忌避 ⑩
「今日はずいぶん早いじゃん。いつもオレより後に来んのに」
宮っちが悟の右側の席を倒しながらそう言って笑う。斜めに掛けたやけに大きい黒のショルダーバッグには大して入っていないのか、彼はひょいと右手で頭をくぐらせると机の上にふわりと置いた。朝の軽やかな空気を吸って一瞬膨らんだ黒い袋をわざわざ彼は両手で上から押さえて、潰す。
そして大柄な身体を滑り込ませて悟の隣に座った。このような階段式の造り付けの座席は、手足の長い宮っちには大層窮屈そうだ。
宮っちこと宮下雄太とは最近仲良くなった。
きっかけは先々週のドイツ語の授業だ。
そもそも同じ学科であれば一年次は必修科目が多いために大体どの教室でも顔が合う。名前こそ知らなくとも見知った顔は最近ちらほらと増えてきてはいた。ただ宮っちは別格だ。最初に見かけた時から彼は目立つ存在だったからだ。
190を超えようかという身長、骨太な骨格にベリーショートの金髪。歩いている時は勿論、彼がどこに座っていようと僕はすぐに見つけられた。いや、“見つけた”訳ではなく、いつだって“目を引かれた”と表現する方が正しいのかもしれないが。
見かけだけではなく、彼はドイツ語の音読でも人一倍目立っていた。第二外国語のドイツ語のクラスは初心者だった筈なのだが、宮っちは滑らかで力強い発音を毎回披露していた。巻き舌が苦手な僕などは、習いたての短文を更に短く切りながらたどたどしく単語の羅列をなぞるだけだったが、宮っちから発せられる音声はちゃんとドイツ語だった。僕といえば、できれば彼の次には当ててくれるなよ、と毎回のように教壇に立つ准教授に心の中で手を合わせて祈るほどだった。
先々週も、悟などは「もしかしてドイツ帰りの帰国子女なのかなぁ?」と僕の耳元で囁いていた。僕は少し首を傾げてそれに応えたが、確かに可能性はあるな、と教室に響くちゃんとしたドイツ語に感嘆のため息を洩らした。隣で悟が「帰国子女かどうか、後で直接訊いてみようぜ」と再び囁く。おいおい、せっかく美しいドイツの風を感じているというのに無粋じゃないか、君、という今の僕の気持ちを最大限に表した表情をきめて悟を横から見つめると、何故か彼は小さく吹き出して肩を震わせた。
あとで聞いたところによると、宮っちは帰国子女ではなく、ドイツ語も初めてだそうだ。ただ、耳から入ってくるお手本の発音を真似るのは得意だそうで、昔からリスニングとスピーキングで外国語を乗り切ってきたそうだ。
「でも文章書いたり単語の綴りとかは壊滅的に苦手なんだけどね」
初めて横並びに座った日にそう話した宮っちは、僧帽筋が発達した筋肉質な広い肩を縮ませて謙虚と照れの混じった笑い顔を見せた。
「あ、おはよ、宮っち」
初めて言葉を交わした日から悟は彼を宮っちと呼んだ。すぐに僕もつられて“宮っち”と呼ぶようになった。
宮っちは大きな右手を小さく挙げて応えてくれた。
「やあやあ、宮っち、聞いてくれよ」
得意気な悟が背もたれに悠然ともたれて両腕を開いてポーズをとる。
きょとんといった風情の宮っちに
「新しいサークルを悟が考えたって言うから、早めにきて話してたんだ」
僕が簡単に説明する。
「へえ。やっぱ建築系?」
途端に興味津々といった面持ちで彼は僕等の顔を交互に見た。宮っちもサークルに入ってはいない。その代わり毎日アルバイトに精を出している。どうやらアルバイト先で彼女ができたらしく、会うためにシフトを増やしてもらっているのだと一昨日聞いたばかりだ。
「いや……………悟が言うには“街歩きサークル”らしい」
「えっ。普通じゃん」
やはりな。宮っちにも一刀両断にされてしまう。
それはそうだ。大学どころか街のサークルにもごろごろ転がっていそうだ。
「………あのな、街歩きってスペシャルワードなんだぞ」
僕と宮っちが全く同じ感想を述べたことに多少なりとも不満を募らせているのか、悟は唇を尖らせて左右を交互に見遣ると芝居がかった仕草で首を振る。
「俺らさ、建築学科だから街歩きって言ったらどうせ建築物を見て歩くことを想像するだろ?だけどさ、日本文学科ならどうよ。きっと文豪の生誕地とか小説の舞台とかまわりたいって思うだろ?」
鼻息荒く滔々と語る。
「なるほど、ね」
悟の言わんとしていることが理解できた僕はそう呟いたが、向こうの宮っちはまだ気付いていないようで腕を組みながら小首を傾げている。
それを見た悟がやれやれと肩を上げ下げして言葉を続けた。
「つまり、歴史学科だったらそれが歴史的事件の場所や遺跡や遺構ってことだし」
「例えば、美術専攻だったら美術館巡りや街中のアート作品……ってうちに美術専攻なんてないか」
僕も助太刀をしてみる。すると宮っちも何か閃いたように傾げていたしゃんと首を戻すとカラコンで輝く茶色く丸い瞳を更に大きく見開いた。
「そうか!要は、何でもあり、なんだな」
その言葉を受けて、悟がわが意を得たりの表情でにやりと口角を上げる。
「そうなんだよ、めっちゃ便利なんよ、街歩きって言葉」
半ば笑いながら再び腕を組む悟は得意満面だ。
今は僕もこの案に乗ることにしよう、と反射的に感じる。確かに“普通”な案なのだが、何かに所属したいという僕等の欲を手早く叶えるには非常に都合の良い発想であるのは間違いなかった。
「いろんなジャンルを包括しまくってるよね、カフェ巡りや古本屋巡りとかでもいい訳でしょ」
援護射撃の意味で僕も同意の言葉をつなげる。
その時、バタンと大きな音がした。
音の起点を探すと、なるほど左側の教室の重い扉だ。
そういえば開閉音の間隔が短くなってきている。徐々に教室へ入ってくる生徒が増えてきていたからだ。そろそろ授業開始が近付いてきたかと、僕はリュックからペンケースを取り出すとスマートフォンを片手て操作してマナーモードに変えた。
そんな僕の行動に悟も気付き、足元のトートバッグを「よいしょ」という掛け声で持ち上げてノートを引っ張りだす。
何となくではあるが、二人まともこの話は終着地に達したなという満足感があった。右に座る彼も「あれ、スマホどこいった?」と独り言を零しながら右腕をバッグへ突っ込んで底の方を左右に探っている。
そんな授業前のまったりとした空気を引き裂いたのは、向こう側の宮っちだった。
「……でも、なんかずるいな」
前を向いて未だ机の上に置いたままのショルダーバッグを潰したまま、手を組んでいる。
「なんか、どうとでもなるように、って、誰かに何か突っ込まれたとしても、“逃げ道作っておきました”って感じがして。ずるいな」
相変わらず前を向いたまま静かに言葉を発する宮っちが今どんな表情をしているのか判然とせず少し不安になる。このまま剣呑な雰囲気にはなるまいか、と僕はこの場の空気を変えるべくどうにか悟をフォローしようと口を動かそうとした。
しかし、それより早く反応したのは、悟だった。
「まあ、俺はずるく生きることにしてるから」
いつもの悟の声ではないオクターブ下げたのではないかとも思える低い声だった。
その声が僕の右の鼓膜を震わせた途端、背中が粟立ったのが分かる。
宮っちも同じだったのか、少し下を向いたのが気配で分かる。ちらりとその手前の悟の表情を窺い見ると、その眼は虚空を見ている。
僕は初めて悟が守る何かに触れてしまったような危うさを予感していた。
実は、今まで僕は悟のことを自分から問いかけることは極力していない。何故なら、僕自身があれこれ探られることが得意ではないからだ。探られた結果、前世のAの存在を醸し出すような失敗をしてはならない。普通の人間は前世の記憶など持ち得ないのだと、小学五年生の時はクラスメイトの陸斗に打ち明けて満足していた鈍感な僕だって、小学校を卒業する頃にはちゃんと自覚していた。
「そだ!」
急にいつもの声で悟が身体ごとこちらを向く。
「ナギ、誕生日おめでとう」
もしかして、さっきの声は僕の見た白昼夢なのだろうか。
そう錯覚するほど、悟が雨上がりの朝そのものの弾けた笑顔で祝福の言葉を発するものだから、僕は心の中で一層たじろいだ。その向こうにいる宮っちも一瞬虚を突かれたような表情を見せたが、悟の言葉が既に次の話題に切り替わっていることを一つ頷いて理解すると、悟の笑みが伝播したようなそっくりな笑みで静かに笑って「おめでとー」と祝ってくれる。
僕はすぐに「ありがとう」と言うべきだと判ってはいた。だけど口を動かしてわざわざ音声にした言葉は自分でも戸惑う程に異質なものだった。
「ずるさは、賢さ……だよ」
悟の笑顔が少しだけ、歪んだ。
1秒前まで聞こえなかった桜並木の葉擦れが渦巻く風にのってこんな所にまで届いた気がした。




