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忌避 ⑧

僕の誕生日である6月25日は朝から気持ちよく晴れた。

今日は少し暑くなりそうだ、と自分の部屋でオーバーサイズのグレーのシャツとケミカルウォッシュのジーンズを選ぶ。身支度を整えた後で昨日の雨で濡れたリュックに触れると、いつの間にかすっかり乾いていて、その肩紐を右肩にかけてみると昨日より少し軽い気がした。

スマホをポケットに入れて部屋を出ようとドアノブに触れた瞬間、何か大事なことを忘れているような気がして大きく振り向く。背中のリュックがドアに強く当たってその振動がドアノブから人差し指に伝わった。

「あ、時計」

声に出してデスクまで戻れば、それは朝日を浴びて静かに存在を主張していた。ひんやりとしたバンドを手にとり、とうに慣れた手つきで左手首にまわす。途端に重みを感じるこの左腕に僕は何とも不思議な安心感を覚えた。


リビングに向かうと母も仕事に出る支度をしていた。そういえば父の姿がない。どうやら最近は新しい部署の立ち上げに関わっているらしく、急な出張が増えていたり、それがなくても朝早く出社する日が多く、一日顔を合わせないことも増えていた。


「ねえ、凪沙」

母が水筒を大ぶりの茶色いバッグに入れながら僕に声をかける。その声に僕は振り向いて応えたけれど、彼女はついでにバッグの中身を整理しているようで顔を上げない。だから、声を出してみる。

「なに?」

マグカップに半分ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干した。ああ、コーヒーを飲みきっていなかったことを歯を磨く前に気づけば良かった、と朝から一つ目の後悔がやってくる。

「うん……」

ようやく手を止めた母が少し言い淀んだ後、いつもの調子で手際良くファスナーを引くと顔を上げた。

「…………あれは、最近も見てるの?」

片手に空のマグカップを持ち、早く片付けてしまおうとキッチンの方角へ右足を向けた僕を正面から見据えてくる。

軽い問いかけを装いながらも母の眼は真剣味を帯びていた。

“あれ”とは前世のことだとすぐに分かった。

「ううん、ここ3年ぐらい見てないかな」

咄嗟に嘘をつく。

父も母も僕が幼い頃から主張した“幻覚のように現れる前世の記憶”を、今となっては疑うことなく信じていてくれている。幼い僕が訥々と話す記憶は一見すると支離滅裂なようだが、徐々に記憶と社会的出来事の辻褄が合っていることに気付いたようだ。

僕が見る記憶は前世のAの感覚を通した全く個人的なものに違いないのだが、その中には当時観ていたテレビ番組や口ずさむ流行歌が時折挟まれる。リアルにその時代を生きていた両親にとって、時に息子が知るはずもない時代の匂いを纏い、両親の思い出話にも音もなくすんなりと溶け込むことがあるという経験の積み重ねが、何よりの信憑性を帯びる証拠にもなっていた。

(俺が父さんや母さんだったら、ちょっと“怖い”とか思うだろうな)

そんなことを考えるようになったのは、中学生になった頃だっただろうか。

小学生の時は映像が現れる度に嬉々として両親に報告していた“記憶”のピース達は、いつしか僕の中で避けるべき話題に分類されるようになった。

本音を言えば、この流れ込み続ける情報量が早晩僕のキャパシティから溢れてしまうのではないかという不安と、いつまで経っても咀嚼しきれない記憶の波を、僕の話を信じてくれている両親と共有し、安心したい。だが、僕には言わないだけで、両親にとっても我が子の身に起きる不思議な現象を理解することは大いに負担になっているのではないかという不安が拭えなかった。いつか、彼等がそれを煩わしいと思うようになり、僕もろとも放り出されてしまうのではないか、と。

仕方がない。父と母の真意が分からない以上、ここまできたら“わりと頻繁に記憶が蘇るのです”と真実を吐露することはもはや不可能で、のらりくらりと躱していくしかない。


「……………そうなのね」

母は僕の言葉を予想していたような、そしてもう既に何かを諦めているようなため息をついて、テーブルの上の鍵を手にとった。鍵についた大ぶりのキーホルダーがじゃらりと揺れて音を立てる。それは僕が高校二年の修学旅行先で買ったスズランを模したお土産だった。その儚げな花の部分をぎゅっと握りしめる母の顔にはいつの間にか菩薩のような穏やかさが浮かんでいた。


そうか、諦めているのではないのだ。

あれは安堵のため息だったのだ。

息子が自分達には到底掴むことのできない数多の記憶を行き来して知らず疲弊し、場合によっては崩壊し、いつしか前世の人格に蝕まれていくことをきっと恐れているのだ。

僕はやっぱりこの母親の子だから。

それが、今わかってしまう。


ポピンと軽やかな音が鳴る。

ポケットからスマートフォンを取り出すと画面を片手で操作した。

案の定、悟からのメッセージ通知だ。


『サークル考えたから早く来たれい!』


今日も朝から元気なようで何よりだ。

僕は『はいはい』とだけ打ち込んで、マグカップをキッチンのシンクへ置いた。母さんのパン皿とマグカップも洗わずに置いてある。

(早めに帰って俺が洗わないとな)

マグカップにいくらかの水を満たすと壁にかけてあるふきんが揺れる程に盛大にため息をつく。

このため息は紛うことなく“諦め”だ。


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