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『佐治 恵美子』の忌避 ①

(……………コーラ、飲みたい………)

ミーティングルームを出ながら私は両腕で思う存分伸びをしてそう思った。伸びをしたままの腕をゆっくりと下げながら自販機が設置されている休憩スペースへと足を向ける。

そこは既に淡い黄みがかったオレンジ色に染まっていた。

誰もいない。

窓のブラインドの規則的な隙間の先では、夕暮れの太陽が何分割かされてその姿を主張するように光の腕を方々に伸ばしている。

ブラインド程度でこの季節の太陽のその強い光の帯びを遮ることはできようもない。私は少し目を細めながら壁面に並ぶ自販機へと歩みを進めた。

(……………………………………………)

薄いボタンを左から右へとなぞるように触れると、まるでピアノの鍵盤に触れたような心持ちがする。右端のボタンで手を止めて一拍おいて溜息を洩らす。

どうにも疚しさは拭えない。

意を決して指先に力を込めると、ボタンが黄緑色の点滅を発した。西日のせいで見えづらい。私は本当にこのボタンを押したのだろうか。半信半疑に決済パネルに交通系ICカードをかざす。

1秒もかからず自販機がゴトンと小さく揺れて、確かにボタンを押していた証が落ちてくる。

長丁場のミーティングですっかり固まった腰回りを気にしながら屈み、取り出し口から冷えた缶を取り出した。

「……………ジェッツコーラ」

言葉にしてみる。

これは私が学生の頃、鳴り物入りで発売されたコーラで当時の若者がこぞって買い求めた。

それは虹色のマーブルがデザインされたパッケージが特徴的で、ある種の野暮ったさと紙一重の絶妙なお洒落さがただの飲料としてではなくファッションアイコンとして広く受け入れられた感があった。

私は両手で350mlの缶を包み、しばし心地良い冷たさを味わうと、あまり音をたてないようゆっくりとプルトップに指をかけた。

この休憩スペースには私の他には誰もいないのに、音を気にするなど何とも滑稽だ。それでもこれはこのコーラを隠れて飲む時の最低限のマナーのようなものだ。

(それは誰に対してのマナー?)

そう自問し自嘲気味に笑う。えいっと指先に力を入れれば、プシッと空気が小気味良く飛び跳ねる音がした。

コーラが空気に触れる前に急いで飲み口に口をつける。

(それは凪沙に対してのもの………)

二口目、三口目と続ける。きめ細かい泡が薄い口唇の皮膚を震わせる。右手で包んだ冷たい缶と共にそのまま窓側まで進むと、半分程を一気に飲み込んだ。

瞬時に甘い炭酸が身体中を満たす感覚に酔う。遅れて少し噎せ、口で小さな呼吸を繰り返す。

ブラインドの横のだらりと下がった小さな白い玉の連なりが何とも魅惑的だ。

「………美味しい………」

後味と喉を通った冷たさの余韻に浸りながらつい感嘆の溜息を零す。


今日は一人息子の凪沙の誕生日だ。

彼は20時までアルバイトがあるが、自宅から二駅しか離れていない駅ビルだから20時半過ぎには帰宅するだろう。片付けに手間取っても21時には戻るはずだ。

夫も最近は新部署の部長として、多方面への根回しや新しいメンバーとの面談が続き定時では帰れない日々が続いているのだが、今日は息子の帰宅時間に合わせて21時までには家に着くよう念押ししてある。

私といえば、このミーティング後に今日中に終わらせなければならないような業務は残っていない。

このままオフィスの自席へ戻り簡単に片付けをすれば帰宅の途につくことができる。

帰り道に有名なパティシエが開いている店に寄り、先週予約したホールケーキを受け取ってから、お気に入りのワイン専門店で記念日に相応しいワインを選ぶ。最後に花屋で注文済みの花束の出来をチェックして、家に着いたらすぐにダイニングテーブルのガラスの花瓶に生けよう。そして、凪沙の帰る頃合いを見計らって彼の好きなラザニアをオーブンで焼き上げ、その間にシーザーサラダを手早く用意すれば、準備は完了だ。

きっと全てがつつがなく進み、今日の誕生日ディナーは団欒のうちに終えることができるだろう。


冷たかった缶がぬるくなり、軽くなる。

飲み干したことで、会議中から気になっていた空腹も十分紛れた気がする。

私は指先に力をこめて少しだけボディを潰す。ぺきっと乾いた音がしたそれを自販機脇の青い缶入れの丸い穴にくぐらせると、いくつも重なる缶が私の放った一本の缶の重さで崩れる音がした。

私は目を閉じて、この見えない青い箱の中で金属製のピラミッドが崩れる様を想像し、身震いする。ああ、きっとコーラのせいで体温が下がったのだ、と見当違いな答えを用意して、一つ頷く。

分かっている。

この罪悪感は隠れて飲むコーラのせいだけではない。


私は最後に乗せた一つの積み木で簡単に崩れる脆い関係というものを身をもって知っているのだ。

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