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忌避 ⑨

今日の一限は「近代建築史」だ。

だから、僕は正門から続く青葉の並木道を抜けると、行き慣れている右へは曲がらずに3号棟まで真っ直ぐとのびる幅広の道をいつもより大股で進んだ。

20メートル程進むとすぐに3号棟の白い校舎が見えてくる。中央のエントランスに僕が近付くと、朝の静けさの中で悠々と歩き回っていた数羽の名も知らぬ鳥が、水が大きく跳ねる時のように一斉に飛び立った。

僕は、3号棟に入ってすぐのエレベーターのボタンを押し、頭上のランプで現在の階数を確認すると、今しがた三階を出発したばかりの上りエレベーターであることが分かった。これでは階段を使った方が早いな、と溜め息を一つついてすぐに横の階段へ向かう。

幅広の階段を一段抜かしで上がる。いつもよりも30分も早く到着したからか、行き交う生徒もまばらで、そんな静けさも相まって空気が澄んでいる。浮かれ始めた気分とともにリズムをつけて大きく脚を開いて階段を上っていくと、目的地の四階に着く頃には息があがっていた。

(サークル、やっぱ何か運動系にした方がいいんじゃないかな………)

息も絶え絶えに右手で胸を押さえてどうにか宥める。到着したばかりなのに、リュックから水筒を取り出して早速喉を潤した。


「301」と書かれたプレートの文字がまだ朝日とも言える東から差し込む光に反射しながらきらりと光る。その眩さを横目に扉を開ければ、悟の姿はすぐに認められた。

階段教室の後ろから四列目。教壇からは十分に距離をとり目立ちにくく、それでいて全体を見回すことができる、僕等にとって落ち着ける位置だ。

悟は僕の視線や気配に気付くこともなく右腕で頬杖をついて目を閉じている。ひょっとしたら眠っているかもしれなかった。


「おはよ」

リュックを肩から下ろしながら階段を上がり、あと三段というところで声をかける。

途端に肩をびくりと震わせて悟が顔を上げた。急いで開いた瞳の焦点が合っていない。

「……うぅ………んんー………」

僕には解らない言語を発する彼が両肩だけで伸びをする。その様子は動物園で暇を持て余している名ばかりの猛獣にも見え、少し滑稽だ。

僕はその左隣の席に腰掛けながら、更に左の椅子を倒してどんっと荷物を置く。テキストが何冊も入ったリュックは重い。

すると、

「遅いっ!」

と幾分の苛立ちを孕みながら悟が強めに言い放つ。

「俺、誰もいない教室で40分も待ったんだけど。全然来ないし。マジで暇すぎて寝たわぁ」

「いや、あれ見てすぐきたわりには早いでしょ。むしろ眠れて良かったじゃん」

授業が始まるまではまだ小一時間あるが、いつもの癖でテキストとノートを取り出して奥行きのない机に並べる。

「いやいや。こんなに明るいのにさ、誰もいないってだけで………んー、なんていうか、恐いなーって思ってさ、じゃあ見ないようにしようって目を瞑ったらさ………まあ………寝ちゃってた………かな」

全くもってこの話の要点が僕にはよくわからないのだが、悟は真面目な顔つきで腕を組むとつらつらと話を続ける。

「そんでさ、夢ってほどじゃないんだけど突然“何か”が降りてきた気がするんだよな。なんだろうな。朝ってある意味、神秘だよな」

「ふーん」

組んだ腕の上を人差し指がとんとんと叩くように動いている様を横目に僕は気のない声を洩らした。早朝ならいざ知らず、この時間帯に神秘性は感じない、と内心思う。

しかし、悟からの返事がない。

「………で、何が降りてきたのさ?」

腕を組んだまま目を閉じた悟を促すように、彼の方を向いて問いかける。

「………………んんー………………」

唸るような声しか聞こえてこない。まさか、と思い右手で悟の左肩を大きく揺らした。

「おい!ちょっと!二度寝すんなよ」

ぐらぐらと頭を前後に揺らす。がくんがくんと面白い具合に悟の端正な顔が揺れる。

しばらく揺らすと、ついに悟の脳内もぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまったのか、彼は

「へへへぇ」

とにやけた顔で笑い始めた。

「おーい、気色悪い声だしてないでさ、そうだ!サークルのこと教えてよ」

これ以上眠らせないように話題を変えながら悟のTシャツの肩から手を離す。何かが降りてきたなんて、どうでも良い。そういえば、このブルーのヴィンテージTシャツはここ最近の彼のお気に入りだ。肩口を強く引っ張ったから、首元が伸びてしまってはいないだろうか。そんなことが少しだけ気になるが勿論口にはしない。

「あぁ、サークルね!」

悟も特に気にしていないようで、再びぱちりと目を開くと大袈裟に手を叩いた。

人もまばらな教室に乾いた音だけが響いて、前方に陣をとる女子学生達がこちらを振り向いた。僕は彼女らに軽く会釈をして謝罪の意思を示すと半身を右に向けた。

「そうそう。何に決めたのさ」

悟が話しやすいように水を向ける。

案の定、悟は気分良さそうに右の長い指で前髪をいじりながらこちらに自信に満ちた視線を送ってきた。

「………………街歩きサークルだよ」

「……………………」

なんだろう。

満を持して放ったであろう彼の言葉は、僕の心には一切響かない。空虚と化した胸の裡で“街歩きサークル”という言葉だけがくるくると回り続けている。

うん、やっぱり、響かない。

何故ならそれはあまりにも平凡で、巷にありふれていて、想像の範疇だったからだ。

「………………普通すぎない?」

つい本音が洩れる。

自信を持って発表した悟には悪いが、わざわざいつもより早い時間に僕を呼び出す程のクオリティではない。

(はぁ。さて、どうしたものか)

僕も腕組みをしながら悟に投げる次の言葉を考えていると、急に右側の彼の向こうに大きな影がにゅっと現れ、徐々に近付いてくるのが見えた。

「おっはよ」

その影が悟の右隣の席で立ち止まった。


宮っちだ。

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