忌避 ⑦
(……あの親子、また来てくれるだろうか………)
一昨日の出来事を思い出して胃のあたりが一気に重く感じた。ここのところ、書店が続々と閉店や廃業を余儀なくされているという話は僕でも知っているし、アルバイト先でも社員や先輩バイトの間でそんなことが度々話題に上っていることも知っている。そんな苦境の瀬戸際に立たされている業界で、僕が意図せず客を減らしてしまったかもしれない、と思うと居た堪れなかった。正直なところ、見知らぬ親子の気分を害してしまったという後悔よりも、自分に良くしてくれている書店スタッフの日々の努力を少しだけかもしれないが無駄にしてしまったという罪悪感の方が大きい。
リュックごと背中を丸めて、随分と濡れてしまったスニーカーのつま先を眺めながら、右、左、右と足を義務的に運ぶ。一見美しいアスファルトの歩道も、雨が降れば所々に小さな水たまりができていることが分かる。晴れた日には気付かない程の僅かな凸凹が、低い方へ低い方へと流れる水の介在によって一気に暴かれる。僕は、今もまた規則的に、半ば無理矢理投げ出した右足のつま先で、悟の部屋で見たタブレット程度の大きさの水の窪みを蹴った。大小の飛沫が四方八方に飛び出し散らばってはアスファルトに消え、その景色には囚われの誰かを救い出したような安堵感がある。
「………………雨、止んでるよ」
ずっと下を向いていた所為で僕の傘は前方に傾いていた。
声はその先から飛んでくる。
果たしてこの真っ直ぐな響きは僕に向けられたものだろうか。
傘の角度はそのままに目線だけ前に動かして様子を窺うと、黒い厚底のショートブーツが視界に入った。
見えているつま先は濡れておらず、いや、薄日に照らされて乾いた歪な丸い雨の跡と微かに揺れるレースが映っている。
「……………だからさ、雨、止んでんだけど」
もう一度先程より若干語気を強めたよく通るクリアな声が傘のナイロンの布の向こうから飛んでくる。
僕が肩を跳ねさせて反射的に傘を横へ傾げると、骨を伝って小さな雨粒が滑るようにアスファルトへ落ちた。
開けた前方の景色に人の形の黒い影が現れる。雨上がりの夕陽を背負い、それは逆光となってすぐには僕の脳内に全ての情報を与えてはくれなかったが、更にもう一粒、僕の右手の傘の水滴が落ちる間に徐々に目が慣れてくる。
黒いブラウス、黒いレースのようなスカート、たしかこんな感じのものを“チュール”と誰かが呼んでいたような気もする、そして黒のショートブーツ。刹那の逆光の中で覚えた既視感に間違いはない。いつかの桜並木の彼女だ。
僕は傘の骨を束ねて、一度だけ軽く振る。道路にできた小さな水たまりに波が立ってすぐに水面にのみ込まれる。その様子を一瞥して視線をもとに戻すと、やはりそれは幻覚ではなく、確かに彼女は目の前にいた。
僕が傘をたたんだことに満足したのか、彼女はストレートボブの毛先を指先で撫でながら、満足気に口角を上げると踵を返す。僕が歩いてきた悟のマンションからの道に背を向けるということは駅へと向かうのだろう。
肩にかけた黒いエナメルの鞄に添えた指先にモーヴピンクのネイルが光る。その柔らかい光を見て、
(こういう人って、指先も黒かったりするのに、この人は違うんだ……)
などと考え、急いで頭を振る。
ほら、また“決めつけ”ている。
記憶に起因するダブルスタンダードがそうさせている訳ではなく、これはきっとただの偏見だ。
これ以上落ち込まないよう自らを律していかなければ。
そんなことを考えていたら、気付けば彼女との距離が少しずつ広がっていた。
僕は呆けたように、しばらく鉢の中を揺蕩う金魚の尾びれのように揺れるスカートを見ては
(きらきらしてて、綺麗だな)
と眺めていたのだが、頭とは裏腹に不思議と僕の足は自然と動き始める。
右、左、右と何かに衝き動かされるように、数分前とは見違える力強さで歩を進める。
そして開きかける彼女との距離を詰めるよう、夢中になって駆けるように足を運んだ。
「………………………………。」
だからと言って声をかける訳ではない。
その距離が二メートルにまで縮まったところで僕は速度を落とし、それ以上近づかないように注意を払いながら後ろにつくように歩いた。
そのまま黙って歩き続け、前方の肩のあたりで左右に跳ねる髪を見つめていると、不意に何やら得体のしれない疚しさがこみ上げてきて、僕は目線を少し彷徨わせると彼女の頭上に広がりかけた淡い夕焼けの空を見つめた。いつの間に雨が上がり、重苦しく厚かった雲の隙間に晴れ間まで覗いている。当たり前のことなのだが、僕があれやこれやと考え落ち込んでいる間にも、時は経ち街の景色は巡る。そのことが、どこか淋しくも頼もしく思えた。
僕は今、確かに生きている。
時の移ろいはそのシンプルな事実を再認識させてくれる。
「君、一年生?」
突如、振り返りざまに彼女が言う。髪が一層激しく跳ねて彼女の白い頬を叩いた。
「あ、はい」
面食らった僕は情けないほど細い声で反応するしかなかった。彼女の毛先の一筋が頬の先にある口唇の端に引っかかっている様子にどきりとする。見つめてはいけないような気がして視線を耳あたりまでずらし、何の形なのか皆目わからない歪なシルバーのピアスを見つめてみる。
「私、二年。文学部」
単語で伝えられる。目が合っているわけではないのに、彼女が僕の目を斜め前から凝視している気配だけはわかった。
「………………………………。」
彼女の言葉の単語の羅列に対し、僕の強張った口元からは言葉が続かない。そうなんだ、僕は小さい頃から、こんな突発的な出来事には弱いのだった。
前世の記憶を持ち得ている分、年齢以上にあらゆる事象の対処方法は備わっているはずだった。想定でき得る範囲内での対応は我ながらそつがないと思っているのだが、それに反して“経験のない”ことには頗る弱い。勿論、世の中の18歳の多くは似たり寄ったりなのだが、まわりの同世代より格段に長く生きている、と思っている自分としては、うまく立ち回れない時の落差はとんでもなく大きい。
今回も例に漏れずフリーズしてしまった脳のどこかで、僕の安っぽい矜持とやらが涙を流していた。
「やっぱり、似てるね、君は」
がちがちにただ突っ立っているだけの情けない僕のことなどお構いなしに、目の前の黒ずくめの女性は、ずいと一歩前に踏み出してしげしげと僕の顔を見つめる。春のあの日と同様に突然近づいてきたその瞳はどことなく淡く茶色い。
「え、誰に?」
彼女の突然の暴露にはさすがに僕も素早く反応せざるを得ない。
しかし彼女は再び黙り込んで身を翻すと、駅までもう振り返ることなく、ただ湿った靴音だけを鳴らす。僕も相変わらず二メートルの距離を保ちながら、時に小走りとなってその名も知らぬ無口な背中を必死に追う。このままついていけば、いつか答えをくれるような気もしていた。
僕等はそのつかず離れずの曖昧な状態を保ち続け、ついに駅の改札まで辿り着いた。
彼女はまるでどこかの貴族のような優美な動作で鞄からスマートフォンを取り出すと細い腕で空に軽く弧を描いて改札機にかざす。一方で僕はリュックの肩を片方外して外ポケットを探るがICカードをいれたパスケースが何かに引っかかって中々出てきてくれない。
ついに僕と彼女の距離が広がった。何に起因する焦りかもわからず、苛々としながら額に汗が滲むのを感じる。
「……………………………私にもわかんないな」
改札の向こうから聞こえた待ちわびていた答えは、そんなふわりとした綿あめのようなもので、この駅の騒がしい乗降客の間を縫うように僕の耳に届いた瞬間、方々に散って消えた。
彼女はちらと瞳だけをこちらへ寄越して僕の何とも言えない反応を確認すると、僕の帰り道とは反対の2番ホームへと消えていった。
隔たれた改札の入り乱れる人々の向こうから発車メロディが微かに聞こえる。
僕といえば、ようやくポケットから無理矢理引っ張り出した革のパスケースの角に無数の細かな皺が寄っている様子を目で捉えては息をつくしかなかった。
『本日、構内は雨で大変滑りやすくなっているため、足元には十分お気をつけくださいーーーーー』
先程から繰り返される親切すぎるアナウンスが、今はやけに耳障りだ。




