても、あながちそれは嘘ではない。だが、前世でも未体験のせっかく訪れた大学生活なのだ。今は、特に興味のないことでも足を踏み入れてみたい気分だった。その結果、たとえ後戻りできない事態になっても構わない。


そうだ。

この時は本気でそんなことを思っていたんだ。


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