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『佐治 恵美子』の忌避 ②

(早く帰らなければ……)


この後の段取りを考えれば、すぐにでも退社してケーキを受け取りに行く必要がある。

あのパティスリー・ジェイの看板商品でもある深紅のホールケーキ。華美で技巧的な見た目もさることながら、しっとりとしたスポンジとなめらかなムースの間に甘酸っぱいラズベリーソースが挟まれていて、その甘さと酸味のバランスの妙に数年前の凪沙の誕生日に初めて口にして以来すっかり虜だ。凪沙も普段は食に対して特に興味も含めて旺盛ではないのだが、やはりこの味は癖になるとみえて、ホールで買った夜は六等分したうちの二切れを食べる。翌日の朝にも同じ分だけ食べるので、都合三分の二は彼の胃袋におさまるという訳だ。私達は彼が見せるその珍しい執着に目を細めて朝食をとる。恐らくその無言のやり取りそのものが我が家の幸福の縮図で、ここのところ佐治家にとって特別な日の定番はこの店のケーキとなっている。

この休憩室でもう少しゆっくりするとしても、できれば受け取りの時間には間に合わせたい。わざわざ電話で受け取りが遅れると連絡するのはどこか億劫だ。だが、連絡しなかった結果キャンセル扱いされてしまっては最悪なので、やはり間に合わないと思った時点で早めに連絡を入れよう。いや、それよりも今この場を離れて退社すれば何ら問題はないのだから、一秒でも早く動き始めれば良いのではないか。

私はそうぐるぐると逡巡しながら足元の黒いエナメルのパンプスの爪先で何度か円を描くが、それがなかなか一歩を踏み出す軌跡にはなってはくれない。

(わかっている)

凪沙との今朝のやり取りに一抹の後悔が残るものだから、それが横隔膜の裏側あたりに泥のようにへばり付いて、コーラを勢い良く流し込んでも剥がれ落ちてくれないのだ。

私とて口火を切ることに迷いがなかった訳ではない。

けれども、未だ決定していない意思を無視して私の肉体は声を先に発してしまった。私自身も驚くほど明瞭に。

そして、それは予想通りとでも言うべきか、彼は私の「あれは、最近見ているのか?」という問いに「3年ぐらい見ていない」と言った。

“あれ”とは彼が時折見るという前世の記憶の白昼夢のような映像のことだ。いつから見始めたのか私には正確にはわからないが、遅くとも幼稚園に通い始めた頃には始まっていたのだろう。

ある晴れた夏の日の帰り道、迎えに行くと凪沙が一目散に私の元へと走ってきた。何をさせてもおっとりとしている彼の珍しい行動に私は目を白黒させたことを覚えている。そして帰りの道すがら、幼稚園児には言語化すら難しいその現象を彼はたどたどしい言葉の羅列で熱を持って説明してくれた。つないだ手の平のじっとりとした汗もいつもより熱い気がした。

見上げれば伸び上がる猫のような入道雲が天気の変わり目を予感させる。

凪沙は前髪を小さな額に目一杯張り付けて私を下から覗きこんだ。


“白い、紙がね、すっごくたくさんね、飛んでってね”

“白い紙ってなあに?”

“うん………わかんない、でね、音がタララって鳴ってからね、階段のぼってね、でも転びそうになって危ないって思ってね”

“凪沙、落ち着いて”

“うん、うん…………でね、そなた、そなたって聞こえてね、誰か知らない人が言うの、そなた、そなたって”

“ん?そなた…………ってなに?”

“わかんない”

“もしかして、ソナタ?”

“……………………?”

“ねぇ、凪沙?それって、ソナタ?……音楽の?”

“……………………?”


息子は夢を見たのだと素直に思った。

幼稚園にお昼寝の時間はなかったが、先生が絵本を読み聞かせる時間がある。きっとうたた寝でもしたのだろう。

だが、何故だろう。腑に落ちない。

夢なんて、いつだって辻褄など合ったためしはないし、時に理不尽で欺瞞を含んでいて暴力的だ。そこに現実世界のルールを当てはめること自体がナンセンスだ。

ただ、たとえ天衣無縫な存在であっても、自身が“知らない”ことを登場させるには、いくら何でもありの世界とて難しい気がする。

あの夏の帰り道のやり取りを一言一句を覚えている訳ではないが、確かに凪沙は“ソナタ”と言った。音楽教室に通ったこともない幼稚園児の彼がソナタという言葉を知っているとは考えづらかった。幼稚園で先生が話したことがあるのか。どこかで読んだ絵本にその言葉が登場するのか。

私は足を止め、汗で滑る手から凪沙の小さく柔らかな手の平を解放すると、肩に掛けたバッグからハンドタオルを取り出してその手を拭いてやった。水色のタオルで何度か撫でてやるうちに、自分の波立つ心も凪いでくる。

(きっと知らずのうちにどこかで覚えたのね)

そう結論づけると、すっかり喉が渇いていることに気付く。

「ねぇ、凪沙。ジュース飲んで帰ろっか」

再び手を繋いで彼に目線を合わせるように腰を落とすと、目の前の黒い宝石のような丸い瞳が輝きを増した。

入道雲の隙間に灰色の影を見た気がしたが、天気が崩れるのはまだだいぶ先だ。

ジュースを楽しむ時間は存分にある。

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